わたしの主、わたしの神よ 2011年4月10日(日曜 朝の礼拝)

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わたしの主、わたしの神よ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 20章24節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。ヨハネによる福音書 20章24節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは前回、週の初めの日の夕方に、イエス様が弟子たちに現れてくださったお話を学びました。その弟子たちの中には12人が当然いたと思われるのでありますが、24節を見ますと、「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」と記されています。トマスはほかの弟子たちと一緒にいなかったために復活されたイエス様とお会いすることができなかったのです。「ディディモ」とは双子という意味ですが、どうやらトマスには双子の兄弟がいたようであります。それでトマスはディディモとも呼ばれていたのです。トマスについては、第11章46節に記されておりました。イエス様が「さあ、ラザロのところへ行こう」と言われると、「ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」と聖書は記しています。ラザロのいるユダヤは、イエス様を殺そうとするユダヤ人たちのいる危険な土地でありました。けれどもトマスは躊躇する仲間の弟子たちに、「私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか」と呼びかけたのです。このところからトマスは威勢のいい男であることが分かります。またトマスは第14章5節にも登場しております。イエス様はいわゆる告別説教において、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言いますと、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問うています。トマスは分からないことは分からないと言い、教えを求める率直な男であることが分かります。このトマスの質問に答えて、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という御言葉を語ってくださったのです。トマスが弟子たちの無理解を率直に言い表してくれたおかげで、このようなイエス様の教えを私たちは聞くことができたのであります。トマスが威勢のいい、率直な男であったことは、今朝の御言葉のトマスの発言にも表れていると思います。ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスはこう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。この言葉から、トマスは疑い深いトマスと呼ばれるのでありますが、このトマスの姿勢は他の弟子たちにも見られたものでありました。他の弟子たちは、「私たちは主を見た」と言っておりますが、この言葉はマグダラのマリアの言葉とそっくり同じです。主語が一人称単数形か複数形かの違いだけであります。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げました。わたしは復活したイエス様とお会いしたと知らせたのです。しかし、弟子たちはマリアの言葉を信じず、ユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたのです。トマスが特別疑い深かったわけではありません。自分で見なければ信じられないほどに、イエス様の復活という出来事は信じられないことであったのです。昔から、イエス・キリストの復活を否定する者たちが唱える説に、弟子たちのイエス様を慕い求める思いがイエス様の幻を見させ、復活したと言い広めたのだというものがあります。しかし、聖書の記述を読みますと、弟子たちはイエス様の復活を信じることができなかったのです。私たちは古代人は素朴であって、信じやすかったのではないかと考えるかも知れませんけれども、このトマスの言葉はそうではないことを教えています。紀元1世紀の人であっても、イエス・キリストの復活は信じ難いことであった。私たち現代人は見たら信じようと言うかもしれませんけれども、それと同じことを弟子であるトマスも口にしているわけです。ほかの弟子たちは「わたしたちは主を見た」と言ったとありますが、それに対するトマスの言葉から推測しますと、ほかの弟子たちは自分たちの前に現れたイエス様が、手とわき腹とを見せてくださったこと、それによって本当に目の前に表れたお方が十字架につけられた主イエスであったことが分かったことをトマスに告げたのだと思います。ほかの弟子たちは、「私たちは主を見た。主の手には釘の跡があり、わき腹には槍に刺された跡があった」と言うのでありますが、トマスは「その釘跡に自分の指を入れ、また槍に刺された跡に自分の手を入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったわけです。見るだけではなく、触ってみなければしんじない。こうトマスは言ったのです。そして、そのようなトマスにも復活されたイエス様は現れてくださるのです。

 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」。「八日の後」とは一週間後の週の初めの日、今で言う日曜日にあたります。イエス様は週の初めの日に弟子たちに現れてくださるのでありますが、ここには週の初めの日を主の日と呼び、礼拝をささげていたヨハネの教会の姿が重ねられていると読むことができます。今度はトマスも弟子たちと一緒におりました。この26節の記述は19節とほぼ同じであります。ただ違っていることは、「ユダヤ人を恐れて」という言葉が記されていないことです。なぜ、弟子たちは戸に鍵をかけていたのでしょうか?それは少なくともユダヤ人たちを恐れていたからではありませんでした。彼らは主の平和、シャロームを与えられて、ユダヤ人たちへの恐れから解放され、喜びに満たされた者たちであったからです。ではなぜ八日の後も、戸を閉めきって集まっていたのか?理由はよく分かりませんけれども、推測できる一つのことは、先週とまったく同じ状況にすることを彼らが欲したということであります。すべての戸に鍵をけれるならば、普通の人は誰も入ることはできません。けれども、復活されたイエス様は、空間にとらわれない栄光の体に復活されたゆえに、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。イエス様は十字架の贖いを基とする神の平和を弟子たちの真ん中で宣言されるのです。そして、トマスにこう言われるのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。このイエス様の御言葉は25節のトマスの言葉をちょうどひっくり返すかたちで語られています。復活のイエス様はトマスの言葉を聞いておられた。そして、そのトマスの求めに応じられ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われるのです。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。トマスはイエス様こそ、主なる神その方であると告白したのです(詩編35編23節参照)。かつてイエス様はトマスの質問に答えて、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知る。いや、既に父を見ている」と言われましたけれども、トマスは復活のイエス様にまみえて、イエス様こそ、わたしの主、わたしの神と告白することができたのです。このトマスの告白はヨハネによる福音書のクライマックス、頂点とも言えます。ヨハネによる福音書はその冒頭に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記しておりました。そしてそのことがトマスの口から語られるのです。イエス・キリストこそ、「わたしの主、わたしの神」であられるのです。トマスは復活されたイエス様から「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われたときに、ほかの弟子たちから言われたとおりだと思っただけではなくて、そのイエス様の傷跡が、他ならない自分の罪のためであったということを悟ったはずであります。ですから、トマスはイエス様に対して「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができたのです。ヨハネによる福音書は復活されたイエス様の手に釘の跡があり、わき腹には槍で刺された跡があったと記しておりますが、そのことは復活されたイエス様が十字架に磔にされたお方であることを示しております。このヨハネの記述を読んで、私たちが復活するときにも、体の傷はそのままなのかしらと心配になるかも知れませんが、ここでヨハネはそのようなことを教えたいのではなくて、復活されたイエス様が十字架に磔にされたお方であることを教えたいわけです。そして、それは私たちの罪のためであり、もっと言えば、私たちが突き刺した傷跡であったのです。かつて第19章37節の御言葉、「また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」という御言葉についてお話しましたときに、このゼカリヤ書の御言葉は私たち一人一人において実現したと申しました。主のイエス様のわき腹にある傷跡は、私たちが突き刺したものであるのです。今朝の御言葉で言えば、弟子たちが刺し貫いた傷跡であるのです。そうであれば、復活されたイエス様の御言葉は弟子たちを責めたてるものでもよかったわけです。けれども、復活されたイエス様は弟子たちに「あなたがたに平和がある」と主の平和を宣言されたのです。そして、わたしは信じないと言い張るトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われるのです。十字架の主イエスが復活され、トマスの求めに応じてくださり、信仰へと招かれたとき、トマスはイエス様がイスラエルの神、ヤハウェその方であると告白することができたのです。イエス様は十字架と復活を通して、私たちを罪から解き放ってくださる主なる神であられることを示してくださったのです。

 「わたしの主、わたしの神よ」と告白するトマスに、イエス様はこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。見ないのに信じる人とは、この福音書が執筆されたヨハネの教会に属する多くの者たちであり、現代の私たちのことであります。ここでイエス様は、見て信じたトマスを貶めようとしておられるのではありません。見たから信じたという点においてはトマスだけではなく、ほかの弟子たちも、マグダラのマリアも同じでありました。使徒言行録を読みますと彼らはむしろ復活の証人として立てられた者たちであったわけです。ですから、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」というイエス様の御言葉は、トマスのように復活のイエス様を肉の目において見ることができない者であっても、イエス様を信じる幸いに生きることができることを私たちに教えているのです。私たちは、復活されたイエス様を肉の目で見ることができればもっと確信することができるのにと考えるかも知れません。あるいは、求道中の方は、復活されたイエス様をトマスのように見ることができれば、自分も信じることができるのにと考えるかも知れません。しかし、イエス様はそのような私たちに見ないで信じる幸いを教えられるのです。見ないで信じる私たちを幸い者と呼んでくださるのであります。この説教の始めに「ディディモと呼ばれるトマス」の「ディディモ」の意味は「双子」であると申しました。ある人は、私たち一人一人がトマスと双子だと言っております。トマスは、自分の目で見なくては信じない。その傷跡に触れてみなければ信じないと言い張る私たちにそっくりな双子として、このところに登場していると言うのです。私たちのそのような願いは、このトマスにおいて果たされる。しかし、そこでイエス様から示されることは、見ないで信じる幸いであるということなのです。

 見ないで信じる。それは何の根拠もないのに思い込みで信じるということではありません。復活されたイエス・キリストを見た弟子たちの証言に基づいて信じるということであるのです(17:20参照)。ヨハネによる福音書はそのために記された書物であると言えるのです。福音書記者ヨハネは30節、31節でこう記しています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。福音書記者ヨハネが、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」と語るとき、イエス・キリストの復活もしるしであると捉えていることが分かります。ヨハネによる福音書はイエス様がなされた多くのしるしの中から7つだけを選んで記しました。振り返りますと、第2章でイエス様はガリラヤのカナの婚礼において水を極上のぶどう酒に変えられました。第2章11節には、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」と記されています。また第4章43節以下には、イエス様が王の役人の息子を御言葉だけで癒されたことが記されておりました。第4章54節には、「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」と記されています。また第5章には、イエス様がベトザタの池で38年間も寝たきりであった人を癒されたお話が記されておりました。これが3つ目のしるしであります。また第6章1節以下にはイエス様が大麦パン5つと魚二匹とで、五千人もの男たちを満腹させたことが記されておりました。これが4つ目のしるしであります。また第6章16節以下にはイエス様が荒れ狂う湖の上を歩まれたことが記されておりました。これが5つ目のしるしであります。また第9章にはイエス様が生まれつき目の見えない人を見えるようにされたことが記されておりました。これが6つ目のしるしであります。さらに第11章にはイエス様が死んで四日たっていたラザロを生き返らせたことが記されておりました。これが7つ目のしるしであります。そして、福音書記者ヨハネはこれらのしるしをなされたイエス様御自身が十字架の死から三日目に栄光の体に復活されたことをいわば最後のしるしとして記すのです。しるしとはある事柄を指し示すものでありますが、これらのしるしはいずれもイエス様が神の子メシアであることを指し示すしるしであったのです。ヨハネによる福音書は、「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」に書かれた書物であるのです。私たちは復活したイエス様にお会いした使徒ヨハネの証言を通して、今朝、見ないで信じる幸いへと招かれているのです。ある人は、30節、31節の御言葉はヨハネによる福音書が書かれた目的ばかりでなく、聖書全体が書かれた目的を言い表していると述べております。わたしもそのとおりだと思います。そして、ここに主の日の礼拝ごとに聖書を説き明かす教会の目的があるとも言えるのです。私たちは復活されたイエス様を肉眼においては見ることはできませんけれども、イエス様を神の子メシアと信じ、イエスの名によって命を与えられているのです。ここでの命とは神の命、永遠の命のことであります。私たちはイエス・キリストを神の子メシアと信じて、命である神様との交わりに生きる者とされたのです。

 祈祷会では月に一度、ウェストミンスター信仰告白を学んでおりますが、先週は第二章の「神について、聖三位一体について」を学びました。その第二節には、「神は、ごじしんのうちに、おんみずからすべての命をもっておられる」と告白しております。私たちの命の源は神様のもっておられる命であります。聖書の記述によれば、人は命の息を吹き込まれて生きる者となった。それゆえ、人は神様から息を取り上げられればちりに帰るわけです。私たちは生きている間は命をもっている、握っていると錯覚するのでありますが、私たちは神様の命に生かされているのです。「神は、ごじしんのうちに、おんみずからすべての命をもっておられる」。この信仰告白の証拠聖句にあげられているのが、ヨハネによる福音書の第5章26節であります。ここでは25節からお読みします。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」。今朝の御言葉が、「信じてイエスの名により命を受けるためである」と語りますとき、それは死に打ち勝つ命、復活の命、永遠の命のことを言っているのです。その神の命を私たちはどのようにして受けることができるか?第1章12節にはこう記されておりました。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。私たちはイエス・キリストにあって神の子とされ、御父と御子との愛の交わりに生きる者となることによって、命を受けるのです。

 わたしは先程、イエス・キリストの復活はしるしであると申しました。イエス・キリストの復活は、イエス様ごじしのうちに、おんみずからすべての命をもっておられることを示しているのです。ある人は「神は死んだ」と申しますけれども、まことの神は死ぬことはありません。あえて言うなら、死ねないのです。なぜなら、神はごじしんのうちに、おんみずからすべての命をもっておられるからです。復活されたイエス様に対して、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と告白したことは、イエス様が御自身の内に命をもっておられる主なる神その方であることを私たちに教えているのです。

 

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