2022年05月22日「大切な人生を御国のために」

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大切な人生を御国のために

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ローマの信徒への手紙 10章8節~17節

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では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ローマの信徒への手紙 10章8節~17節

原稿のアイコンメッセージ

今日もやはり伝道メッセージを話そうと思いました。と共に、自分もあと少しで70歳になるので、宣教師としての人生を振り返りながら、お話ししようと考えました。詩篇34篇は 年配の主の民が若い方々にこう言います。「子らよ、わたしに聞き従え。喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望むものは。」今日もこのようなことをぜひ一緒に考えたいです。

今日のテーマは「大切な人生を御国のために」ですが、副題をつければ、「上を目指して歩もう:後悔のない人生」になるでしょう。「上を目指して歩もう」と聞くと、もしかしたら、有名な歌を思い出すかもしれません。「上を向いて歩こう」ですね。アメリカにもナンバー1ヒットでした。多くの人の心にひびくからです。もう一つ皆がよく知っている歌があります。それは「花は咲く」です。この両方はメロディーが明るく、ハッピーな雰囲気ですが、歌詞はといえば、損失の悲しみを表現しています。いなくなった恋人や知人、家族を悼む中身です。涼しい春の晩を一緒に過ごせた懐かしいあの方が今はいなくて、涙がこぼれないように顔を上に向けて歩いていく。あるいは、ヘドロだらけの畑に再び花はいつの間にか咲くだろうか、と。明るい音楽と悲しい言葉。美しくて悲劇的。私にはなんと日本的なものだろうと感じます。幸せは一体何処より、一体いつ現れるかと問います。

皆さんはご自身の人生についてどうお考えでしょうか。表には微笑みがありながら、中には、何と虚しいものばかり、しんどいと感じていないでしょうか。私は一体何者か、どうしてここにいるか、ことがいつ変わるか、何をすべきか、何処へ向かっているか。もちろん、とてもハッピーな時もあります。頑張っているあることがうまく行った時に、「ヤッター」という満足感があります。愛があれば何よりも嬉しいです。ハッピーな音楽が流れています!赤ちゃんの笑い声を聞くと不思議な喜びが湧いてきます。しかしながら、傷もついているし、傷をつけることもあります。聖書にあるコヘレトの言葉が響いてきます。「なんとすべてのことがむなしくないか」と。日々の生活の中の幾分かが喜び、幾分かが我慢で その割合はどうなのでしょうか。私たちもどれだけ涙がこぼれないように顔を上に向けて歩いているでしょうか。

でも、私の今日のテーマは「上を向いて歩く」のではなく、「上を目指して歩おう」です。意味があり、満足を味わうことを期待して、人生の本当の目的を肯定的に受け止める。後悔から解放されて、まことに意義があり、豊かな日々を送ることを勧めています。このテーマはコロサイの信徒への手紙3章から来ています。1節を読みます。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」今度はこのことが私の人生においてどのようになってきたかをお話しします。同時に、皆様にもこのような人生を発見していただけるようにお勧めしたいです。この人生はチャレンジと苦しみがないわけではありません。いつも楽なものなのではありません。けれども真の意義があり、大きな報いが伴うものです。これは本日の私の希望と狙いです。

では、私は一体どのようにして日本に派遣される宣教師になったのか。一体どのようにしてここで42年間も滞在することになったのか。ここで話すのは初めてではありませんが、私のライフストーリーを少しだけ分かち合いをさせてください。私に与えられた神様の恵みの証です。もちろん、これはあくまでも一部だけです。この証を、あるいは、その一部をすでに聞いたので、繰り返しになる方もいますが、お許しください。

私が生まれ育ったのはニュージャージー州で、ニューヨークシティーの近いところでした。マンハッタンの高層ビルがうちから30kmほど、公害のない日は家からよく見えました。家族はそれほど裕福だったわけではありませんでしたが、親はクリスチャンで教会員でした。私に幼い頃から神様のことと、イエス様を信じることによる救いのことをよく教えてくださいました。晩御飯の食卓に集まり まず感謝の祈りを捧げ、食事が終わると聖書の一章を順次に従って朗読します。寝るときは聖書物語の本を読み聞かされ、就寝にあたっては膝をかがめて神の守りを祈ります。教会に通って礼拝を捧げ、子供は教会学校に参加し、中高生になると信仰問答書を学びます。うちに少し苦しい課題がありました。中には一人兄の大発作転換病でした。幼い時から、激しいけいれんに襲われ、その直前に恐ろしい幻覚をみるのでした。父と母はこれについて多くの思い煩いがあって、自分のせいではないかと己を責める思いもありました。それは親らしいことかもしれません。私自身にも自分が悪いことをしたから天罰ではないかと子供なりに考えてしまうこともありました。この中で悩む父はいつの間にかアル中になってしまいました。

こんな中でしたが、私は幼い時からイエス様を知って、私の救い主また主として信じていました。私を愛して、私のために十字架にかかり、死んで、全てご自身に寄り頼む人の救い主となるために死者の中から復活されたことを疑うときがありませんでした。私の救い主です。私はこのお方を信じています。ですから、私にとって一番大事な質問は、「私のためにご自身を捧げて下さった主をどのようにして喜んでいただけるか」でした。もう一度言います。「私のためにご自分を捧げて下さった方をどのようにして喜んでいただけるか。」礼拝に参加することが小さい僕の幸せでした。その「幸せ」はどこかの雲の上にあったのではありません。礼拝を捧げることにありました。皆様はこれについてどのように思ったり感じたりするでしょうか。礼拝に参加することが喜びではなければ、それはどうしてなのでしょうか。気をよくするにはどうしたらよいでしょうか。礼拝の中で救いの喜びを主の前に進み出る素晴らしさをもっと豊かに表現する礼拝ができないでしょうか。

とにかく、兄の問題があったためかもしれませんが、私はいわゆる「良い子」となり、親に心配をかけないことに頑張りました。真面目な優等生でした。主に喜んで頂きたい思いは消えません。高校生になったら、キャリアーをどうしようと考え始めました。兄のような苦しみを持つ方々の力になりたいと思って精神科医になろうかと考える時もありました。結論から言いますと、人生の中で最も基本的なことがどこにあるか。罪のことと終末がくると全能者の裁きの座の前に引き出されることになっていることの解決というか、これだと信じています。人は誰であれ、結局、最も大切なことは創造主との和解があるかどうか、これよりも大事なことはありません。そして、罪の赦しと新しい命をいただくのはただ救い主イエス・キリストを信じることに寄りかかっていることを信じています。これがなければ、一時的に喜びある日々を味わい、人生を楽しく送ることができるかもしれませんが、これはあくまでもこの世の人生だけの話です。しかしこれが全てではありません。永遠の中でごくわずかな一部分にすぎません。全般的に言えば、科学の世界において神様のことを無視して、あるいは否定していますので、創造主への反逆のことを話題にしません。解決ももちろんありません。

ストレイトに言います。創造主無しの宇宙は無意味です。ある いわゆる偶然によってなってきたものがあるだけです。善もなければ悪も存在しません。あるものがただあるだけです。神様あるいは神々についてのいろいろな戯言があり、いろいろな儀式を行うに伴ってくるご利益があるようなでたらめ話があるかもしれません。しかしお守りとみくじを買いに参拝したり、お祓いをしてもらいます。マジですか?朝登ってくる太陽に両手を上げて「アマテラス万歳」と叫びますか。伊勢神宮に近況を報告するためにお参りしますか。お墓や仏壇はいかがでしょうか。ごめんなさい。これらの物事は多くの皆様にとって大事にされていることを知っています。わかっています。けれども私が話しているのは創造主なる生ける神様です。私たちの肉体と霊魂の造り主です。かの日になれば私たちは皆、このお方のみ前に立たされ、申し述べをしなければならないお方です。私は大学で心理学を専攻分野にしました。この関係の医学的研究や療法について今でも深い関心があります。人間が味わう苦しみからある程度解放する事に役に立ちます。他のキャリアーに励んでおられることにも賛同します。しかし私自身にとって医学が私の能力を生かす最善の道だとは思えませんでした。

あのような段階に達した皆様はいかがだったでしょうか。どのような選択肢があったでしょうか。あるいは、今はどうでしょうか。受験地獄の激しい戦いと進路の選定、あるいは厳しい就職活動があったことでしょう。ご自分の人生の目標・目的が今はどうなっているでしょうか。「人生の成功」の定義は何でしょうか。たとえ、全世界を得ても魂を亡くされたらどういう惨めな結末になるでしょうかとイエス様が指摘します。

私は聖書を読むと、ある時、神様がこの私に語りかけておられるような気がしました。例えば、イエス様が通りかかり、「わたしに従いなさい」とおっしゃると、何もかも捨てて従う弟子たちがいます。本当にあんなに簡単にできるでしょうか。イエス様に従っていくことこそが最も大事ではないかと思わされます。あるいは、ルカによる福音書10章1−3節前半を読んでみましょう。「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。』」本日もイエス様が私を遣わすとおっしゃっておられるように聞こえてきます。これが私にとっていわゆる神様の召命、任命として受け止めています。私と妻のルースは高校在学中に付き合い始めました。将来について、結婚について、これからの人生についていろいろ話し合う中でプランを打ち立てました。彼女は看護師の学びを終えて就職し、私は神学校に入り、牧師になる準備をやること。卒業が近づく時に海外宣教に関心が湧いてきました。これは私たちの計画ではないので、彼女にためらいが結構ありました。でもとうとう、5年間だけならば、冒険好きだから、その後アメリカに戻ることにしました。それでは5カ年計画が成立しました。そして今はその5カ年計画の42年目にあります!

率直いえば、いつもは楽だったわけではありません、特に妻にとって。自分もやめて帰国しようと思ったことも度々あります。あくまで異国人です。得となる場合もあります。敬愛する同労者や主にある兄弟姉妹も多くいらっしゃいます。日本で家族を作り子育てができたことは良かったです。美しい素晴らしい国です。けれども、今は もともと答えを求めている質問に戻ります。意義ある人生を見出す秘訣は何であるか、ということです。全てはただ虚しいものを追い求めることでしょうか。それとも、本当に生きているのだと、充実感を抱き、自分の人生に意味と目的があることを信じ得るでしょうか。落ち込みと鬱さえに打ち勝って、納得のいく人生を歩みだすことができるでしょうか。

私の結論、今日 本当に主張したいことをもう一度言います。虚しい思いと後悔から解放されて、喜びと意味のある命を見出すことは生ける神様を信じて、イエス・キリストを主として認めることに寄りかかっています。また、この救いを他の方々に伝えることに永遠に及ぶ幸いが与えられます。

今日 使徒パウロがローマの教会へ送った手紙の一部を読みました。これらは約2千年前のことばですが、今日にはその当時よりもその意味に衰えることが少しもありません。ここでなされている説教はだいたいこのような箇所を細かく分析し解き明かす内容になっていると思います。私はそうするつもりがありません。今日の私の話は主に自分のストーリー、自分の信仰の証になっています。最も意義ある人生への道を指す役に立つと期待しています。どのように失望や後悔の涙から解放されるか。何が私たちを最も充実した人生へと導くか、自分に納得と満足に導くか。いつまでも涙がこぼれないように顔を上に向いて歩かなければならない運命の奴隷なのか。そうではないとここで宣言します。望みと期待を持つ歩みができるのです。また、他の方をもこのような新しい、豊かな人生に導くこともできるのです。それはイエス様を信じて 完全な救い主として彼に寄り頼むことによっています。そして最も意義ある人生を持つこともできます。それはイエス様によって与えられる命のグッドニュースを分かち合うことにあります。

使徒パウロはこの箇所で自分が抱いている切望を語っています。10章1節にある通りです。「兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」パウロにとって大きな悩み事があります。それは、多くの旧約聖書の預言の実現があって、イエス様の行った奇跡や述べられた教えによって、イエス様こそが約束されたメシアであることを証明されているのに、非常に多くのユダヤ人がイエス様を拒んでいることです。この部分を書くところパウロは、赦しと豊かな命、永遠の幸い、つまり救いがただこのナザレのイエス様への信仰に寄りかかっていることをはっきりと述べています。3回も繰り返しています。口でイエスは主であると認め、心で神がイエス様を死者の中から復活させられたことをただ信じれば救われます。イザヤ書28章16節を引用します。「主を信じる者は、誰も失望することがない」と。そして、ことがはっきりするためにさらにヨエル書から引用します。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と。

そこでパウロは続けて、質問を次々と記します。これらの質問は私の心に刻まれています。(信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。)神様が宣教活動に召しておられることを感じた宣教師は誰でもこれらの言葉を暗唱しているでしょう!私自身が与えられた仕事に従事して、イエス様が約束された救い主、道であり、真理であり命であることを述べ、このお方によってしか創造主との和解ができず、赦しと命をいただくことができないと伝える時に、世世に響き渡る声に自分の声を加えているだけです。新しい話ではありません、ただ聞いたことが今までなかったならば です。ですから今日も皆様にもこれを伝えさせていただきます。メシアであるイエス様を救い主として信じて受け入れなさい。聖書のみことばを調べて、このお方の言動を確認して、ご自身が救い主である主張を聞きなさい。その時、聖霊があなたの心の中でこれに納得させてくださいます。そうしてなお このお方があなたをご自身の民としてくださるように呼びかけなさい。そうすればあなたも救われます。これを経験すれば確実に変えられてしまいます。このお方の愛が大洪水のようにあなたの心を潤し、あふれてしまいます。

すでにこのことをちゃんとされた方ならば、パウロの質問にあるチャレンジをもう一度聴きましょう。これが私自身の人生の方向を定めて、イエス・キリストが唯一の救い主であることを日本の友に宣べ伝えるように 献身するように導きました。もちろん、日本人にだけではありません。今日、この話を聞いてくださる方誰にでも伝えます。簡単なメッセージです。ヨハネ3章16節「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。御子を信じる者はひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」、これなのです。信じる者、誰にでも。あなたは信じますか?これが秘訣です。ご自分の人生がたとえ、虚しい気持ちと後悔でいっぱいであっても です。やり直しはできません。けれども、ここに新しい命の再スタートがあります。辛い涙をただ我慢するのではありません。望みが一体あるだろうかと落ち込むのでもないのです。苦しみや試練があっても、目的と目標と意味のある命が与えられます。これはまた永遠の命です。ただ訳のわからない神体に溶け込んでいくのではないのです。なぜなら、生ける真の神様に愛されているのはこのままのあなただからです。あなたの人生の目的はこのお方を喜びながら仕えることにあります。あなたがこのお方の栄光を見て、あなたの心が癒されます。

聞く耳があるならば受け止めてください。この希望と光と喜びのメッセージを伝えることよりも名誉と充実を感じる仕事がありません。死を恐れることもありません。イエス様がこれを克服してくださいました。想像ができないほど私たちのために準備してくださる将来があります。だからこそ使徒が書きます。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」ここにこの方が私たちに提供する本当の命があります。

この道を伝える働きにご一緒しませんか。栄えある特権です!

最後にもう一度言います。虚しい思いと後悔から解放されて、喜びと意味のある命を見出すことは生ける神様を信じて、イエス・キリストを主として認めることに寄りかかっています。また、この救いを他の方々に伝えることに永遠に及ぶ幸いが与えられます。

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