2020年05月24日「近くにおられるイエス様」

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近くにおられるイエス様

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マタイによる福音書 28章16節~20節

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さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28:16-20日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 28章16節~20節

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中心的主張点: イエス様が天に昇って行かれたからこそ、私たちの味方、私たちとご一緒してくださる。しかも、それがどこいても、いつでもです。

序説: この頃、感染者とご一緒できない悲しみ、恐れが大きいです。ただの不便さではありません。感染して苦しむ人のことを思えばそうですし、たとえ、見舞いに行こうとしてもいけないし、葬儀の参列も許されません。また、結婚式や礼拝のために集まることがダメです。なんといっても、最も愛する人と一緒になりたい時に、励ましの言葉、手に触れて一緒に祈ることできなくて、なんと心細いことでしょう。「ひとりぼっちの夜」ではありません!

1、このことを考えると、私の思いはエデンの園に行きます。神様は人間の犯したそむきの
罪のために私たちをご自分から引き離した次第が天地創造物語の次に書いてあります。
 イ、天地創造といえば、そこには、想像を絶するほどの恵まれた状態にありました。罪も、痛みも、寂しさもありません。創造主ご自身は彼らと親しく付き合っていたし、人間は祝福のうちに数え切れない発見の日々を過ごしています。けれども、我々の始祖がエデンの園で創造主とご一緒できた幸いを失ってしまいます。信頼と喜びに代えて、恐れと恥が生じます。エデンの園から追い出され、彼らの命の源から引き離されます。喜悦が苦痛に変わります。

 ロ、だけれどもそこで話が終わるわけではありません。すぐに神様との関係を取り戻す計画、彼らをその堕落から救うご計画があることが示されます。女から生まれる子孫は罪に誘惑したあの蛇・龍の頭を砕くと主は宣言します。また、彼らの恥を覆うために神様ご自身が動物の皮から覆いを作ってくださいます。続きを読むと、アダムとエバの次男アベルが主に子羊を捧げものとすることを主がお喜びになるとなっています。本当に原始的ではありますが、ここに身代わりの死によって人が救われることが示されるわけです。

 ハ、ただ、人間と創造主の関係の修復は主ご自身の一方的恵みと定めによることがわかります。神は善悪の知識の木の実について「取って食べてはならない。取って食べると死ぬ。」と定められました。けれども、その罰を直ちに施すのではありません。それは、神様に罪に堕落した人類の中からご自分の選びの民を救う計画があるからです。このご計画は歴史において展開していきます。

2、救済史の記録である旧約聖書において、神様はどのように人間に関わるかが記されています。本当に多くの教訓があります。けれどもそこで、主が来るべき日の基礎を据えることがもっと大切な課題です。聖なる創造主と罪深い人間の和解への道がいろいろな方法で示されます。また、神様の人間に与えてくださる約束もあれば、神の人間に与えてくださる愛の配慮の多くの実例があります。要約すれば、神は人とともにいてくださる、ということなのです。

 イ、創世記の流れでは、人間の悪しき行動を極める次第と、悪の世界を滅ぼす大洪水が起こるのです。人間は文化を作りますが、十戒を全部厚かましく犯すことになったからです。けれども、主の恵みによってノアとその家族が箱船に乗って救われることが書いてあります。ノアは神様の恵みによって示された通り、滅ぼす水から救いの器となるその箱船を作るわけです。神はこのようにノアと一緒にいてくださいます。

 ロ、歴史の流れが続くと、偶像を神として拝むウルの地から「信仰者の父」アブラハムを召し出してくださいます。主はアブラハムにご自身を信頼して従うように呼びかけて、主を信じるアブラハムに、「お前の子孫によって地上にすべての氏族が祝福に入る。」と約束してくださいます。つまり、その子孫から救世主が与えられる、とのことです。それ以後の聖書の記事は、この人とその子孫の記録となります。そして、続く世代に、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。」(創世記28章15節)と主は約束してくださいます。

 ハ、話は全部語るわけにはいきませんが、次に思い出していただきたいことは、主がイズラエルの民を顧み奴隷状態から救い、荒野を通って彼らのためにいつも伴う「主の使い」が現れることです。彼らは砂漠にいますが、彼らに食べ物と飲み物をちゃんと備えてくださいます。ためらう主のしもべモーセに、「恐れるな。私は共にいるから。」と主がおっしゃいます。

 二、話は次第に世々の主のしもべたちに続きます。幾つもの中でヨシュア、ダビデ、ヨシャパテ、ダニエル、主がご一緒におられるから守られ、成功するものたちばかりです。皆様ご自身の思い出す勇者は他に誰でしょうか。「雄々しくあれ。うろたえるな。恐れてはならない。あなたがどこへ行っても私主は必ず共にいるから。」との響きが聞こえるのではないでしょうか。獅子の口からも燃え盛る炉からも救い出されます。懐かしい話ばかりですね!

3、「我らと共におられる神」(インマヌエル)の約束とその実現を確認しましょう。歴史が流れるにつれて、神様がご用意くださる救いと来るべき救世主について学び続きます。その名前はイエス、救い、ヨシュア記のヨシュアと同じ名前です。その民をその罪から救うのです。彼は自らまるで彼らの身代金を支払ってくださいます。彼らの罪の贖いの代価を払い、完全に彼らの罪を償います。こうして、創造主と罪深い人間の関係を妨害する隔てを取り壊し、和解させてくださいます。その呼び名は「インマヌエル、我らと共におられる神」です。
 イ、預言者たちは、神様ご自身がおいでになって、私たちにできないことをご自身でなしてくださると教えてくれます。御心を完全に行って、主があらかじめお選びくださった信じる私たちの身代わりとして死んでくださいます。彼が、おとめマリヤから人間として生まれてその受肉によって文字通り、「我々と一緒におられる神」となります。そして共に歩みます。私たちに主が喜ばれる愛の道を教えてくれます。そして贖いの代価として犠牲となってくださいます。

 ロ、主イエス様は繰り返し繰り返して、その大きな愛と忍耐を示してくださいます。彼は良き羊飼いとして、あらゆる障害を乗り越えて迷子の一匹を探し当たってくださいます。ご自身を否定するようになる弟子を見捨てることなく、最後まで守る主はペテロのためにさえ祈ってくださいます。

 ハ、イエス様が十字架につけられて、あらゆる辱めと苦痛を味わいます。主がその苦しみにおいて完璧に私たちと一つとなり、私たちが経験する痛みをご自身で知っておられるので、私たちの苦しみで主が理解できないものは一つもありません。”Nobody knows the trouble I’ve seen.“ と、黒人霊歌にあります。”Nobody knows but Jesus!” と歌います。「私が味わった苦しみは誰も知らない。ただイエス様だけがご存知だ。」と。

4、イエス様が地上を離れ、天に昇られてもなおその弟子たちと、また私たちと、ご一緒し
てくださいます。
 イ、福音書によりますと、イエス様が復活後、40日にわたって弟子たちにいろいろ教育して、その期間がいよいよ終わるに連れて、主が弟子たちを離れるありさまを語ります。特に教えてくださったのは、旧約聖書がご自身が、つまり、来るべき救い主が苦しみを受けて、復活することと、これに続くことがらを予め語っていることでした。そしてさらに、これらに続く次の段階のことも語っています。つまり、世界宣教です。ルカの24章と使徒言行録の1章は、この40日間の集中講義が終わったら、弟子たちに十分に用意ができていたことを見せてくれます。ルカ伝24章50−53節を読んでみましょう。「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ伝24:50−53)。

 ロ、使徒言行録の記事によりますと、弟子たちは少しだけ天をぼんやりと見つめていたと語るけれども、これは失望していたことを意味するのではありません。彼らはその後、前のように家に入り、怖がりして隠れているのではないですね。インマヌエルなる主は目に見えなくなっても、その名前の通り、彼らと一緒におられる主であると分かって、喜びに満たされています。

 ハ、ヘブライ人への手紙はイエス様の昇天の意味をきちんと教えてくれます。昇天の意味は救済条件を完成することです。天に昇って行かれた主はまさに私たちの味方です!私たちの代表として、その贖いの犠牲を神のみ座に提供して、いつまでも私たちのためにそこで執り成しをしてくださいます。ハイデルベルク信仰問答書は問46−51のところでこれを詳しく教えています。つまり、イエス様はその昇天によって信じる私たちの救いの業を完成してくださいました。

 二、次に起こるのは、聖霊降臨のペンテコステ事件です。主が聖霊を私達の上に、私たちの内に天から送り、新しい仕方でご一緒することとなります。けれども、今日確認したいことは、それ以前からも主イエス様がいつも私たちと共にいてくださっておられることです。ご自分がおっしゃる通り:「見よ!わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる。」残念で理由は理解ができませんが、ここで新共同訳聖書にはこの「見よ!」の言葉が抜けています!ギリシア語聖書にちゃんとあるこの「見よ」というのはἰδου (イドウ)と言う言葉です。これを注目しましょう。この言葉はマタイ伝だけで62回も用いられています。ヘブライ語では、「ヒネ」の訳です。「ご覧なさい!」とか、「受け止めよ!」という意味です。ことの確かさを強調する言葉です。「疑うべきではないことを言うよ!」とイエス様はわざわざおっしゃるのです。
イエス様が弟子たちに世界宣教の仕事に任命することはまるで神様が大昔にモーセやヨシュアを任命されたことに似ています。大いなる仕事で困難がいろいろ伴う使命です。けれども、「恐れるな!わたしはいつも共にいるから!」というわけです。

 ホ、主が近くにおられますので、苦しいことがあっても大安心!主の御臨在が、主の御愛がなおいつも私たちと共にあリます。確かに主は予め弟子たちに指摘されました。「この世にあっては患難がある。でも恐れることはない。わたしは世に勝っている。」どんな短い間であっても主は私たちから目を離されません。最後まで大きな愛の対象にしてくださいます。

決論:このことを言うのは、ひとりぼっちの夜の寂しさを慰めるためなのではありません。主が近くにおられるのは私たちを救うためであり、平安を与えるためであり、与えられた使命を果たすためであります。「見よ!わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」それなら、何か心配することがありましょうか。さあ、世界宣教に挑もうではありませんか!アーメン!

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