2023年06月11日「始めがあれば終わりがある」

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始めがあれば終わりがある

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 18章18節~23節

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パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。
人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。
カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。
パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 18章18節~23節

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<説教要約>使徒言行録18章18-23節「始めがあれば終わりがある」 

先週は使徒言行録18章、コリント伝道の話でした。今朝は、コリントを出発してエルサレム、そしてアンティオキアへと戻るところ。つまり第2回伝道旅行の最後です。

パウロは、「なおしばらくの間」コリントに滞在して伝道しましたが、いよいよシリア州に向けて、つまりエルサレムに向けて、帰途に着きました。陸路ではなく、船で出発しました。
コリントで大変お世話になった、プリスキラとアキラも一緒です。
が、「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。」とあります。書き方が前後していますが、まずはコリントからケンクレアイにいって、そこで髪を切った。それから船に乗って出発した。という順序です。
「髪を切った。」は、髪が伸びたので旅の終わりに散髪しましょう、ということではありません。
ここは「髪を切った」よりも「を剃った」の方がいい箇所で、パウロは何か誓願をしていて、それが終了したので髪を剃ったのです。旧約聖書で規定されている「ナジル人の誓願」です。興味のある方は民数記6:1-5をお読みください。このように教えられていまして、この規定をユダヤ人たちは、「ナジル人の誓願」と言って守っていました。何か特別な願い、誓願あるとき、葡萄酒を断ち、髪をのばしたままにします。そしてその誓願がかなったときに、髪を剃る。ぶどう断ちを終える。そういうことをユダヤ人たちはしていました。パウロも何かの誓願をしていたのでしょう。誓願の内容については、書かれていないのでわかりませんが、一定の成果をえられたことに対する感謝とともに、誓願を終えたのかもしれません。

19節「一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。」
実はここ、翻訳がよくないようで、わかりづらいのですが、「パウロは二人をそこに残して」は、プリスキラとアキラをエフェソに残して、パウロだけが船でシリア州に向かった、という意味です。おそらく、コリントを出発するときからすでに、夫妻をエフェソに残してパウロはエルサレムに帰るという計画だったのでしょう。しかしエフェソの人々は、パウロにもとどまるよう願います。
18:20 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、
18:21 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。とあります。

パウロは、カイサリアの港から上陸し、まずはエルサレムへと向かいました。「教会に挨拶をするため」伝道報告のためです。
パウロはエルサレム教会で今回の伝道旅行の成果を報告した後、アンティオキア教会に戻って、ここでも伝道報告をしたはずです。そして、22節で出発したカイサリア教会に到着し、第2回伝道旅行が終わるのです。

今朝は、この個所から二つのことを覚えたいと思います。
(1) 「始めがあれば終わりがある」
今回の箇所の説教題は「始めがあれば終わりがある」という、ちょっと変わった説教題です。
ここで、第2回伝道旅行が終わるから、ということでこういう題をつけたのです。
パウロが一つの志をもって、第二回の伝道旅行に出発しました。いろいろはありましたけれど、
出発の時には考えてもいなかったヨーロッパ伝道ができて、フィリピやテサロニケやコリントに教会ができました。そして、最後には行きたかったエフェソにも短時間立ち寄って、戻ってきました。
なんでも始めがあり、そして終わりがあります。役割や仕事は、始まって毎日していると、それがいつまでも同じように続くように思います。ですがそうではありません。役割も仕事もいつか終わります。
私たちの人生も同じですよね。結婚生活、子育て、家庭生活も、それも同じです。始まればいつかは終わのです。私たちの地上生涯だって、いつか終わるのです。
ですが、一日一日、あまり変化なく過ぎていくと、なぜかそれがずっと続くかのように錯覚してしまう。それが私たちですよね。
ですけれども、やっぱり始めがあればいつか終わるのだ、ということを覚えたいと思います。ですが、それが空しいということではありません。いつか終わりが来るのであれば、なおのこと、今日すべきこと、今できることを感謝して、大切にしたいのです。

(2) 「神の御心ならば、また戻って来ます」
覚えたいもう一つのことは、18章21節 「神の御心ならば、また戻って来ます」です。
「神の御心ならば」。パウロはこの旅の途中で、神の御心を知るのに大変苦労しました。
彼が導かれたのはアジアではなくヨーロッパでした。この時点でエフェソ伝道は神の御心ではなかった、ということです。

パウロは、この旅の中で、「神の御心ならば」ということを強く教えられたのではないかと思います。
パウロの中には伝道計画があって、それに従ってこんな風に伝道地を回ればいい、と考えていたはずです。
特に、アジアの中心的な町であるエフェソに早く行きたかったのでしょう。しかし、それは神の御心ではなかった。神のご計画とパウロの考えが違ったのです。これは善悪の問題ではありません。

わたしたちにもその時々で願いや望みがあります。教会形成や伝道計画も、こうしたらいいのではないか。こうしたら伝道が進むのではないか、といろいろ考えます。
もちろん自分中心の願いもありますけれど、神中心に考えていると思っているときでさえ、それがうまくいかないことがあります。
それは、私たちが考える最善と、神の最善が違うからです。私の最善と神の最善、私の知恵と神の知恵、そこには天と地ほどの開きがあることを忘れてはなりません。
そして、すべてをご存じの「神の御心が最善」なのです。
わたしたちは、そのように神を信頼したいと思うのです。なぜなら、私たち一人一人の人生を、神の愛の中へ、永遠の救いへと招き入れるために、「神の御心」があり「神の最善」があるからです。

ヤコブの手紙4章13-15節をお読みください。特に15節。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
これは『あなたはそういう運命なんだから、あきらめて神に従いなさい』ということではありません。
自分の命が神の御心に支えられていることを信じる信仰者の、積極的な信仰の姿勢です。
神の御心の中に、神の愛を見出して従う歩み。たとえその時点では、とても神の愛を見いだせなかったとしても、それでも神の愛を信じ切る歩みへと導かれたい、そのように願うのです。なぜなら、その先に、必ず神からの祝福があるからです。

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