2023年11月12日「キリスト教のはじまり」

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キリスト教のはじまり

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 24章1節~27節

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五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。 閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。

総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。
確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。

数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 24章1節~27節

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<説教要約>2023年11月12日 使徒言行録24章1-12節 説教題「キリスト教のはじまり」
皆様は、キリスト教がいつどんな風に始まったのか、ご存じでしょうか?
もともとは旧約聖書を信じるユダヤ人たちが、イエス・キリストの誕生と死を経験して、キリスト教信仰を持つようになったんですよね。 ですが、いったいいつから、信仰者たちもそして周囲の人々も、ユダヤ教とキリスト教を区別して認識するようになったのでしょうか? 今日は、使徒言行録24章から、そのことを考えたいと思います。

24章1-9節は、ローマ総督フェリクスの前で、ユダヤ教の大祭司アナニアがパウロを訴えるという話です。
大祭司アナニアは、カイサリアに移されたパウロを訴えるため、エルサレムからやってきました。数名の長老と、さらに弁護士テルティロを伴って。テルティロが訴えている中身は三つです。
一つは、パウロは騒動の原因になるような不穏人物で「疫病のような人間」だと言います。
二つ目は、パウロが伝えている内容は、ローマで公認されているユダヤ教の枠をはみ出た異端だと。
最後は、パウロが神殿を汚した神殿冒涜者だと。

総督フェリクスはこの後、パウロに、答弁するよう促しました。パウロの答弁は24章10-21です。
パウロは、三つのことを弁明しました。自分がエルサレムに上った目的はユダヤ人に救援金を渡すためと供え物をささげて神を礼拝するため。エルサレム滞在はたった12日間で、騒動を起す計画など考える暇もなかった。また、異端の嫌疑については、自分たちの信仰は、ユダヤ教ファリサイ派と同じ信仰だと語ります。
同じ、先祖の神に仕え、「律法」と「預言者」つまり旧約聖書を信じ、「復活」の希望を持っている。
「この道」と言われるキリスト教は、あなた方と同じ旧約信仰に立っているのだ、と答弁しています。
ですから、異端などとんでもない、というわけです。
そして、わたしたちは、神の前にも、人の前でも、「責められることのない良心を持つ」ことを務めている、と弁明しています。
自分がエルサレムに上った目的は、ユダヤ人に救援金を渡すため、又供え物をささげて神を礼拝するためであり、実際そのようにしたのだから、自分は神殿を重んじていると言いたいのです。さらに、自分が神殿を冒涜した場面を見たものはいないはずだと。

この後、22節からは、テルティロとパウロ、両方の話しを聞いたフェリクスの対応が記されています。
興味深いのは22節。フェリクスが「この道についてかなり詳しく知っていた」ということです。
そして彼は、この日、ここで判決を下すことせず、延期することにしたのです。
それには理由があります。ローマの裁判は、ユダヤ人の宗教問題を裁かないことになっているので、パウロに有罪判決が下るわけもなく、ここで判決を下すとすれば、無罪放免になります。しかし、フェリクス夫妻は、キリスト教の話をもっと聞きたいという思いがあり、パウロを放免にしなかったのです。このあとカイサリアで、パウロはある程度自由が与えられ、友人たちの手厚い保護のもとに置かれることになりました。

フェリクスは「キリスト・イエスへの信仰」の話しを聞きたかったのです。
そして、24節では、「ナザレ人の分派」でも「この道」でもなく「キリスト・イエスへの信仰」と言い換えられていることにも注意したいと思います。
ではフェリクスがパウロの話し、「キリスト・イエスへの信仰」について興味を持ったのはなぜでしょうか。実はこの裏には結構複雑な事情があります。
フェリクスの妻ドルシラはヘロデ大王の孫娘、ヘロデ・アグリッパ1世の末娘でユダヤ人です。聖書外資料によれば、彼女は大変な美女だったそうで15歳でシリアの領主と結婚しましたが、その後フェリクスが彼女を見初め、二人を離婚させて、自分の三番目の妻にしたのです。ですから、二人の結婚には倫理的な後ろめたさがあるのです。そのうえ、フェリクスは無割礼のローマ人です。つまり、無割礼の異邦人とユダヤ人女性の結婚でもある。これはユダヤ教では認められません。しかし、パウロが伝える「キリスト教」は、ユダヤ人の先祖の神を礼拝し、そのうえ異邦人に割礼は必要ないと教えていますから、二人が、あるいはドルシラが「キリスト教」は自分たちを受け入れてくれる神として、興味を持ったのかもしれません。
しかし、25節「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。とあります。おそらく結婚に関して後ろめたさがあったためでしょう。フェリクスは恐ろしくなり、それ以上話を聞くことはなかった、というのです。
ですが、ローマの高官がここで「キリスト・イエスへの信仰」の話を聞いたこと、これは神のご計画であり、意味のあることのはずです。
そして最後は27節。「さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。」

今日の箇所で興味深いのは、キリスト教の名称です。
5節では「ナザレ人の分派」、14節では「分派と呼んでいるこの道」、22節では「この道」、24節では「キリスト・イエスへの信仰」と変わっています。
ユダヤ教側は、キリスト教を「ナザレ人の分派」といい、異端宗教だと告発しました。大祭司たちは、パウロが伝えるキリスト教を分派扱い、異端扱いして、ここでパウロを処刑してこの一派をつぶそうとしていたと思われます。パウロが伝える「この道」の勢いを恐れているのです。
しかし、これに対してパウロは、14節で反論しています。あなた方ユダヤ人は、我々のことを「分派」と呼ぶ。しかし私たちは、「この道」つまり、一つの道、一つの生き方、そしてこれが主の道だと考えている。この道は、ユダヤ人の先祖の神と同じ神への信仰であり、我々は律法と預言者、死者の復活を信じている。信仰の内容は、ユダヤ教ファリサイ派と同じだから、我々は決して分派ではない。大祭司たちの訴えが間違っていると弁明したのです。ですが、キリスト教はユダヤ教と同じではありません。
イエス・キリストをメシアと受け入れ、信じており、彼の犠牲の上にわれわれに罪の赦しと命が与えられていると信じます。ですから、ユダヤ教と、キリスト教の礼拝は大きく異なります。
イエス・キリストの十字架によって私たちの罪は贖われ、いまや動物犠牲は必要ありません。犠牲はただ一回限りで、十分なのです。キリスト教の礼拝は、主イエス・キリストを通して、父なる神を礼拝します。
ヨハネ 4:23 「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」とあるように、イエス・キリストを通して、聖霊によって、神を礼拝するのです。
最初は、ユダヤ教の一派閥、さらには分派と考えられたキリスト教が、やがて「この道」として自己主張し、さらには「キリスト・イエスへの信仰」と理解されていきました。これが、今日の箇所からわかることです。
そして、キリストの福音が広がるのには、パウロはじめ多くの人々の働きが用いられたのです。
多くの課題があり、困難がある中で、しかしキリスト教は確実に世界へと広がっていきましたし、今も広がり続けます。そして、私たちの小さな働きも用いられることを覚えたいと思うのです。

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