聖霊を受けなさい 2011年4月03日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊を受けなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 20章19節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」ヨハネによる福音書 20章19節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はヨハネによる福音書第20章19節から23節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 第20章1節は、「週のはじめの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と記しておりましたが、今朝の御言葉は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」の出来事であります。弟子たちはマグダラのマリアから、「わたしは主を見ました」と告げられ、主からの伝言を聞いたはずでありますが、彼らはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっておりました。弟子たちはイエス様を捕らえ、ローマ総督に訴えて十字架につけたユダヤ人たちが、自分たちをも捕らえ、処刑するのではないかと恐れていたのです。そして、それはイエス様の時代の弟子たちだけではなく、この福音書が執筆された紀元90年頃のヨハネの教会の姿でもありました。ユダヤの国は紀元66年から熱心党を中心としてローマ帝国の支配から独立するための戦争を起こします。このユダヤ戦争は紀元70年にエルサレムがローマの軍隊によって滅ぼされることにより終結するのですが、それによって祭司階級であるサドカイ派は没落いたします。エルサレム神殿が滅ぼされ、神殿祭儀が行えなくなった今、ユダヤ教の中心を担ったは律法の教師たちであるファリサイ派でありました。そして、ファリサイ派を中心に再建されたいわゆるラビ的ユダヤ教は、イエスは主であると公に告白する者たちを会堂から追放することを決定したのです。ユダヤ教の礼拝で唱えられる18の祈願の中に、「ナザレ人たち(キリスト教徒)と異端者は瞬時に滅ぼされるように」という祈りを加えることによって、その祈りを口にすることをためらうキリスト者を会堂から追放したのです。イエス様は第16章2節で、「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と言われましたけれども、これはヨハネの教会が置かれてた現実でありました。ですから、今朝の御言葉に記されている弟子たちの姿は、この福音書が執筆されたときのヨハネの教会の姿そのものであったのです。ヨハネによる福音書の特徴の一つは、イエス様の時代とこの福音書が執筆されたヨハネの時代を重ねて記す、いわゆる二重のドラマでありますが、ここもそのように記されているのです。そして、それはヨハネの時代だけではなく現在の私たちの姿ではないでしょうか?私たちは文字通りにはユダヤ人を恐れてはいないかも知れません。また扉を閉めて集まっているわけでもないかも知れません。しかし、私たちは人々をどこか恐れて集まっているのではないでしょうか。大きな災害があり、多くの人々が亡くなり、多くの人々が避難生活をしているこの時にあって、人々からの「神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか」という言葉を恐れながら、この所に集って来たのではないかと思うのです。いや他の人々ではなく、私たち自身もそのような問いを抱いているゆえに、どこか恐れながらこの所に集っているのではないかと思うのです。しかし、そのような私たちの真ん中に、復活されたイエス様が立ち、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのです。

 復活されたイエス様は家の戸に鍵がかかっていたにも関わらず、弟子たちの真ん中に立たれました。このことは復活のイエス様が空間にとらわれないお方であることを教えております。私たち人間は時間と空間の枠組みの中に生かされております。しかし、復活されたイエス様は時間と空間の枠組みにとらわれない永遠に生きておられるのです。家の戸に鍵がかかっているにも関わらず、イエス様が弟子たちの真ん中に立たれたことは、そのことを私たちに教えているのです。イエス様はユダヤ人を恐れて集まっていた弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。これはヘブライ語でシャロームという、ユダヤ人の日常の挨拶とも言えます。私たちは、朝には「おはよう」、昼には「こんにちは」、夜には「こんばんわ」と挨拶しますけれども、ユダヤ人はいつも「シャローム、平和があるように」と挨拶したのです。イエス様は弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われ、両手とわき腹とをお見せになりました。弟子たちはイエス様の両手に十字架に磔にされた釘の跡を、またわき腹には槍で刺された跡を見たわけです。このことは記されておりませんが、25節のトマスの言葉から推測することができます。復活されたイエス様は、弟子たちに両手にある釘の跡とわき腹にある槍で刺された跡を見せることにより、御自分が確かに十字架に磔にされたイエスであることを弟子たちに示されたのです。弟子たちはマグダラのマリアから「わたしは主を見ました」と聞いても、ユダヤ人への恐れから解き放たれることはありませんでした。彼らはマグダラのマリアの言葉を聞いても、イエス様が復活されたことを信じることができず、恐れにとらわれていたのです。けれども、そのような弟子たちの真ん中にイエス様は立ち、「あなたがたに平和があるように」と語り、御自分が確かに十字架に磔にされたイエスであることを示してくださったのです。「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますけれども、このようにしてイエス様は弟子たちの心を恐れから解放し、喜びで満たしてくださったのであります。そして、ここにイエス様がかつて語られた御言葉、第16章22節の御言葉が成就しているのです。「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。週の初めの日に教会に集い、礼拝をささげております私たちにも、この喜びが主から与えられているのです。

 イエス様は重ねて「あなたがたに平和があるように」と言われました。このことは、「あなたがたに平和があるように」というイエス様の御言葉が単なる日常の挨拶ではないことを教えています。福音書記者ヨハネが「弟子たちは主を見て喜んだ」とイエス様を主と呼んでいるように、イエス様は弟子たちに平和を与えられる主その方であるのです。イエス様はここで弟子たちに「あなたがたに平和がある!」と、平和の宣言をしておられるのです(岩波訳「あなたがたに平和」)。それはイエス様の十字架の贖いによって与えられる神様との平和であります。両手に釘の跡を持ち、わき腹に槍で刺された跡を持つ、十字架の死から復活されたイエス様だけが与えることのできる神様との平和が弟子たちに与えられるのです。それはイエス様が御父のもとへ上ることによって与えられる平和であります。その平和の内実をイエス様はマグダラのマリアに託されたわけです。すなわち復活されたイエス様はマグダラのマリアにこうおっしゃいました。「わたしの兄弟たちのところへ言って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。イエス様から与えられます平和、それはイエス様の父を、私たちの父と呼び、イエス様の神を私たちの神と呼び礼拝することのできる平和であります。ユダヤ人たちは日常の挨拶として「あなたに平和がありますように」と言葉を交わしましたけれども、その言葉を十字架と復活の主であるイエス・キリストから与えられますとき、私たち一人一人のうちに主の平和が実現するのです。それゆえ、使徒パウロは、どの手紙においても「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と挨拶を記したのであります。私たちが「主イエス・キリストからの恵みと平和があるように」との挨拶を読み、聞くとき、復活されたイエス・キリストの口から「あなたがたに平和があるように」と言われたことを思い起こすことができるのです。復活されたイエス・キリストは聖霊をおいて私たちの真ん中にいてくださり、御言葉を通して、私たち一人一人に平和を与えてくださるのであります。そしてこれこそ、イエス様が語られた第14章27節の御言葉の成就であるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたりよりも偉大な方だからである」。世が与えることのできない平和、神様の平和をイエス様は十字架の死から復活されることによって私たちに与えてくださいました。そして、この平和の内に私たちを世に遣わされるのです。私たちはイエス様と同じように世に属しておりませんけれども、イエス様から世に遣わされているのです(17:14)。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。ここに、私たち教会の存在する理由が語られております。私たち教会はなぜこの世に存在しているのか。それはイエス様から遣わされた者たちとして存在しているのです。御父がイエス様を遣わされたように、私たちはイエス様から遣わされた者たちなのであります。それは私たちがイエス様の御心を行う者として世に遣わされているということです。イエス様は第8章29節で、こう言われておりました。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」。イエス様が御父の御心に適うことをいつも行ったように、私たちもイエス様の御心に適うことを行うことが求められているのです。それではイエス様の御心とは一体何でしょうか?イエス様は弟子たちに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。イエス様が息を吹きかけられたという記述は、創世記第2章7節を背景にしたものであります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。このところは神話論的な記述によって、神様が人を造られたことを教えている箇所でありますが、福音書記者ヨハネはイエス様が弟子たちに息を吹きかけたことを記すことにより、新しい創造について教えているのです。聖書は人が神のかたちに似せて造られたと教えておりますけれども、その神のかたちはアダムの堕落によって腐敗し、歪められてしまいました。しかし、復活のイエス・キリストによって息を吹きかけられることにより、神のかたちは回復され、人は新しく造られた者として生きることができるのです。すなわち、イエス・キリストを通して神を礼拝して生きることができるのです。イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。新約聖書はもともとギリシャ語で記されていますが、ギリシャ語では「息」も「霊」も同じ言葉(プニューマ)であります。ですから、22節は「彼らに霊を吹きかけて言われた」とも訳すことができるわけです。このことは、聖霊が御父の霊だけではなくイエス様の霊であることを、また聖霊はイエス様を通して与えられることを私たちに教えております。そして、この聖霊こそ、イエス様が弟子たちに約束されていたもう一人の弁護者、パラクレートスである真理の霊であるのです。イエス様は第16章7節でこう言われておりました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。この約束の実現として、復活されたイエス様は弟子たちに息を吹きかけられ、「聖霊を受けなさい」と言われるのです。そして、この聖霊において、イエス様は弟子たちである私たちと共にいてくださるのです。先程も引用した第8章29節で、イエス様は「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにはしておかれない」と言われましたけれども、私たちを遣わされるイエス様は聖霊において私たちと共にいてくださり、私たちを通して働き続けてくださるのです。それゆえに教会は罪の赦しを宣言することができるのです(14:10,20参照)。本来、罪を赦すことは神様だけがなせることです(マルコ2:7)。また神様から裁く権能を委ねられたイエス様だけがなされることであります(ヨハネ5:22)。しかし、イエス様は弟子たちに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われました。これは弟子の群れである教会がイエス・キリストに代わって罪の赦す権能を持つようになったということではなくて、罪の赦す権能を持つイエス・キリストが遣わされた弟子たちと共にいてくださるからなのです。ですから、イエス様は息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたあとに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われたのであります。ですから、ここでの罪の赦しは教会の恣意的は判断によって与えられるものではありません。私たちは主の日の礼拝ごとに、罪を告白し、司式者を通して赦しの宣言を聞くのでありますが、私たちの罪を赦す権能が司式者個人にあるわけではありません。私たちの罪が赦されるのは、私たちがイエス・キリストによりすがる者たちであるからなのです。ここで突然、罪が赦されることと罪が残ることについて語られておりますので、どのように解釈すればよいのか戸惑うのでありますが、イエス様は第8章23節、24節でユダヤ人たちにこう言われておりました。

 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 礼拝の司式者が「父と子と聖霊の御名によって罪の赦しを宣言します」と語ることができるのはなぜでしょうか?それは私たちがイエス・キリストを主、「わたしはある」というお方であることを信じて、このお方によりすがって生きることを公に言い表すからです。そうでなれば、教会は罪の赦しを語ることができないのです。ですから、ある人は罪の赦しは何より説教において与えられるものであると語っています。罪の赦しがイエス・キリストの福音によって与えられるならば、それは何より説教において与えられると言うのです。教会はイエス・キリストの福音の説教において罪の赦しを宣言し、また悔い改めるべき罪を指摘するのです。説教を通してイエス・キリストの聖霊が、私たち一人一人を新しく造られたものとしてくださる。私たちは新しく造られた者として、世に遣わされているのです。「イエス・キリストを信じる人はすべての罪が赦され、神様との平和が与えられます」。この福音を宣べ伝えるために、私たちはこの羽生の地に遣わされているのです。

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