2022年11月06日「神の恵みの下に生き続けるように」

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神の恵みの下に生き続けるように

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
使徒言行録 13章38節~43節

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だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、/お前たちにはとうてい信じられない事を。』」
パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。
集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 13章38節~43節

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<説教要約>2022年11月6日 使徒言行録13:38-43 「恵みの下に生き続けるように」
今使徒言行録13章に記されているパウロの説教を学んでいます。
長いので3回に分けて扱いましたが、今日は説教の最後の部分です。正確には、41節で説教が終わり、42-43節は、それを聞いた人々の反応と、パウロとバルナバの更なる勧めの言葉が記されています。

38、39節で、パウロは「罪の赦し」について語ります。キリスト教信仰の確信部分です。
13:38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
「この方による罪の赦し」、「イエスによる罪の赦し」です。本当なら、わたしが自分の罪のため、十字架にかかって裁かれて、死ななければならないのに、イエスがわたしに代わって、十字架にかかって神の裁きを受けてくださった。イエスの十字架は他人事ではなく、わたしのかわり、わたしのためだと認め、信じることで、神はキリストのゆえにわたしの罪を赦してくださる。そういうふうに信じる者に「罪の赦しが告げ知らされる」とパウロは教えています。イエスの十字架の苦しみは、わたしの問題なのです。

さらに、「モーセの律法では義とされえなかったのに、 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」とパウロは教えます。あなたがたは頑張って神の律法に従って生きようとしても、完全に従うことができないのですから、行いによって神に正しい者と認めていただくことはできない。
しかし、「イエス・キリストの十字架は、わたしの罪のため」と信じることで、わたしは、神に正しいものと認めていただくことができる、これが「信仰義認」といわれる大切な教えです。

ですが、そもそも、わたしは自分の人生を生きているだけなのに、どうして神に罪を赦していただくことが必要なんだろうか、という疑問はありませんか? パウロは、このそもそも論について、ローマの信徒への手紙6章23節で「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と教えます。罪赦されているかどうかは永遠の命の問題です。わたしたちは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じることで、現在と将来にわたって、神と共に生きる命、永遠の命を生きる者とされる。これが、神の恵みです。

この後パウロは40-41節で旧約預言を引用し、「あなた方が到底信じられないようなことを、神はなさったのだ!!」と教え、あなた方は、わたしが語る言葉によーく耳を傾けなさいと警告します。
しかし幸いなことに、この場でパウロの説教を聞いた多くの人々は、彼が語った「救いの言葉」、「罪の赦しの福音」を真剣に受け止め、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。」とあります。
もう一度よく聞きたい、あるいはこの話を聞かせたい人がいる、ということでしょう。集会が終わってからも、多くの人々は、二人の後について来て彼らと語り合った、とも記されています。
そういう彼らに対して、二人は「神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」のです。
キリストの救いを知らされること、救いのメッセージを心に受け止めることができること、そして信じる者とされること。このすべてが「神の恵み」です。

今日の箇所では、キリスト教信仰の中心ともいえる、大切なことがパウロの口から語られました。
39節「信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」いわゆる「信仰義認」です。
行い、善き業ではなく「イエス・キリストを信じること」で罪の赦しが与えられる、ということです。
ですが、「イエス・キリストを信じる」という時、具体的に、イエス・キリストの何を信じればいいのでしょうか。
それは、先ほどもお話しした通り、「イエスの十字架の苦しみ、十字架の死は、わたしの身代わりであったと信じること。このことを通して、わたしたちは神から罪の赦しをいただくことができるのです。

Ⅰペトロの手紙2:22-24
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
このような方として、イエスを信じること。
さらに、もう一歩進んで、イエスの十字架を通して神の愛を信じること。これが、キリスト教信仰の中心です。
もう一か所聖書を開きます。
ヨハネの手紙Ⅰ4:9-10
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

さらにもう一つ覚えたいことは、今日の説教題でもある「神の恵みの下に生き続けるように」という勧めです。
キリストによる罪の赦しの福音を聞く機会が与えられること。聖書のメッセージを、救いの言葉として心に受け止めることができること。それを信じる者とされること。この一つ一つは、すべてが「神の恵み」です。決して当然のこと、あるいは偶然ではありません。
ですからパウロは、「神の恵みの下に生き続けるように」「神の恵みに留まり続けるように」と勧めたのです。

この世界には、興味深いこと、魅力的なこと、一時的に心奪われるようなことがあふれていますから、わたしたちも、それらに心奪われることがあるかもしれません。あるいは、日々、生活のためにやらなければいけないことが多くあります。そういう中で生活していると、いつの間にか、神から心が離れてしまう。わたしたちには、そういう弱さがあることを覚えましょう。
ですが、神の恵みの下に生き続けるため、神の恵みにとどまり続けるため、神がわたしたちに備えてくださっている恵みの場があります。主の日の礼拝です。

「神の恵みの下に生き続けるために」主の日の礼拝につながり続けることを、大切にしていきましょう!!

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