2020年07月26日「一つにされる教会」

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一つにされる教会

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 2章43節~47節

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すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章43節~47節

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<説教要約>
使徒言行録2章43-47節 (新約 P217)
説教 「一つになる教会」 
今日の箇所は5節だけの短いところですが、いろんな意味で大変興味深い事柄が記されています。
43節は、教会としてまとまり始めたエルサレム教会の外側にいる人々の様子。
44節から47節前半までは、エルサレム教会内部の様子。
47節後半は、教会の外にいる人々についての記述になります。

「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(使徒2:43) ここで「すべての人」とありますが、これは教会外の人と限定せず、教会内の人も含めて考えてもいいでしょう。人々は、使徒たちによってなされる超自然的な出来事を目にして、それがただ事ではないと感じたのです。自然の秩序、摂理を超えてなされる不思議な業としるしをみて、それらのことの背景に神の存在、神の力を感じて、神への畏敬の念が生じたのです。
使徒たちによって行われた、とありますが、実際にはそうではありません。人々が感じた通り、その背後に神の力が働いているのです。
使徒言行録14章3節後半に「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」とあります。つまり、主イエスが、あるいは聖霊が、使徒たちの手を通してしるしと不思議な業を行わせたのです。
ですが、今の時代、キリストの教会ではこのようなことはありません。
「牧師が、あるいは教祖が、しるしや不思議な業を行う」と言えば、カルト宗教を疑うべきです。
次の45節から47節前半には、教会内の様子が記されています。
今日の週報のコラムにも書きましたが、使徒言行録にはエルサレム教会の様子が記されているところが何箇所かあります。この箇所43節から47節前半がそうなのですが、他に、4章32節-37節、5章12節-16節などにも記されています。
2章44節、45節には、エルサレム教会の信徒たちの生活が記されています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」とあります。ここは、私有財産を認めない生活をしていた、と読む必要はありません。その辺のことについては5章でお話ししたいと考えていますので、今日は触れずに置きます。
ただ、エルサレム教会の特別な事情についてだけ、お話ししておきます。はっきり言うと、エルサレム教会には貧しい人、自活の手段を持たない人が多かったのです。
例えば、エルサレム神殿への巡礼者が多くいました。日本でも、四国などでお遍路さんというのがあるそうですが、お遍路さんを迎える寺社では、食事やお茶の接待をするそうです。それと似ていますが、各地から神殿礼拝のために集まって来ていた人が、そこで洗礼を受けてエルサレム教会に加えられたとしたら、彼らが自分の家に戻るまで、教会が食事の世話をするということがあったのしょう。
また、当時外国で生活しているユダヤ人が多くいたのですが、そういう人々を離散のユダヤ人(ディアスポラのユダヤ人)といます。そういう人々の中で、年を重ねて高齢になってから、あるいは配偶者を亡くした女性たちが、神殿のあるエルサレムに戻って来て生活するということがあったそうです。そういう人達が洗礼を受けて教会に加えられたとすれば、その人々の生活の世話も必要になります。
さらに、エルサレム教会の中心となったのは、イエスと一緒にガリラヤから出てきた弟子ですから、彼らも差し当たって自活の手段がなかったはずです。こういういろんな事情が加わって、エルサレム教会には日々の生活に困る人々が多くいた、ということだったようです。それで、互いの生活面に対して、教会の中で配慮し合うという状況だったのです。
次の46節、47節前半は、彼らの信仰生活について記されています。
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒2:46,47a)
「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とありまして、彼らは今までユダヤ教徒として行ってきた神殿礼拝を、キリストを信じてからも続けていたのです。神殿礼拝とはいえば、祭司が動物の犠牲をささげて民の罪の赦しを神に願うことが中心です。ですが、それをイエス・キリストが十字架上で引き受けてくださったので、神殿礼拝は必要なくなっているのです。しかしユダヤ人として今までしてきたことなので、深く考えなかったのかもしれません。あるいは、神学的な理解がそこまで行っていなかったということかもしれません。信仰理解は一度に与えられるものではなく、少しずつ段階を経て深められて行くのです。これは、私たちも同じです。
しかし、彼らはキリスト教徒として、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。こっちが大切です。キリスト教会の中心は、共に集って神を賛美すること、神礼拝であることがわかります。その中に、聖餐の礼典があり、信徒の交わりとしての愛餐会(食事)があるのです。
彼らがそういう生活を送っていたことの結果、どういうことが起こったのか。それが27節後半です。
「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47b)。 ここでは、喜びあふれる礼拝生活と互いに配慮し合う日常生活を見た周囲の人々が、彼らの姿に好意を寄せて、自分も仲間に加わりたいという人が起こされたことが分かります。そして教会は一つにされた!! 

それで、今日は二つのことを覚えたいと思います。
一つのことは、「民衆全体から好意を寄せられた」ことに関してです。
信者たちは、「喜びと真心を持て」家の教会に集い神を礼拝し、聖餐式を行い、食事を一緒にしていました。大切なのは「喜びと真心を持て」という箇所です。喜んで神を礼拝する。喜んで互いのために配慮する。そういう態度が周囲の人々の心を動かしていったのです。そういう彼らの姿が、周囲の人々の関心を引き、その姿に好感を持ったのです。
今の時代の私たちのことを考える時、教会の中で何が行われているのかが周囲には見えにくいということがあると思います。
ですが、こんな話があります。
東日本大震災の時のこと。仙台市泉区にある北中山伝道所での話です。震災直後、ライフラインがすべて止まり、水も食料にも事欠くという状況が起こりました。そういう中で、全国の改革派教会から仙台の各教会に続々と救援物資が届けられました。北中山教会では、教会に届けられた支援物資を近隣の方々にも配ったそうです。そういう中で、近隣の方々が教会の働きに目を向けるようになったのです。後々北中山伝道所の牧師がこんな話しをしていました。「1974年からこの地で伝道してきましたが、この震災の時ほど近隣の方々と言葉を交わしたことはありませんでした。」と。東北は伝道が難しい土地柄、教会が近隣の人々に受け入れられるのが難しいのです。しかし震災直後に教会が行った愛の業を通して、地域の方々が教会に好意的な目を向けるようになったのです。教会の伝道は、周囲の人々に好意を寄せられることが大切です。
またこのことは、一人一人のキリスト者にも言えることです。私たちキリスト者が社会の中で、日々の生活の中で、周囲の人々に好意を寄せられるような生き方をすることが証になるのです。ですが、実際にはなかなか難しいことです。どうすれば、周囲の人々に好意を寄せられる生き方ができるのか。あるいは逆に、周囲の人々に嫌われない生き方ができるのか。それぞれの置かれている状況、立場で、考えてみてください。
もう一つのことは、今日の説教題にした「一つにされる教会」という話です。
「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47b) ここでは、喜びのある礼拝生活が、民から好意を寄せられて、救われる人々が加えられた。救われるべき人々が次々に加えられて、一つにされていきました。キリスト教は個人の救いだけ完結するのではありません。共に救われた神の家族として支え合い、互いのために祈り合う。そのようにして一つにされていきます。
しかし「一つにされる」とは、一教会だけの話しではありません。キリストを頭とした教会として、全ての教会が「一つにされる」のです。
ウェストミンスター信仰告白 第25章は教会について教えている箇所ですが、その第一項にこう教えられています。
「公同または普遍の教会は、見えない教会であり、そのかしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。・・・。」キリストの教会は、かしらなるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じてひとつに集められる選民の全員から成る。時間と空間を超えて一つにされるのです。
私たちの川越教会も、初代教会から連なる代々のキリスト教会、また世界に広がっているキリスト教会です。これからも続いていくキリスト教会と共に、一つとされ、それが神の国へと連なっています。また、私たちキリスト者は、一つなるキリストの教会の民と数えられ、今キリストの恵みの中におかれているのです。気の遠くなるような壮大な話ですが、キリストの教会に加えられるということは、そういう大きなキリストの恵みの支配、配慮の中に入れられているということでもあります。そういう壮大な恵みの中に、私たちは既に入れられているのです。
今、私たちは新型コロナウィルスの感染拡大のため、心を痛めています。しかし、そういうマイナスと思えることを超えて、私たちは神の配慮の中に置かれていることを覚えたいと思います。
今週も、恵みに生かされている喜びと共に、一日一日を大切に過ごしていきましょう。

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