2023年09月10日「私たちにとっての律法」

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私たちにとっての律法

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 21章17節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。
これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。
だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 21章17節~26節

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<説教要約> 使徒言行録21章17-26 説教題「わたしたちにとっての律法」

道中、いろいろありましたが、一行はやっとエルサレムに到着しました。
新共同訳聖書は16節までで区切られていますが、実際には17節までが一続きのようです。一行はムナソンというキプロス島出身のキリスト者、つまり異邦人か離散のユダヤ人の家に案内され、そこに泊まったとあります。そして彼らは、一行を喜んで迎えました。

18節からが翌日の話。一行は翌日エルサレム教会を訪問したのです。。
ヤコブをはじめ、エルサレム教会の長老たちは「皆集まっていた」というのですから、パウロ一行の訪問がすでに伝えられていたのでしょう。パウロたちはまず、主にある兄弟への挨拶。そして、異邦人伝道の成果についての報告をしました。ここ、ルカが注意深く記していますが、パウロは自分の働きを自慢げに話したのではありません。「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。」のです。そしてエルサレム教会の長老たちも、パウロの報告を聞いて「皆神を賛美した」と記されています。彼らも、異邦人たちがイエス・キリストを信じたことを喜び、歓迎したのです。
パウロの働きが用いられて、多くの異邦人や、離散のユダヤ人たち、ディアスポラのユダヤ人たちが、イエス・キリストを信じてキリスト教信仰に入ったこと。各地に教会ができ始めたことを、神の業と信じ、神を賛美したのです。皆が心を一つにして、神をほめたたえた。これは本当に感動的な光景ですよね。
そして、順番から行けば、ここで援助金を渡す、という話になるはずですが、実際にはそうなりませんでした。パウロたちが援助金のことを言い出す前に、長老たちから、ある懸念が語られたのです。

それが20節後半から21節。
まず、20節後半「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。」パウロ一行に対して、異邦人伝道が成功してよかったけど、何万人ものユダヤ人だって、キリストを信じたんですよ!!そのうえ彼らは、今も熱心に律法を守っているんです!!と、ちょっと自慢気な言い方で。今この話をしているのはイエスの弟のヤコブです。彼は、もともと律法に熱心なファリサイ派ユダヤ教徒と思われます。ですから、ユダ自身、信仰と律法を守ることを同程度の重要さで考えていたのかもしれません。
そういう中で、パウロさん、あなたに対する疑惑が、ユダヤ人キリスト者の中に起こっているんですよ! というのです。
21節「あなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。」これは誤解に満ちた言葉であり、あるいは悪意あるうわさ話しかもしれません。
しかし、多くのユダヤ人キリスト者たちは、イエス・キリストを信じて、教会に加わりながらも、本来のユダヤ教信仰、律法に従った生活をしていました。つまり、神殿礼拝と割礼、モーセ律法を守る生活を大切にしていたのです。これ自体は悪いことではありません。
その彼らの間に流された噂は、パウロが「異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」という、誤った情報です。
この噂に対して、エルサレム教会の長老たちは、パウロはそんなことを教えていない! とその噂を正す! という判断をしたのではありませんでした。彼らは、パウロにある提案をしたのです。
それは、4人の誓願者と一緒にパウロも身を清めること、その費用をパウロが支払うこと、そして神殿に供え物をささげること。ユダヤ教の儀式律法に従った行動をパウロが行うことで、パウロも律法に従っている!! というパフォーマンスをさせようとしたのです。
パウロは、長老たちの提案を素直に受け入れ、その通りに実行しました。

今日の話から、当時のエルサレム教会の状況がよくわかります。エルサレムに住んでいるほとんどのユダヤ人キリスト者たちは、イエス・キリストを信じた後もユダヤ教徒としての生活スタイルを崩すことなく、生活していたのです。最初期の、しかもエルサレム神殿が残っている時代にあって、これはある意味やむを得ない状況でしょう。イエス・キリストの福音は信じるが、ユダヤ教の生活習慣は手放せない、そういうたくさんの人々がいたのです。
パウロも以前は熱心なファリサイ派ユダヤ教徒でしたが、パウロ自身は、律法の中でも大切なことと、慣習的なこと、その区別と整理はできていました。ですから、異邦人伝道ができたのです。
しかし、一方では、同胞であるユダヤ人の救いも願っていました。
ですから、ユダヤ人キリスト者の多いエルサレム教会の一致のために、自分の主張をここでは胸に納めてヤコブの提案を受け入れたのです。。
パウロは愛の故に、しかし福音の真理を曲げることなく、エルサレム教会の長老たちの提案を受け入れることが出来ると考えたのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 9:19-23をお読みください。
相手が大切にしていることに配慮し、相手と同じ目線に立って福音宣教をするパウロの姿勢。
私たちもここから、多くを教えられます。

私たちも、異邦人キリスト者ですよね。ですから、もちろん割礼は必要ありませんし、安息日律法に代表されるようなユダヤ教的な慣習に従う必要もありません。
しかし、それでは何をしてもいいのでしょうか。キリストの十字架の救いを信じていれば、それで全部OKなのでしょうか。
それは違いますよね。
イエス・キリストを通して、まことの神を知り、信じて生きるとは、神に従って生きるということと同義語です。神の意志、神の思いの判断基準は、十戒の精神です。
十戒は、私たちに罪の自覚を与えますが、そこで私たちは、神の愛と赦しに出会うのです。
十の戒め、十の言葉に従えない私が、神のみ前に立って悔い改め、罪赦され、そして神に感謝しつつ、新しい生活を始めるのです。 弱い私たちに、聖霊の助けがあり、そこにキリスト者として聖化の恵みがあります。私たちは、地上生涯の中で、罪を重ねながら、けれども少しずつ、少しずつ、神に似る者と変えられていく。神のかたちへと変えられていくのです。
自分自身の罪や弱さに絶望するときも、それでも、神の愛と赦しの恵みに信頼して、神を見上げて歩みを進めるのです。

私たちにとって、十戒は、律法は、裁きの基準でも、罪を指し示すものでもありません。私たちを神の愛へと導いてくれる、神の言葉です。
感謝して神と共に歩むための指針であり、十戒に従うその努力が私たちの信仰の証しでもあります。
新しい週、罪赦された感謝と共に、新たな心で神を見上げ、新しい歩みへと踏み出しましょう。

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