2020年07月12日「イエスこそ主、救い主」

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イエスこそ主、救い主

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 2章25節~36節

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ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章25節~36節

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<説教要約>
使徒言行録2章25-36節
説教 「イエスこそ主 救い主」  

先週は使徒言行録2章22節から24節までを扱いました。
その最後、2章24節でペトロは、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」と言いました。
その言葉に続いて、25節から32節までで、ペトロはイエスの復活について語ります。さらに33節から36節までは着座、神の右の座に着くことについて語ります。
ペトロのまわりに集まっている人々は、五旬祭でエルサレム神殿に巡礼に来ているユダヤ教徒たちです。彼らは安息日にはユダヤ教の神殿、シナゴグで、旧約聖書の朗読と解き明かしを聞き、神を礼拝している人々です。ですから私たちよりずっとずっと、旧約聖書の内容、預言者の言葉や詩編など、普通の人たちでもよく知っていたのです。今彼らの目の前で起こった出来事が、旧約聖書の預言の実現、成就だ、というペトロの説明は、私たち以上に理解できるのです。

「ダビデは、イエスについてこう言っています。」とペトロは語り出しました。
25節から28節まで、ここは詩編16編8-11の引用です。
詩編16編は伝統的にダビデの詩として知られています。ですからペトロは、「ダビデは言っています」と語り始めたのです。
ですが、もう少し注意して見ると、ペトロは「ダビデは、イエスについてこう言っています。」と語り出したのです。ですからペトロは、この詩篇はダビデが自分のことを語ったのではなくイエスのことを預言したのだ、と説明するのです。
そうしますと、「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」(2:27)は、イエスの復活についての預言だということになります。
次の30節も、旧約聖書の理解が必要です。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
これも話せば長くなるのですが、その昔ダビデ王に対して預言者ナタンを通して神がお示しになった約束のこと、ダビデ契約とも呼ばれる神の約束です。
旧約聖書、サムエル記下7章12節にこのように記されています。
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」(サムエル記下7:12) 預言者ナタンの口を通して、神がダビデに告げられた言葉です。ダビデ王国がゆるぎないものとされ、彼の子孫によって王国が続いていくという預言です。
しかし、歴史の中でダビデの王国、イスラエルはどうなったでしょうか。イスラエル王国は南北に分裂しました。さらにその後、北王国はアッシリアという大国に滅ぼされ、南ユダ王国もバビロン捕囚という憂き目を見たのです。ということは、「ダビデの王国をゆるぎないものとする」という預言は、その通りになりませんでした。国が分裂し、滅びたのですから。
こういう歴史の流れの中で、この預言はやがて、メシア預言と考えられるようになりました。
ダビデの末から、永遠の王国の王、救い主が誕生する、という預言として。
そういうふうに考えていきますと、先ほどの、未来形で書かれていた部分、
26節の3行目から27節
「体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。」
は、ダビデ自身のことではなく、メシア・キリストのことを預言していたのだ、というのが、ここでのペトロの説明、説教なのです。
ですから、ペトロは31、32節で
2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
と語ります。
旧約聖書をよく知っているユダヤ人には、よくわかる説明なのですが、私たちには難しいですね。
言いたいことは32節。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」この預言が実現したのだ、成就したのだ、と言っているのです。加えて、「わたしたちは皆、そのことの証人です。」とあります。ここに立ってあなたがたに今、語っている私たちは確かにイエスの復活をこの目で見て証言しているのだと。
さらに33節から35節ではイエスが神の右の座に着かれたことを語ります。
「神の右の座」とは神としての権威の座、栄光の座のことです。イエスは、復活後天に昇って、神と同じ位置についておられると言います。
34,35節
2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
ここは旧約聖書、詩編110編1節の引用です。イエスはこの預言の通り、天に上げられて、神の右座におられると。ですが、イエスが今神の右に座しておられることについては、証言できることではないので、これは聖書に預言されていることを信じるべきだ、という説明です。
ここまでの結論として36節
2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

復活のイエスは今、神の右の座におられるということに関して、もう少しお話ししたいと思います。
使徒言行録7章に、ステファノという人の殉教の話が出てまいります。彼は、エルサレム教会の最初の執事の一人で「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介されています。
このステファノが捕えられた時に、ユダヤ教指導者たちの面前で、大変長い説教をします。
ユダヤ人たちが信仰の父として大切にしているアブラハムから、イエス・キリストに至る神のご計画を旧約聖書から解き明かした大説教です。
しかし彼の話を聞いていたユダヤ教徒たちが激しく怒り、ステファノを石で撃ち殺してしまうという事件です。
ステファノが、大勢に取り囲まれ、石打ちにされている時、死の苦しみの中で口にした言葉を見たいと思います。使徒言行録7章54-56節、59-60節を読みます。
使徒言行録7章54-56節、
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
使徒言行録7章59-60節
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
ステファノの殉教の場面の描写です。
石を投げつけられ、痛みと苦しみの中で天を見上げると、神と神の右におられるイエス・キリストが見えたというのです。彼は、死の瞬間に神と神の右におられるイエスを見上げたのです。

私たちは、ステファノのように迫害されて死ぬということはないかもしれません。しかし、地上生涯の最後、死の時は私たちにとっても大きな試練です。その時に、ステファノのように、天を仰いで神と神の右におられるイエス・キリストを見上げることができるとしたら。それは、私たちにとっても大きな励ましであり、慰めであるはずです。
もう一か所、神の右の座におられるイエス・キリストについて記されている箇所をお読みして、お祈りします。
ローマの信徒への手紙8章34節 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
キリストは、神の右の座で私たちを見つめているだけではなく、私たちのために、私たちの罪のために、神に執り成しをしてくださるのです。執り成しとは、神と私たちの間にたって、仲を取り持つということです。私たちが死の床で天を見上げた時、キリストは、「この者の罪は、私が十字架で償いました!! 」と神に執り成してくださるのです。ですから、キリストによる救いを信じている私たちは、安心して地上生涯を閉じることができる。死を迎えることができる、ということでもあるのです。

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