2025年04月06日「神の言葉と人の言い伝え」

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神の言葉と人の言い伝え

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
マルコによる福音書 7章1節~23節

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7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 7章1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約>2025年4月6日 マルコ7:1-23 「神の言葉と人間の言い伝え」

今日の箇所、新共同訳聖書がつけている小見出では「昔の人の言い伝え」です。
7章1~5には、「言い伝え」に類する言葉が何度も出てきます。「昔の人の言い伝え」「昔から受け継いで固く守っていること」「人間の戒め」「自分の言い伝え」「受け継いだ言い伝え」などです。
主イエスの時代、ファリサイ派の人々やユダヤ人、つまりユダヤ教の指導者たちは「言い伝え」を守っていました。その指導者たち数名がイエスの下へやってきた、というのが今日の話の始まりです。
主イエスの評判がエルサレムまで届いて、指導者たち数人がその評判を確かめようとやってきたのです。しかし彼らは、主イエスの教えを聞く前に、主イエスの弟子たちの態度につまずきました。
7:2イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。からです。この話は衛生上の問題ではなく、宗教的な汚れの問題でした。
「手足や体を洗いきよめてから食事をする」というしきたりは、旧約時代に祭司が神殿で奉仕をする前に手足や体を洗いきよめるという、旧約聖書の命令(出30:19,40:12)がもとになっています。当時のユダヤ教の教えの中で守るべき中心的な教えは、旧約聖書のモーセ律法、十戒が神の律法の中心でした。けれど、当時の人々はこの律法を軽々しく犯さないために、律法の規定に加えて、さらに細かい規定を設けていたのです。あるいは、本当なら祭司だけが守ればいい規程を、一般人にも強要したり、律法が明確に述べていない部分を細かく規定したりして、その結果、守るべき言い伝えや教えの数が膨大なものになっていました。もともとは、神の律法を正しく守るために作られた言い伝えなのですが、それが積み重なって、守るべきことが次々に増えて、それが民全体の生活に重くのしかかっていたのです。
そして彼らは神の律法も、律法の解釈や解釈が作り上げた習慣も、同じように権威があるものと考えていたのです。
この個所、注意して読むと、マルコは神の律法と人間が作り上げた言い伝えを区別して記しています。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と。
つまり、「食事の前に手を洗い清めよ」というのは、神の律法ではなくて、昔の人の言い伝えなのです。

この問いに対して、主イエスは、旧約聖書の言葉、つまり神の言葉を用いて答えておられます。
7:6「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 と。
主イエスは、エルサレムからやってきた指導者たちを、旧約聖書のイザヤの言葉、神の言葉を使って「偽善者」と糾弾なさったのです。
そして、主イエスは、
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」といわれました。
先ほども言いましたが、「昔の人の言い伝え」「昔から受け継いで固く守っていること」「人間の戒め」「自分の言い伝え」「受け継いだ言い伝え」と呼ばれているものは、それが律法の解釈であれ、適用であれ、基本的に神の言葉そのものではない。人間がつけ足したものです。
それを神の言葉ときちんと区別しなければ、結局は7:8「神の掟を捨てる」ことになる。7:9「ないがしろにする」ことになる。7:13「無にする」ことになる。と指摘されたのです。
指導者たちは表面だけ敬虔を装っているが、心は神から遠く離れていると主イエスは非難されたのです。

その後 主イエスは、9節から13節で、実際に当時の言い伝え、教えを例に挙げて、律法、神の言葉を無にしている実例を示されました。
モーセ律法の第5戒に「あなたの父と母を敬え」という教えがあります。しかし、当時の人々は、
7:11-12もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
「コルバン」とは、「主へのささげ物」(レビ1:2)を意味するヘブライ語です。コルバンとしていったん神にささげられた物は、聖別されて、もはや日常の事柄のために用いることは出来ないのです。
例えば、息子が両親に対して、自分の財産は「コルバンである」と宣言すれば、たとえ両親が年老いて助けを必要としていても、扶養義務から逃れることが出来たのだそうです。
「コルバン宣言」は、「受け継いだ言い伝え」の一例なんですが、「神へのささげものをします!!」という宣言なので、立派な宣言のように聞こえます。ところが、実際には「あなたの父と母を敬え」という十戒の第5戒、大切な神の言葉を骨抜きにしてしまっているのです。これと同じようなことが、当時たくさんあって、主イエスはそのような事柄にいろんな場面で反対しておられます。
形式や外観だけに捕らわれるとき、中心的な神の教えを見失ってしまうという実例です。
同じようなことが、私たちの信仰生活や、礼拝形式にも当てはまることがあるかもしれません。注意が必要です。
そして主イエスは、20‐23節で、手を洗わずにものを食べるから汚れが体の中に入るのではなく、人の心の中に罪の汚れがあるので、悪い思いは人の内側から出てくる、と教えておられます。人の心に罪があるから、人間の内側から、言葉や行為となって罪が生み出され人を汚すのです。
残念ながら、それが私たち人間の姿です。

律法学者たちは、自分たちの罪を取り繕うために、人間の教え、戒めを次々に加えていきました。そして、実際には、それらにがんじがらめになって身動き取れない状況だったのです。
ですが、神の掟、神の言葉は、そんなに複雑なものでしょうか? 神の掟、律法の精神は、本来単純です。
神の掟、律法の中心は「神を愛し、隣人を愛すること」それだけです。
しかし、私たちが神のみ前で、真実に、神を愛し、隣人を愛して生きようとするとき、それができない自分を見出します。心から神を愛することができない自分、神を第一とすることができない自分の思いを自覚します。隣人よりも自分を優先しようとする自分、心から隣人を愛し、行動できない自分であることを思い知らされるのです。
神の掟、律法を前にした時に、私たちは自分の真実の姿に直面し、自分の罪を自覚します。
そして、それを取り繕ったとしても、神の目を欺くことはできません。
しかし悲しいかな、生まれたままの私には、心に罪があり、それが言葉や行いとして表面に出てくるのです。
7:20b-21 人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。とはそういう意味です。

しかし、神の福音には大きな希望があります。私たちの内側にある罪の解決のためにキリストの十字架があるのです。
私たちは、罪があり、神の前にまっすぐに立つことができない者ですけれど、どれほど大きな、深い、罪でも、悔い改めてキリストを受け入れるとき、キリストのゆえに赦しが与えられます。神は、主イエスを信じて生きる者を、キリストにあって受け入れていてくださいます。

ですから、イエス・キリストの十字架を受け入れた私たちは、神や人の前で自分を取り繕う必要はありません。あるいは自分と人を比較して、苦しむ必要もありません。
「わたしの愛する子」と主イエスに言われた神が、同じように、私に目を留め、子どもとして受け入れ、人生の歩みを配慮し、導いてくださいます。
ここにいらっしゃる皆様は、神に愛され、受け入れられているお一人一人です。
ですから、今置かれている環境の中で、神を愛し隣人を愛する努力をしながら、歩んでいけばいい。 
そんな私たちの歩みを神は喜んでくださり、祝福を与えて下さるのです。

詩編91編14‐16節「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」

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