2020年05月17日「あなた方は証人となる」

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あなた方は証人となる

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説教
木村恭子 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章44節~53節

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「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:48-49日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章44節~53節

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<説教要約>
聖書  ルカによる福音書24章44-53節 (新約 P161)
説教 「あなたがたは証人となる」   
今日はルカ福音書の最後。24章44節から53節までを扱います。
また、ルカ福音書が終わった後、礼拝説教では使徒言行録へ進む予定です。
ルカ福音書と使徒言行録は同じルカが記したもので、上巻と下巻という関係です。
上巻のルカ福音書はイエスの誕生から昇天まで。下巻の使徒言行録はイエスの昇天から始まって、福音が世界に広がっていく様子が記されています。
イエスの昇天については、ルカ福音書の最後と使徒言行録の最初に記されていて、使徒言行録の最初でもう一度見る機会があります。ですので、本日は24章44~49節を中心にお話しいたします。
24章44節~49節には、三つのことが記されています。
44節~46節はイエスの教え、47節~48節は委任、49節は約束です。

イエスは弟子たちが集まっているところへ、肉体を持った復活の姿で現れ、エマオ途上で二人の弟子に教えたのと同じように、聖書をどう理解するのかをお教えになりました。
エマオ途上では、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体 と言いましたが、ここでは、モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄 と言います。
どちらにしても、これは当時のユダヤ人たちが用いていた聖書全体のこと。今の私たちが持っている旧約聖書のことです。
ここでイエスが強調しているのは、聖書は「わたしについて」、あるいは「ご自分について書かれている」ということです。
44節をもう少し丁寧に見ると、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」とあります。つまり聖書全体は、イエス・キリストを指し示している。
26節では『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』とあり、その預言が、イエスの全生涯と、十字架と、復活によって実現したことを教えているのです。
この理解は、新約聖書に親しんでいる私たちにとっては当然と思うかもしれません。ですが、ユダヤ教信仰の中で育った弟子たちにとって、この聖書理解は画期的なこと。イエスから教えていただかなければ決してわからない読み方だったのです。

さらに、聖書を、イエス・キリストを証しする書として理解し、信じるために必要なことがあります。
それは、「心が開かれる」ということです。
45節には「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。
エマオでは、聖餐式を思わせる食事の時に、「二人の目が開けた」(24:31)とありますが、ここも正確に訳すと「開かれた」です。
つまり、神が私たちの心が開いてくださる。こういうことが起こって初めて、私たちは、聖書がイエス・キリストを証しする書、神の福音として理解し、信じられるのです。
これは、今も同じです。
私たちが聖書を読み、説教を聞いて、それを理解し、受け止め、信じることができるのは、神が私の心を開いてくださるから。そこに神からの働きかけがあるのです。ですから、求道中の方も安心して神のことばを聞き続けてください。ふさわしい時に必ず、神が心を開いてくださいます。

次の47節から48節では、このような聖書の読み方、理解の仕方を教えられた弟子たちに、使命、働きが委ねられます。
イエスは、旧約聖書で既に、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(24:47) と記されていると教えます。
ですが、本当にそうでしょうか?
旧約聖書はイスラエルの救いが中心に語られているのでは?と思われる方もいらっしゃるでしょう。
確かに、イスラエルが救われ、諸外国が滅ぼされるという記事がたくさんあります。
ですが、実際は「イスラエルの民と諸外国の民」という対立構造ではなく、「真の神を信じる者と偶像を神とする者」という対立構造です。実際、イスラエルの民も、真の神から離れるとき、神からの裁きが与えられました。
また、真の神に従って歩む者に対して、神は等しく祝福を与えておられます。
「神の祝福はすべての人を対象としている」ということは、創世記に既に記されています。
創世記12:2-3 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。・・・。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。
神の祝福の約束は、旧約聖書の最初から、真の神に従う地上のすべての氏族に向けられていました。
そしてそれが、イエス・キリストを通して、イエス・キリストの名によって、「罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」のです。
しかし、神の祝福は自然に広がっていくのではありません。
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。とありますように、証人としての働きが必要です。神は人を用いてご自身の祝福を伝える働きをなさるのです。その働きが今弟子たちに託されたのです。
しかしこの後イエスは、弟子たちを地上に残し天に昇られます。ということは、弟子たちは働きだけ与えられて放り出されてしまうのでしょうか?  
そうではありません。49節でちゃんとフォローがあります。

24:49父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。
「父が約束されたもの」とは、聖霊のことです。ですからここは、イエスの昇天後に聖霊が派遣されるという約束です。
聖霊の派遣についてはヨハネ福音書14章、15章に詳しく記されていますが、3か所だけ記します。
①ヨハネ 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
②ヨハネ14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
③ヨハネ15:26-27 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

ヨハネ福音書では、父が、弁護者(聖霊)を送ってくださり、弟子たちと一緒にいてくださること。
聖霊がイエス・キリストを証しして、弟子たちの聖書理解を助けてくださることを教えます。
だから、弟子たちは、イエス・キリストの証人の使命を果たせるのです。
聖霊の派遣の約束が実現された話は使徒言行録に記されています。

イエスは、今ここでは「高い所からの力」聖霊が与えられるまで「都にとどまっていなさい。」と弟子たちに忠告しています。
それは、新しい働きのために弟子たちの状況が整っていなかったからです。弟子たちは「あなたがたはこれらのことの証人となる。」といわれても、具体的に何をどうしたらいいのかわからなかったはずです。
この時の彼らには、あらゆる国々に福音を伝えるための具体的な準備がなにもありませんでした。
そういう弟子たちの実情をイエスはよくご存知で「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と忠告なさったのです。
しかし、一方で弟子たちは確かに以前とは違っていました。心が開かれ信仰理解が与えられて、変えられていたのです。それは、イエスの昇天後の彼らの態度に現れています。
24:52-53彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ユダヤ人を恐れて、家の中に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちが、大喜びでエルサレムに帰りました。
ユダヤ人たちの視線を気にする子となく、集まって神をほめたたえていたのです。

その後イエスは弟子たちを祝福し、祝福しながら、天に昇って行かれました。今もイエスは、天におられ、キリストの弟子たちを祝福しておられます。
聖霊は、約束された通り、ペンテコステのときに地上に送られ、弟子たちがその力に包まれて福音宣教へと赴くことになります。ここからのことは使徒言行録に記されています。
また、聖霊は今も、キリストの教会とそこに連なる私たちを支え、福音宣教を導いておられます。
 
ところで、本日の説教題は「あなたがたは証人となる」です。
これは、復活のイエスに出会い、教えられた弟子たちに与えられた使命ですが、彼らにだけ特別に与えられた使命ではありません。彼らに続くイエス・キリストの弟子たち、みんなに与えられている使命であり、働きです。
つまりこういうことです。
福音宣教によってイエス・キリストと出会い、信じて罪の赦しと悔い改めが与えられた者たちは、神の支配の中に入れられて、神の国の一員になります。具体的には、洗礼を受け、教会に加わります。ですが、それで終わりではありません。
神の国の一員になるということは、同時にその中での具体的な働き、使命も与えられるということなのです。
具体的な働きは、一人一人違います。それぞれ試行錯誤の中で自分の役割を見つけていくのです。
ですが、一人で考えなさい!と放り出されるのでもありません。そこに、聖霊の導きや助けがあるのです。
聖霊の働きは、目で見てわかるというものではありません。ですが、まったくわからないわけでもない。
自分に与えられた聖霊の導きは、振り返って考えた時にわかるものです。あの時、確かに聖霊の導きがあったなあと思えることが、皆さんそれぞれにあるはずです。
聖霊は、必ずしも私たちの人生を、平穏で心地良い場所へと導いてくれるわけではありません。時には思いがけない方向へ、自分の望みとは違う場所へと押し出されることがあります。
ですがそういう中で、思いがけない役割を担うこともあります。しかし結果として、ああ私はここに導かれたんだ!!という納得と感謝の思いが与えられるから不思議です。そして、神に用いていただいた満足と喜びに満たされるのです。
私たちはまだ人生の途中にあって、自分の歩みのすべてを見渡すことはできません。
ですが、折に触れて、自分の人生を振り返り、聖霊の働きを覚えていただきたいと思います。
また、今それぞれの状況の中で、自分に託されている使命、働きを考えて欲しいと思います。
私たちが喜んで神に従い、自分の持てるもの(というよりは神が私に与えておられるものですよね)を差し出し、仕えることで、私たちの人生の歩みにさらなる喜びが加えられるはずです。

今私たちは新型コロナ肺炎の自粛で時間があります。(医療従事者など、大変な方もいらっしゃいますが・・・。) こういう時こそ、自分の歩みを振り返って考えるチャンス、いい機会です。そうすればコロナ自粛も意味あるものとなり、日常が戻った時、新しい気持ちで歩み始めることができるはずです。

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