長老について 2020年1月19日(日曜 朝の礼拝)

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長老について

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 14章21節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:21 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
14:22 弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
14:23 また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。使徒言行録 14章21節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 来週の1月26日に開催される会員総会において、長老の選挙と執事の選挙が行われます。今回は、任期満了に伴う再任の選挙だけではなく、新任の選挙が行われます。それで、今朝は長老について、来週は執事についてお話したいと思います。

1 長老について(『政治規準』より)

 私たち改革派教会は、政治形態として、長老主義政治を採用しています。長老主義政治とは、簡単に言えば、教会の王であり、頭(かしら)であるイエス・キリストが長老たちを立てて、教会を治め、導いておられるという考え方です。なぜ、私たち改革派教会は、長老主義政治を採用しているのでしょうか。それは、長老主義が最も聖書的な政治形態であると信じているからです(『創立宣言』参照)。長老には宣教長老と治会長老の二つがあります。宣教長老とは御言葉に仕える長老のことで牧師のことです(一テモテ5:17参照)。また、治会長老とは、群れの中から選ばれて、群れを代表する長老のことです。牧師と二人以上の長老によって、小会が形成され、小会によって教会の政治は行われます。小会は、教会の王であり、頭(かしら)であるイエス・キリストの御心にそうように、教会を霊的に統治することが求められているのです。

 このようなことを踏まえまして、私たちの教会の憲法の一つである『政治規準』の「第9章 治会長老」を読みたいと思います。

第9章 治会長老

第52条(治会長老)旧約時代の教会に民の長老が立てられていたように、新約時代の教会にも長老が立てられている。キリストは、御言葉の教師以外に教会員の中から治会の任を託し得る人々を教会のために備えられた。これを治会長老と言う。

第53条(治会長老の職務)治会長老は、教会員を代表するために教会員の中から選ばれ、教師と共に各個教会の政治と訓練を行い、霊的状態を見守る。

2 治会長老は、小会で選ばれた場合、中会議員あるいは大会議員として議会権能を行使する。

3 治会長老は、教会会議において、教師と同等の権威を有する。

第54条(治会長老の資格)この職務を担当する者は、健全な信仰を持ち、家をよく治め、生活に恥じるところがなく、言葉と行いにおいて、群れの模範である者でなければならない。

第55条(治会長老の任務)治会長老が、長老として個別的に、あるいは小会議員として共同的に行う任務は、次のとおりである。

(1)ゆだねられた群れの中に、教理と道徳の腐敗が生じないように見守ること。

(2)個人的訓戒によって正し得ない悪事を、小会に知らせること。

(3)教会員の家庭を訪問し、病める者を見舞い、悲しむ者を慰め、教会員を教え、契約の子を養い守ること。

(4)個々のキリスト信者が愛の律法によって果たすべき一切の義務を、特に治会長老として果たすこと。

(5)教会員と共に、また教会員のために祈ること。

(6)説教の結ぶ実を、注意深く見守ること。

(7)教会員の身体的・霊的問題で、牧会的配慮を要する事柄を、牧師に知らせること。

(8)御言葉を教えることに努め、教会員に率先して伝道すること。

 ここで注目したいことは、第53条の「治会長老は、教会員を代表するために教会員の中から選ばれ」るということです。教会員が長老を選挙するとは、自分たちの代表を選挙するということです。長老主義政治は代議制であるということです。ですから、教会員は自分たちが選んだ人が長老に任職・就職する際、次のことを誓約するのです。

1.主は、あなたがたが選んだこの愛する兄弟〔姉妹〕を、今、あなたがたの治会長老として遣わされます。あなたがたは、真心から喜びと敬意をもって、この兄弟〔姉妹〕を治会長老として受け入れることを誓約しますか。

2.あなたがたは、彼〔彼女〕に対して、御言葉と私たちの教会の憲法が認める名誉と励ましと従順とを与えることを誓約しますか。

 教会員は自分たちが選んだ長老について、このような誓約をしているのです。

 今朝は『政治規準』の「第18章 教会職制の原理」も読みたいと思います。教会の頭であるイエス・キリストは、一切の権能を司る教会役員として、教師、長老、執事を立てられました。その教会役員がどのようにして立てられるのかが、ここに記されています。

 第18章 教会職制の原理

第116条(召命の原理)教会における職務は、聖霊による神の召命によって任じられる。この召命は、通常、良心の内的なあかし、教会員による明白な認可、教会会議による判定をとおして明らかとなる。

2 教会の政治は代議制であるから、教会役員を選出する権利は、教会員にのみ所属する。従って、いかなる場合にも、教会員の選挙あるいは少なくとも同意を経ないで教会役員を決めることはできない。

3 神は教会の役員を召されるとき、彼らに必要な賜物を与えて、種々の任務を行わせられる。従って、役員の候補者は、すべて会議の試験また試問を受けて、承認されなければならない。

第117条(任職の教理)教会の役員に召された者は、教会会議あるいは教会会議が権能を委託した者によって任職されなければならない。任職とは、神の教会に役員として正当に召された者に、祈りと按手により、権威ある承認を 与えることを言う。

2 御言葉の教師の任職は中会が行う。

3 治会長老及び執事の任職は小会が行う。ただし、教会設立のときは中会が行う。

4 教会の職務に任職される者は、具体的な働きに召されていなければならない。

5 教師の任職を受けようとする者は、各個教会の牧師・協力牧師・宣教教師の働きに召されるか、あるいは中会が認める何らかの働きに召されていなければならない。

6 治会長老・執事の任職を受けようとする者は、各個教会において正規に選ばれた者でなければならない。

 第116条に、教会の職務への神さまの召しは、通常、良心の内的なあかし、教会員による明白な認可、教会会議による判定を通して明らかとなる、とあります。今回の長老選挙について言えば、良心の内的なあかしとは、小会の要請を受けて、O執事が長老候補者となってくださったということです。また、教会員による明白な認可は、会員総会で行われる選挙によって明らかとされます。教会会議による判定とは、当選した長老候補者に対する小会の試問のことです。このような一連の手続きを経て、聖霊による神の召命は明らかとなるのです。ですから、教会員には、O執事が長老になることが主の御心であるかどうかを祈り、信仰をもって投票することが求められているのです。

 ここまでは、『政治規準』からお話しました。次に、その源である『聖書』から、長老についてお話したいと思います。

2 長老たちの選挙(使徒14:21〜23より)

 今朝の御言葉である使徒言行録の14章21節から23節までをお読みします。新約の242ページです。

 二人はこの町で福音を告げ知らせながら、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。

 ここには、パウロとバルナバが、「弟子たちのために教会ごとに長老たちを任命し」たことが記されています。パウロとバルナバは、弟子たちが信仰に踏みとどまることができるように、教会ごとに長老たちを立てたのです。ここで「長老たち」と複数形で言われていることは大切です。パウロとバルナバは一人の長老ではなく、複数の長老たちを任命したのです。そして、その複数の、二人または三人の長老たちの会議に、主イエス・キリストは聖霊において御臨在してくださるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というイエスさまのお約束は、礼拝や祈祷会ばかりでなく、教会会議においても重要な意味をもっているのです(使徒15:28「聖霊とわたしたちは、・・・決めました」参照)。

 また、ここで「任命し」と訳されている言葉(ケイロトネオー)の元々の意味は「手を伸ばす」という意味です。それで、「手を挙げて選ぶ」「挙手によって投票する」とも訳すことができます。パウロとバルナバは、教会員の選挙によって長老たちを選び、任命したのです。そして、断食して祈り、弟子たちを信ずる主イエスに任せたのでした。ここで、「長老たちに任せた」と記されていないことがポイントです。なぜ、聖書は、「弟子たちを長老たちに任せた」とは記さず、「信ずる主に任せた」と記すのでしょうか。それは、長老たちを立ててくださったのが、主イエス・キリストであるからです。そのことを、パウロは、使徒言行録の第20章で、エフェソの長老たちにはっきりと告げています。新約の254ページ。20章28節をお読みします。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。ここでは、長老が「監督者」と言われています。長老とは、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために任命された者たちであるのです。教会と訳されているエクレーシアは、建物のことではありません。「呼び出された者たちの集い」のことです。イエス・キリストによって呼び出されて集まっている私たちが、イエス・キリストの教会であるのです。その私たちを、神さまは御子の血によって御自分のものとしてくださいました。父なる神さまは、私たちを御自分の民とするために、愛する御子を十字架の死に引き渡されたのです。それほどまでに、私たち教会は神さまの目に高価で尊いのです(イザヤ43:4参照)。長老たちはそのことを心に留めて、神の教会の世話をしなければなりません。世話をするとは、言い換えれば、仕えるということです。イエスさまが、弟子たちに仕えられたように、長老たちは、教会員に仕えることが求められるのです(ルカ22:26「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」参照)。そのようにして、群れの模範となることが、長老たちには求められるのです(一ペトロ5:3参照)。

3 長老の資格(一テモテ3:1~7より)

 今朝のもう一つの御言葉、テモテへの手紙一の3章1節から7節までをお読みします。新約の386ページです。

 この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」だから、監督は、非の打ちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。

 ここでの監督は長老のことです。パウロは、「長老の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる」ことは真実であると記した後で、その良い仕事にふさわしい人はどのような人であるかを記すのです。「監督は、非のうちどころがなく」とありますが、これは「非難されるところがなく」という意味です。また、「一人の妻の夫であり」とは、「結婚の契約に誠実な人」という意味です。少し飛んで、「自分の家庭をよく治め」とあります。教会は神の家でありますが、その教会の世話をする者には、自分の家庭をよく治めることが求められるのです(一テモテ3:15参照)。

 また、長老は信仰に入って間もない人であってはいけないと記されています。信仰に入ったばかりの人は熱心かも知れませんが、高慢になりやすいからです。それでは悪魔と同じ裁きを受けかねないとパウロは記しています。さらに、長老は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。長老は教会を代表する者であるからです。もし、そうでなければ、この世の人々から中傷され、悪魔の罠に陥りかねないとパウロは記すのです。悪魔は長老を罠に陥らせて、教会を破滅させようとするのです。それゆえ、長老になる人には、非難されるところがなく、教会以外の人々からも良い評判を得ていることが求められるのです。

 ここに記されている長老の資格を満たしていることに越したことはありませんが、あまり杓子定規に解釈しない方がよいと思います。この資格を杓子定規に解釈しますと、独身の人は長老にはなれないことになります。また、結婚していても子供がいない人は長老になれないことになります。また、子供がいても、従順な者になるかは成長してみなければ分かりません。むしろ、大切なことは長老になる人、また、長老である人が、ここに記されているような人になりたいと祈り求め、努力していることであると思います。そのようなことを心に留めて、1月26日の会員総会で行われる長老の選挙にのぞんでいただきたいと願います。

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