エルサレムの陥落 2021年2月21日(日曜 朝の礼拝)

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エルサレムの陥落

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
列王記下 24章18節~25章7節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をハムタルといい、リブナ出身のイルメヤの娘であった。
24:19 彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。
24:20 エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した。
25:1 ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。
25:2 都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。
25:3 その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、
25:4 都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。
25:5 カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。
25:6 王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。
25:7 彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。列王記下 24章18節~25章7節

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序.『列王記』について

 今朝は、『列王記下』の第24章18節から第25章7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 はじめに、『列王記』について簡単にお話しいたします。『列王記』は、「上」と「下」に分けられていますが、もともとは一冊の書物でありました。『列王記』はその名のとおり、王たちについての書物であります。内容としては、ダビデの死、ソロモンの王位継承と治世、神殿の建設、イスラエル王国の分裂、アッシリア帝国による北王国イスラエルの滅亡、バビロン帝国による南王国ユダの滅亡について記しています。年代にすれば、紀元前10世紀から紀元前6世紀までの400年のイスラエルの歴史を扱っています。今朝の御言葉は、その最後の出来事、バビロン帝国によって、南王国ユダが滅ぼされたことが記されています。

1.ユダの王ゼデキヤ

 第24章18節から20節までをお読みします。

 ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。その母の名はハムタルといい、リブナ出身のイルメヤの娘であった。彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した。

 ユダ王国の最後の王さまは、ゼデキヤでありました。ゼデキヤは21歳で王となり、11年間エルサレムで王位にありました。彼は、ヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行いました。「ヨヤキム」については、第23章36節から第24章7節までに記されています。そして、ここに、主がカルデア人(バビロン人)を用いて、ユダを滅ぼされる理由が記されています。第24章2節から4節に、こう記されています。「主は彼に対してカルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わされた。主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた。ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった」。ユダの王様には、ヒゼキヤとヨシヤという二人の善い王様がおりましたが、他の王様は、悪い王様でした。特に、マナセは、最悪の王様であり、エルサレムの神殿に、異教の祭壇を築くなど、主の目に悪しきことを行いました(21:1~18参照)。このマナセの罪が決定打となり、主はユダを滅ぼすことを決められたのです。

 今朝の御言葉の20節で、「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにはその御前から捨て去られることになった」とあります。「このような事態」とは、第25章に記されている、バビロン帝国によって、エルサレムが陥落させられる事態のことでしょう。バビロン帝国によるエルサレムの陥落という事態は、主の怒りによって、引き起こされるのです。そして、その主の怒りは、イスラエルとの契約に基づく怒りであったのです。『申命記』は、イスラエルの民が約束の土地カナンに入るにあたって、主と結んだ契約の書であります。その第28章に、「神の祝福と神の呪い」について記されています。「神さまの掟を守るならば、神さまは、このように祝福される。しかし、神さまの掟に背くならば、神さまは、このように呪われる」ということが書いてあるのです。もちろん、そこで神さまが願っておられることは、神さまの掟を守って、祝福を得ることでありました。呪いについて記すのは、そのような呪いを受けないで、神さまの掟を守り、祝福を得るためです。その呪いの一部を読んでみたいと思います。旧約の325ページです。『申命記』の第28章47節から53節までをお読みします。

 あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首かせをはめ、ついに滅びに至らせる。主は遠く地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる。その民は尊大で、老人を顧みず、幼い子を憐れまず、家畜の産むものや土地の実りを食い尽くし、ついにあなたは死に絶える。あなたのために穀物も新しいぶどう酒もオリーブ油も、牛の子も羊の子も、何一つ残さず、ついにあなたを滅ぼす。彼らはすべての町であなたを攻め囲み、あなたが全土に築いて頼みとしてきた高くて堅固な城壁をついには崩してしまう。彼らは、あなたの神、主があなたに与えられた全土のすべての町を攻め囲む。あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主が与えられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘の肉をさえ食べるようになる。

 ユダの国の首都であるエルサレムが、バビロンの軍隊によって包囲され、滅ぼされることは、この神の呪いの実現であるのです。主は怒りをもって、前もって警告しておられたことを実現されるのです。そのことを知らずに、ゼデキヤは、バビロンの王に反旗を翻したのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の622ページです。

2.エルサレムの陥落

 第25章1節から7節までをお読みします。

 ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ野で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。

 王宮があり、神殿があるエルサレムがバビロン軍によって包囲されたのは、ゼデキヤの治世第9年(紀元前589年)のことでありました。それから、ゼデキヤ王の第11年(紀元前587年)に至るまでの二年間、エルサレムは包囲されました。都の中では飢えが厳しくなり、食糧は底をついておりました。そのようなとき、城壁の一角が破られたのです。ヒゼキヤ王は夜中に逃げ出したのですが、カルデア軍によって捕らえられてしまいます。そして、バビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れて行かれ、裁きを受けるのです。第24章17節によれば、ゼデキヤは、バビロンの王によって、王とされた人物でありました。ユダの王ヨヤキンと有力者たちを、捕囚としてバビロンに連れて行ったバビロンの王は、ヨヤキンに代わる王として、そのおじのマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせたのです。そのゼデキヤがバビロンの王に反旗を翻したのですから、バビロンの王にとっては、許し難い裏切り行為であったのです。バビロンの王は、ゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でゼデキヤの両眼をつぶしました。ゼデキヤが最後に見た光景は、自分の息子たちが殺される姿であったのです。そして、バビロンの王は、ゼデキヤに青銅の足枷をはめ、バビロンへと連れて行ったのです。このように、『申命記』第28章に記されていた、神の呪いが、ゼデキヤのうえに実現したのです。

 ゼデキヤについては、実は、『エレミヤ書』の第37章から39章までに記されています。そこには、ゼデキヤがエレミヤを保護したこと、具体的には、水溜に投げ込まれたエレミヤを救い出したことが記されています。また、エレミヤとの会見の様子が記されています。そのところを開いて読んでみたいと思います。旧約の1249ページです。第38章14節から18節までをお読みします。

 ゼデキヤ王は使者を遣わして、預言者エレミヤを主の神殿の第三の入り口にいる自分のもとに連れて来させ、「あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ」と言った。エレミヤはゼデキヤに答えた。「もし、わたしが率直に申し上げれば、あなたはわたしを殺そうとされるのではないですか。仮に進言申し上げても、お聞きにはなりますまい。」ゼデキヤ王はエレミヤにひそかに誓って言った。「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない。」

 そこで、エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない。」

 主は、エレミヤを預言者として立て、ゼデキヤ王に、バビロン軍に降伏するようにと助言を与えておられました。主はエレミヤを通して、ゼデキヤとその家族の命が助かり、都が火で焼かれずに済む道を示されたのです。しかし、ゼデキヤは、エレミヤの進言を聞き入れませんでした。バビロン軍に降伏することなど、許されない状況にあったのです。ゼデキヤは、第38章5節で、エレミヤを殺そうとする役人たちに、こう言っています。「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから」。仮にゼデキヤが、エレミヤの進言を受け入れて、降伏することを決意しても、彼を取り巻く役人たちはそれを許しませんでした。バビロンと徹底的に戦うことが、世論の多数を占めていたのです。そして、エレミヤを通して語られた主の御言葉に従わなかったゆえに、ゼデキヤの息子たちは殺され、ゼデキヤは両眼をえぐられて、足枷をはめられ、バビロンへ連れて行かれることになるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の622ページです。

 

3.ヨヤキンの解放

 ユダ王国の最後の王であるゼデキヤの息子たちは殺され、ゼデキヤも両眼をつぶされ、足枷をはめられて、バビロンに連れて行かれました。そうすると、主がダビデに約束された、あなたの子孫の王座をとこしえに堅く据えるというダビデ契約は、どうなってしまうのでしょうか(サムエル記下7章参照)。ダビデ契約については、『列王記』の著者たちも知っておりました。『列王記下』の第8章19節には、ユダの王ヨラムの罪にもかかわらず、主がユダを滅ぼそうとしなかった理由を次のように記しています。「しかし、主は僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとされなかった。主はダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである」。ゼデキヤ王の息子たちが殺されたことは、ダビデとその子孫に絶えず与えると約束された「ともし火」が消えてしまったということなのでしょうか。そうではありません。なぜなら、『列王記』は、その最後に、捕囚の地バビロンで、ユダの王ヨヤキンが解放されたことを記しているからです。第25章27節から30節までをお読みします。

 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された。

 ヨヤキンは、ゼデキヤの前の王さまであり、エルサレムの陥落に先立って、バビロンに捕囚となっておりました。そのヨヤキンが、バビロンの新しい王様であるエビル・メロダクによって牢屋から解放され、名誉を回復された記述で、『列王記』は終わるのです。このことは、ダビデとその子孫に与えられたともし火が消えていないことを示しています。主は、ダビデに約束された、あなたの子孫の王座をとこしえに堅く据えるという約束を実現するために、バビロンの王さまがヨヤキンに対して厚意を持つようにされたのです。そして、このヨヤキンの子孫として、イエス・キリストはお生まれになるのです。『マタイによる福音書』の第1章に、「イエス・キリストの系図」が記されています。その12節にこう記されています。「バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを」云々。この「エコンヤ」が「ヨヤキン」のことであるのです。『エレミヤ書』の第24章1節に、こう記されています。「主がわたしに示された。見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった。それは、バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった」。ここに「ヨヤキムの子エコンヤ」とあるように、ヨヤキンはエコンヤとも呼ばれていたのです。主がダビデにされた約束、「あなたの子孫の王座をとこしえに堅く据える」という約束は、バビロンの地で解放され、名誉を回復されたヨヤキンへと受け継がれます。そして、その約束のとおり、イエス・キリストは、ダビデの子孫としてお生まれになりました。それゆえ、ヨヤキンの解放の知らせは、私たちにとっても、良い知らせ、福音であるのです。

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