2020年08月30日「罪が消し去られるように」

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罪が消し去られるように

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 3章17節~21節

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ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 3章17節~21節

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<説教要約>
使徒言行録3章17-21節 (新約 P218)
説教 「罪が消し去られるように」 
今日は使徒言行録3章17節から21節までを見ていきます。

ペトロは3章16節までで、イエスのことを「神が遣わしたメシア」と紹介しました。しかし同時に、その方を十字架にかけて殺したのは、ユダヤ教指導者たちであり、またあなたがた群衆でもあると指摘しています。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」(使徒3:15)と。
しかし、今それを指摘され、それが分かったとしても、いったい何の意味があるでしょうか? すでにイエスを殺してしまったのですから、その罪を過去に戻って消し去ることはできません。
しかし、ペトロは「兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」(使徒3:17)と話し出したのです。
イエスを殺した罪の責任を追及されるなら、どうすることもできません。しかし、無知ゆえに、知らずにしたことだから赦される道があるとペトロは語ります。
「しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。」(使徒3:18)
実際にイエスを十字架につけて殺したのは、ユダヤ教指導者をはじめここにいる群衆たちですが、しかしその背後に、神のご計画、永遠からの救いの計画があったと指摘するのです。
不思議なことに神は、神が遣わしたメシアを殺すという、考えられないような人間の罪を用いて、その人間たちを救うご計画を進められたのです。
神は、時にこのようなことをなさいます。人間の罪や過ちも用いて、ご自身のよき業をなさる。私たちの罪や弱さや足りなさも神はお用いになって、それを益としてくださる。神のなさることは、私たちの理解や想像を超えているということでもあります。

そしてペトロは、私たちの想像を超えて私たちに寄り添ってくださる神のもとへ立ち帰ることを勧めます。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(使徒3:19)
19節はとても重要です。全体の翻訳と、3つの言葉の意味を確認したいと思います。
19節は「悔い改めて立ち返りなさい」という命令文があって、その目的として「自分の罪が消し去られるために」となります。つまり、罪が消し去られることが目的で、その手段として「悔い改めて立ち返る」ことが教えられているのです。
イエスを殺した罪の責任を追及されるだけであれば、もうこれは過去に犯してしまった罪ですから、彼らにはどうすることもできません。しかし、悔い改めて神に立ち帰ることで、罪が消し去られるとペトロは言います。
次に、「罪」「消し去られる」「悔い改め」という三つの言葉を確認します。
①「罪」とは何でしょうか?
辞書には「道徳・法律などの社会規範に反する行為」が罪だと説明されています。
しかし、聖書的の定義、あるいは神の前で「罪」の定義はそうではありません。
ヨハネの手紙一3章4節に「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(1ヨハネ3:4) と教えられています。 ここでの「法」とは「神の律法」のこと。神の律法の中心は十戒に教えられていますが、イエスは十戒をさらにコンパクトにまとめて教えています。
マルコ12章29-31節です。
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)
もっと端的に言うと、神の律法とは「神を愛することと、隣人を愛すること」。そしてこれに背くことが罪だということになります。さらに聖書で言う罪とは、行為だけでなく心の思いまでが含まれるのです。
ペトロはここで、神の御子であるイエスを十字架につけた罪を指摘していますが、この行為は「神を愛すること」と「隣人を愛すること」この両方に背く大きな罪です。
②「罪が消し去られる」
では、そのように大きな罪、しかもすでに犯してしまった罪が「消し去られる」などということが、起こりうるのでしょうか? 
「消し去られる」と訳されている言葉は、「拭き取る」とか「取り除く」という意味の言葉です。普通に考えれば、犯してしまった罪はもう取り返しがつきません。ですが、神はそれを「消し去ること」「拭き取ること」「取り除くこと」がおできになるのです。犯してしまった罪を消し去る方法、取り除く方法が「悔い改めて立ち帰る」ことです。

③「悔い改めて立ち帰る」
「悔い改めなさい」は、イエスご自身が福音宣教を開始される時に、最初に言われた言葉です。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と。イエスは、ここで悔い改めと福音を信じることを命じています。
聖書が語る「悔い改め」については、礼拝説教の中でも何度もお話ししてきましたが、もう一度確認します。一般的に「悔い改める」という言葉は「悪いことを反省する」というように使います。しかし聖書ではそうではありません。「悔い改め」とは、まことの神へと立ち帰ること。自分だけを見つめる生き方から、神を見上げる生き方へと方向性を変えること。神に喜ばれる生き方、神に従って生きること。そして人生のすべての重荷を神にゆだねること。これが聖書の教える「悔い改め」です。
神に立ち帰ること、キリストを信じる信仰を通して神を見上げることで、すでに犯してしまった罪も、これから先の罪や過ちや失敗も、すべて神は消し去って下さるのです。

次の20、21節は世の終わり、神の国が完成する時のことです。
3:20こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
「慰めの時」とは、神の愛の中で息をつくことができる時、平安が回復される時のこと。ここでは、神の国が完成する時のことを指しています。その時イエスがもう一度私たちの所へ来て下さり、悔い改めた者たちは神の恵みの完全な支配の中で、安心して生きることになるのです。
3:21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
ですが、万物が新しくなるその時まで、つまり世の終わりの時、神の国が完成する時まで、イエスは私たちからは離れて、天に留まっておられます。
特に21節が意味することは、神の国が完成してイエスが私たちのもとに来られる、そういう決定的な状況になる前に、一人でも多くの人が神に立ち帰るように!という勧めです。

今朝は「罪」について、もう少し深く考えたいと思います。
ローマの信徒への手紙で著者パウロは、「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23) と教えています。
「罪の報酬」、つまり罪によって私たちに与えられるものは「死」だと教えているのです。
さらに、ルカ福音書には「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:3)とあります。罪が支払う報酬、報いは滅びなのです。私たちが悔い改めて神との関係を回復しないまま地上生涯を終える時、与えられるのは滅びでありそれが永遠の死です。これは神の恵みからの永遠の追放です。
全ての人は、世の終わりに神の前に立たなければなりません。人はそれぞれ、神の前に立って自分の人生の歩みについて、神の評価を受けるのです。
しかし神が望んでおられるのは人の罪を裁くことではありません。そうではなく赦しです。
神は人の罪を赦して、関係を回復することを望んでおられます。人が神を信頼して、神の恵みの中で幸いに生きること、神に従って喜んで生きることを望んでおられるのです。そのために御子キリストを地上に送って、私たちを裁く代わりにキリストを十字架で裁かれたのです。

旧約聖書と新約聖書、2カ所読んで、その後お祈りします。
エゼキエル書18:31-32
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル18:31-32)

ヨハネによる福音書3章16-18節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:16-18)

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