2022年04月10日「わたしの霊をゆだねます」

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わたしの霊をゆだねます

日付
説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章44節~49節

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既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 23章44節~49節

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<要約>2022年4月10日 川越教会説教 受難週  
今年の受難節では、礼拝の中で、主イエスの十字架上の7つの言葉に注目しました。
今日はその7番目、十字架上での最後の言葉を黙想します。
主イエスの十字架上での最後の言葉は23章46節です。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

父なる神とイエスは本来ならば、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という関係。そしてイエスも「わたしと父は一つである」と教えています。しかし、そういう深い父と子の関係が、十字架上ではバッサリと断ち切られました。
十字架上で私たちの罪の身代わりとなって裁かれたからです。父なる神は、御子イエスをこのとき完全に見捨てたのです。しかし、こうして神の御業が成し遂げられました。
神の永遠からのご計画であった、神の救いの御業が成し遂げられたとき、イエスは十字架上で最後の言葉を叫ばれました。それが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という叫びです。

私たちと同じ肉体をもって地上生涯を歩まれたイエスにとって、この死は私たちと同じ意味を持っています。まして、その最後の時に神に見捨てられ、神との関係が断ち切られたのです。その心の内はどれほどの絶望と恐怖があったことでしょう。
しかし、父への信頼を亡くしたわけではありません。イエスは父を見上げ続けていました。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫びながら、父なる神をまっすぐに見上げて、ご自身の霊を父なる神にゆだねて、息を引き取られました。

ところで、肉体の死とはいったい何なのでしょうか?
そのことを考えるヒントが、「わたしの霊を御手にゆだねます。」という主イエスの叫びの中にあると思います。
十字架上で死なれたイエスの霊は、肉体を離れて神のもとへ行く。主イエスはそのことをご存知で、このように叫ばれたのです。ここから死とは、霊と肉体とが別々になること。霊が肉体から離れることだということがわかります。

創世記に記されている人間の創造記事を思い出してください。
創世記2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。
ここからわかるように、人は、神によって、体は土から形づくられ、その体に命の息、神の霊が吹き入れられて生きる者、人間となったのです。
ですから、死においてはその逆のことが起こるはずです。つまり、肉体は火葬でも土葬でも、やがて塵にかえります。
では、霊はどうなるのでしょうか? 
イエスは、死の間際に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれました。
多くの屈辱と苦しみをお受けになり、飲むべき杯を飲み干され、すべて成し遂げられた後、イエスはもう一度神を見上げ、ご自身の霊を父にゆだね、地上生涯を終えられたのです。
「御手にゆだねます」とは、神に愛されていること、神が恵み深く接してくださることを確信しているからこそ、神に向かって言うことのできる言葉であります。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
これは旧約聖書 詩編31:6 の言葉です。
詩編31:6
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
人は死のとき無力です。自分の力で、自分の努力で、自分の意志ではどうすることもできない。それが死というものです。そうであるなら、死はあきらめるということでしょうか。
イエスは、ご自分の霊を神にゆだねました。これは、あきらめでしょうか? 
いいえ、そうではないはずです。神への信頼です。肉体の死に向かっても神に希望を持ち続けたのです。
このようにして、イエスは死に打ち勝ち、死を克服し、復活してくださいました。
ですから、この主イエスに結ばれているならば、私たちの死もあきらめではなく、希望となるはずです。

ハイデルベルク信仰問答問42の問と答えはこうです。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
答 私たちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入り口なのです。

今年の受難節は、ロシアのウクライナ軍事侵攻と重なって、いつにも増して重苦しい時となっています。祈りながら、「今ウクライナのキリスト者たちの状況は、どんな何だろうか?」と考えていたら、  
先日Christian todayというインターネットニュースにこんな記事を見つけました。抜粋してご紹介します。
*********引用(抜粋)
ロシアの軍事侵攻を受けているウクライナで、現地のクリスチャンたちは、地下室やシェルターに身を隠しながら、旧約聖書の詩編31編を読んで祈っている。
詩編31編を読んで祈るムーブメントは、ウクライナの主席ラビ(ユダヤ教の指導者)の呼び掛けによるという。ウクライナ聖書協会の副総主事が「主席ラビが、この困難な時期に、われわれクリスチャンとすべてのウクライナ人に詩編31編を読むように突然呼び掛けたのです」と語った。

詩編31編は、直面する困難の中で神の助けを切実に求める内容がちりばめられている。
31:2-3
31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
31:3 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。

31:10
31:10主よ、憐(あわ)れんでください、わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます。

31:15-17
31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。
31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。

一方、後半は慈しみと正義の神が力強く歌われ、「雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて」と信仰者を励ます内容になっている。

31:22-25
31:22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。
31:23 恐怖に襲われて、わたしは言いました/「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを/嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。
31:24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。
31:25 雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。

ウクライナ聖書協会の副総主事は、この詩編31編について、次のように語っている。
「私は牧師でもありますが、今はこの詩編をこれまでとは違う読み方で読んでいます。なぜならウクライナの現在の状況について書かれているからです。数千年前に書かれたこの祈りが今、まさに生きたものとなっていることを目の当たりにしているのです」
そして、4月2日にはゼレンスキー大統領の呼び掛けで、ウクライナ国内のほとんどのキリスト教の教派、また他宗教の指導者がキエフの聖ソフィア大聖堂に集い、祈りをささげた。
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ロシア軍が撤退したウクライナ東部の町々での虐殺、殺戮の状況が伝えられてきました。本当に、普通では考えられないこと、普通の状況だったら、有罪判決が出るそういう行為が平然と行われていることに、戦争の悲惨を見る思いです。そして、人間の罪の深さを思います。
一日も早く平和が来るよう祈りたいと思います。
しかし同時に、そういう中にあっても、どのような死であっても、その死を超えて希望があることを今私たちは教えられるのではないでしょうか?

詩編31編は、イエスの十字架上の最後の言葉が含まれている詩編です。
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
この詩篇を読んで、祈り、生きていても、万が一死ぬことになったとしても、神が共におられることを覚えるようにという勧めであります。

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