2024年04月21日「わたしの愛する子」

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そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章9節~11節

原稿のアイコンメッセージ

先週は2節から8節までを見ました。
そこでは、ヨハネの洗礼とイエス様の洗礼の違いを確認しました。ヨハネの洗礼は罪の悔い改めの洗礼ですが、ヨハネは私の後から来られる方は「聖霊で洗礼をお授けになる。」と教えました。
今日は、9−11節を見ていきます。
イエスが洗礼をお受けになる、という箇所です。イエスの洗礼に関する記事は、マタイ福音書、ルカ福音書にも記されています。この記事は、イエスの身分と、神との関係が示されている大切なところです。
さらにマタイ福音書によれば、洗礼者ヨハネは、イエス様がヨハネから洗礼を受けるのを思いとどまらせようとして「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言ったと書かれています。
それに対してイエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われ、そしてヨハネから洗礼を受けたと。
最初に確認した通り、洗礼者ヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼です。ですが、罪の無い神の御子が罪を悔い改必要があるのでしょうか? さたに、地上でのイエスは祈りを通して、神と親しい関係におられましたから、改めて「神に立ち帰る」必要などないお方です。
ですが、ここでイエス様は、私たち人間と同じ罪人としての身分で、あえて、悔い改めの洗礼を受けられたのです。これは、神ご自身がへりくだって、罪ある人間と同じところまで降りてこられ、そして悔い改めの洗礼を受けられた。おのれを低くして、私たち人間と同じところにまで降りてこられたメシア、救い主の姿が鮮やかに示されています。フィリピ2章6-8を参照してください。
さらに、ヘブライ人への手紙2章17節、4章15節も。ここに、神の愛の深さが示されています。
イエス様は、私たちの罪をお裁きになりますが、私たちの弱さを同情できない方ではありません。
私たちの罪や弱さを受け止め、導き、いやし、私たちに代わって、神の裁きをうけてくださった方、そういう救い主であることを覚えたいのです。

さらに、洗礼に続く場面、10-11節も重要です。洗礼に続いて、天からの啓示があり、イエス様の身分が明らかにされているからです。
イエスが洗礼を受け、水から上がると
まず、10節から見ましょう。「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。ここでは“霊”というように“ ”(ダブルコーテーションマーク)があります。新共同訳聖書では「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる、という意味で“ ”がついています。つまり、ここは「聖霊」「神の霊」が天から降ったのです。
聖霊は「天が裂けて」そこから降ってきました。
まず「天が裂ける」とは、旧約聖書イザヤ63:19によれば、神が地上の統治に介入てくださること、救い主、メシヤの出現を願う切なる祈りの中で使われている表現です。イエス様が受洗された時に、天が裂けた、という出来事。これは、「どうか、天を裂いて降ってください」という人々の切なる願いがイエス様の出現によって成就したことの印と受け止めることができます。
次に、「霊が降ったこと」は、イザヤ書61:1によれば、聖霊は神からの油注ぎで、イエスが「救い主、メシヤ」として正式な任命を受けた印と受け止めることができます。
1章11節、すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
「神の声」が聞こえたのです。この箇所も、旧約預言との関係で見る必要があります。詩編2編7節です。詩編2編は昔からメシア詩篇として読まれてきました。
ですから「わたしの愛する子」の部分は、イエスが神の御子、そして王として世を支配する、そういう権威を持った方であるということが示されているのです。
さらに、「わたしの心に適う者」については、イザヤ42章1節が背景にあります。
イザヤ42章は「僕の歌」のひとつで、苦しみを受ける主の僕についての預言です。ですから、地上でのイエスは、もちろん「神の心に適う、神の喜ばれる者」なのですが、そこには受難の僕として苦難を受ける者としてのイエスの使命までが含まれています。
ですから、この11節の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という短いことばは大変に重要です。この短い一言に、キリストがどのようなお方として地上に来られたのか、が示されているからです。
キリストは神の子であり、神の国の王としての権威を持ったメシア、救い主であること。そしてこの方が、同時に苦難を受ける主の僕であることまでが含まれているからです。

今日の箇所、聖書の分量としては4節ですが、重要なことが山盛りに入れ込まれています。
その中で、2つのことを覚えたいと思います。

一つは天が裂けたことの意味です。
マルコ福音書で「裂ける」という箇所に使われた同じギリシャ語が、もう一か所だけ使われています。
それは、イエス様が十字架におかかりになって、息を引き取られた直後に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:38)という箇所です。ですから、「裂ける」という言葉は象徴的です。
まず、メシア、救い主という働きを担って、父が子をお遣わしになった時、天が裂けて神の霊が降った。「神の霊が降る」というと、頭の上にとどまったというような感じを受けますが、そうではなく、イエスご自身の中に降ったのです。「協会共同訳聖書」では、「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのをご覧になった」と訳しなおしています。
このようにイエス様は神の霊、聖霊を豊かに受けて、そして働きを始められるのです。
さらに、地上でのイエス様のお働きが十字架によって完成したとき、神と人の間を隔てていた神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。神が垂れ幕を裂かれたことは、これからは、御子イエス・キリストの名によって、お前たちとの交わりを回復す、というメッセージです。

もう一つのことは、キリストのへりくだりです。
先ほど、イエスのへりくだりについて、フィリピの信徒への手紙を引用しました。パウロがフィリピ教会に送った手紙ですが、イエスのへりくだりについて記す直前に、パウロはこんなメッセージをフィリピ教会の信徒たちに送っています。2:1-4をお読みください。
パウロは、神の御子イエス・キリストが、私たちのためにへりくだってくださったのだから、私たちも教会の交わりにおいて、地上のイエスを見習いなさい、と教えています。ここが、一般社会の人間関係と、神の民、神の教会での交わりの大きな違いです。
へりくだること、相手を自分より優れたものと考えることが道徳的な意味で言われているのではなく、イエス様ご自身が私たちにそうしてくださったことだ、ということを覚えたいと思います。

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