2020年08月09日「命の導き手である方」

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命の導き手である方

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 3章11節~16節

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「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 3章11節~16節

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<説教要約>
使徒言行録3章11-16節 (新約 P287)
説教 「命の導き手である方」 

先週は、ペトロとヨハネがエルサレム神殿で出会った男の話。生まれながら足が不自由で、人々の施しによって生活している男の癒しの話でした。
その人は生まれてから40年もの間、立つことも歩くこともできず、「美しの門」の前に置かれて、施しを受ける生活をしていました。しかし、その人がペトロに手を引かれると、たちまち、躍り上がって立ちあがり、すぐに歩き出したのです。
彼は、大きな喜びの中で、ペトロとヨハネのまわりを飛び回り、そして神を賛美しました。
そこまでが先週の話ですが、今日はその続きになります。

足を治してもらった人は、ペトロとヨハネのそばを離れず、ずっと付きまとっていました。この人は、40年もの間、いつも同じ場所で施しを受けていたので、神殿礼拝にやってくる人は彼のことをよく知っていました。その彼が、今、うれしそうに飛び回っているのを見て、人々は大変驚き、その姿を見ようとたくさんの人が集まってきました。
三人がいた場所は「ソロモンの回廊」と呼ばれているところでした。
集まってきた人々は、ペトロとヨハネには特別な力があって、病気を治すことができるのだろうか?と興味津々でした。自分もその力に与りたい、病気を治してもらいたい、そう思った人もいたことでしょう。
ペトロはこの機会をとらえて、さっそく語り出しました。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」(使徒3:12)
ペトロは、この人の足を治したのは、自分たちの力ではないし、自分たちの信仰心の厚さによるのでもないと言いたいのです。そして群衆の関心を、癒しの源である神へと正しく向けさせるために、旧約聖書から語り出しました。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」(使徒3:13a)
「アブラハム、イサク、ヤコブ」と言えば、旧約聖書、創世記に登場するイスラエル民族の先祖です。そして彼らの神といえば、ユダヤ教の唯一神である真の神のこと。ペトロは、自分たちの先祖が信じている神が、イエスに栄光をお与えになったと、イエスを紹介したのです。
ですが、ここ、注意して読むと、「イエス」ではなく「僕イエス」と紹介しています。
「僕」と言えば、ユダヤ人であればピンとくるイザヤの預言があるのです。「主の僕の歌」と言われる預言で、イザヤ書40章以降に4つあります。この4か所について、週報裏面に記したので、その前半をお読みします。
イザヤ書40章以降に「主の僕の歌」と言われる4つの預言があります。聖書箇所と新共同訳聖書の小見出しを記します。①42章1-4「主の僕の召命」、②49章1-9「主の僕の使命」、③50章4-11「主の僕の忍耐」、④52章13-53章12「主の僕の苦難と死」です。そしてこれらの預言について、「主の僕とは誰のことか」という議論がなされてきました。イスラエル民族であるとか、特定の預言者であるとか・・・。
しかしここでペトロは「主の僕」がイエスであると人々に紹介しているのです。ぜひ、④52章13-53章12「主の僕の苦難と死」をじっくり読んで味わってください。そして、十字架で死なれたナザレのイエスこそが、イザヤが預言していた主の僕であり、イエスによってこの預言が成就したとを確認してください。
使徒言行録3:13b「その僕イエスに栄光をお与えになりました。」は、イザヤ書52章13節の「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」を念頭に語っているのです。

ペトロは、先祖も、自分たちも信じている、真の神から遣わされた方として、イエスを紹介し、あなた方はその方を、ピラトの面前で拒んだのだと指摘します。しかもピラトは、イエスには十字架につけられるような罪がないと認めて、釈放しようと決めていたのに。
あなたがたは、「 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」(使徒3:14-15a) と。
さらにペトロは、イエスを「聖なる正しい方」「命への導き手である方」と紹介しています。
「聖なる正しい方」とは、「聖なる方」であり、かつ「正しい方」であるということ。
「聖なる方」「聖なる」とは、単に聖いという意味ではありません。神がご自身の目的のために特別に用いられる、ということです。神は、このイエスを、ご自身の目的のため、つまり人々を罪から救うために、十字架にお渡しになったのです。
また、「正しい方」については、イエスは地上生涯において、私たちと全く同じ人間として歩まれ、人間の弱さや痛み、悲しみを経験なさいましたが、ただ一つ私たちと違うのは、神の前に罪を犯さず全く正しい歩みをなさたこと。それでペトロはイエスを「正しい方」と表現しているのです。
さらにペトロはここで、イエスのことを「命への導き手である方」と紹介しています。
この同じ言葉がヘブライ人への手紙に二か所(2:10と12:2)に使われていますが、ここは両方とも「創始者」と訳されています。「創始者」とか「源」という意味です。
イエスは命の創始者、命を作り出す方、と紹介しているのです。
同じペトロが書いたペトロの手紙一2章22-25を引用しておきます。
「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

私たちは、このイエスによって父なる神のもとへ戻ることができます。ですからイエスは地上の命、そして永遠の命を与えてくださる方、私たちの命の創始者であり、導き手でもあるわけです。
ペトロはさらに言葉を続けています。
あなたがたは、このように、神が栄光をお与えになった「主の僕」イエスを殺したのに、
神は、「この方を死者の中から復活させてくださいました。」(使徒3:15a)と。そして、わたしたちは、このことの証人です。(使徒3:15b)と語るのです。

16節は、何が、あるいは誰が、この人の足をなおしたのかという核心的な問題について語っています。
「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(使徒3:16)
わかりにくい文章ですが。
ペトロは、「この人を、イエスの名が強くしました。」と言います。「イエスの名」とは「イエスの力」のこと。「イエスの名」つまりイエスの力を信じる信仰が、この人を癒したのだという説明です。
ですが、ここで一つ疑問が生じます。それは、「イエスの名を信じる信仰」とは、ペトロとヨハネの信仰のことか。あるいは「足を直してもらった人の信仰」だろうか。という疑問です。
先週の話の中で、この人に立ち上がる勇気を与えたのは「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」というペトロの言葉だったとお話ししました。彼は、ナザレの人イエス・キリストの十字架と死と復活のことを知っていたのです。
それで彼は、この時「ナザレの人イエス・キリストの名」に望みをかけて、勇気を出して一歩踏み出してみると、立つことができた。
ですから、彼が癒されたのは、この人が「ナザレの人イエス・キリストの名」に望みをかけたからで、神は、彼の望みを、彼の信仰として受け止めてくださったのです。

それでは、信仰とは何でしょうか?
今日の箇所の、この話から考えると、信仰とは、「神に望みをかけること」「神に期待すること」といえるのではないでしょうか。
ナザレの人イエス・キリストに期待して、一歩を踏み出した結果、この人は立って歩くことができた。ナザレの人イエス・キリストに期待した彼の思いを、神は彼の信仰と認められたのです。
ヘブライ人への手紙にこのように記されています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)

今、私たちは新型コロナウィルスの流行の中で、集まることができずにいます。人と会って親しく語り合ったり、一緒に食事をしたりすることができません。施設や病院にいる家族や友人を見舞うこともできない状況です。今月からまた、施設に入所している教会員の訪問ができなくなりました。
教会では、集まって礼拝することができず、聖餐式もできず、本当に辛い状況です。
いつコロナが終息するのか、いつ通常の生活に戻れるのか、今までのように礼拝ができるのか。全く先が見えない中に私たちは置かれています。
特に高齢の方々は、教会に集まれないことで心細い思いをしておられるとお察ししています。
しかし、そういう中にあるからこそ、神に求めるべきこと、神に期待すべきことをしっかり思い描いて、神が私たちの期待に神は必ず応えてくださると確信して、神を信頼して歩みたいと思うのです。

神殿の門に座っていた男は、ナザレの人イエス・キリストに望みをかけ、全身の力を振り絞って一歩踏み出したので癒されたのです。
最初からあきらめて神に目を向けなかったら、この癒しは起こらなかったはずです。
私たちも、ウィルスの流行は人の力が及ばないこと、とあきらめるのではなく、この時にしっかり神に目を向け、神に期待して生きる。これが今朝、私たちに求められている信仰です。

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