2023年01月22日「信仰に踏みとどまれ」

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信仰に踏みとどまれ

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 14章19節~28節

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ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。
到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 14章19節~28節

原稿のアイコンメッセージ

<説教要約> 使徒言行録14章-19-28節「 信仰に踏みとどまれ 」  

今日は使徒言行録14章19節からです。前回お話ししたリストラ伝道では、この町にユダヤ人がほとんどいなかったので、ふたりは迫害されずに語ることができました。ところが、彼らを追ってユダヤ人たちがこの町に押し掛けてきたのです。
19節「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」
「死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」とありますので、意識を失って倒れこんでしまったのだと思います。
しかし、それを聞いて弟子たちがパウロのまわりに集まってくると、20節前半「パウロは起き上がって町に入って行った。」とあります。ですから、致命傷のような大けがではなかったのでしょう。
ここでも、神に守られたことを確認することができます。幸いにも、翌日にはデルベへ出かけられるほど回復していたことがわかり、ホッとします。
21節前半「 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから」とある「この町」とは、デルべの町です。この町でも多くの弟子が誕生したことがわかります。

そして、21節後半から26節は、アンティオキア教会へ向かう帰り道です。迫害された町に、再び立ち寄るのは危険です。しかし二人は、伝道してそこにクリスチャンが誕生したその町々に立ち寄りながら、アンティオキア教会へと向かったのです。それには「弟子たちを力づける」という目的がありました。
せっかくキリストを信じて弟子になった人々です。彼らがこれから先も信仰をもって生きていくために、弟子を訪ね、励ましながら帰途に就いたのです。23節には「弟子たちのため教会ごとに長老を任命し」とありますから、すでに教会ができ始めていたことがわかります。
そして、今日の説教の中心聖句は 22節。
14:22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
「信仰に踏みとどまるように」のところは、口語訳聖書は「信仰を持ち続けるように」、新改訳聖書は「信仰にとどまるように」と訳しています。

「信仰に踏みとどまる」「信仰を持ち続ける」「信じ続ける」これは、感情の問題ではなく意思の問題です。
洗礼を受けたときに、神の前に誓約したことば、内容を、思い返すことが大切です。
ですが、一方では、わたしたちの意思はそれほど強くありません。誰しも信仰が揺らいでしまうこと、不信仰に傾いてしまうことが起こりうるのです。自分の信仰がしっかりしていると感じられるときと、不安定に感じられるとき、そういう波は誰にでもあります。
しかし、それでも、パウロは「信仰に踏みとどまるように」、信じ続けるように、神の恵みから離れないように!と彼らを励まします。

加えて、彼らに「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言います。
ここでの「神の国」の意味は、信仰のゴールとしての天国、あるいは永遠の命を得ることです。
そして、ゴールにたどり着くためには、信仰に踏みとどまることが必要なのです。
しかしそれは簡単なことではありません。ですからパウロは、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と、ゴールにたどり着くまでに「多くの苦しみがある」と付け加えているのです。
イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、信仰をもって生きるこは、大きな祝福であり恵みですが、楽しいことばかりではありません。苦しみを伴うことも事実です。パウロ自身、自分の経験からよくわかっているのです。
パウロはフィリピの信徒への手紙でそのことをこんな風に記しています。
フィリピ3:12-14 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

神を信じるとは、感情的なことではなく、決断と意思が伴うことです。信仰を持ち続けよう!という決意と実践です。誰かに強制されて、キリストを信じたわけでもない。洗礼を受けたわけではない。それぞれが自分の意思で決意して、洗礼を受けたはずですから、その決意を覚え続ける努力が必要です。
しかし、自分の意志や努力だけではいつか力尽きてしまいます。ですから「神を信頼して」「神により頼んで」という面も必要です。神がわたしの信仰を支え守ってくださる。完成にまで導いてくださる。という神への信頼です。
フィリピ3章12節でパウロは、
「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」と言いつつ、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」と言って、キリストへの信頼を表明しているのです。

神の国に入るまでには、試練や苦しみがあるけれど、しかし、そこに留まっていなければ神の国にたどり着けないのです。
ですから、次の23節。一人一人の信仰者を配慮するために、教会の群れごとに長老を任命し、彼らを励まし、配慮する働き人を整えたのです。教会に役員を立て、教会として励まし合い、配慮し合いながら、一緒にゴールを目指すことができるようにしたのです。そして、「彼らをその信ずる主に任せた。」と、そのすべてを神に委ねたのです。
信仰を最後まで守り抜くことは、たやすいことではありません。ですがとにかく「踏みとどまる」こと。そのためには、地上の神の国である教会から、礼拝から離れないこと。このことをしっかり覚えて欲しいと思います。
27節「到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」報告会です。
個の宣教は、アンティオキア教会の献金と祈りに支えられて行われましたから、伝道の成果を、真っ先に報告したのです。自分たちの力ではなく「神が共にいて行われたこと」の成果として。また、神は確かに「異邦人に信仰の門を開いてくださった」ことを。
28節「そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。」とあります。こういう時間も大切です。人は、切れ目なく頑張り続けることはできないのです。愛する人々の中で、心と体を休めること。主にある豊かな交わりは、新たな働きへのエネルギー補給になるはずです。

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