新しい墓 2011年3月13日(日曜 朝の礼拝)

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新しい墓

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章38節~42節

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19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19:41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。ヨハネによる福音書 19章38節~42節

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序.死んで葬られ

 キリスト教会の最も基本的な信仰告白である使徒信条は、イエス・キリストについて次のように告白しています。「わたしはその独り子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」。ここに「死んで葬られ」とありますように、十字架につけられて死んだイエス・キリストは墓に葬られました。私たちは今朝その場面を御一緒に学ぼうとしているわけであります。

本論1.アリマタヤ出身のヨセフ

 38節をお読みします。

 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。

 イエス様の遺体がアリマタヤ出身のヨセフによって葬られたことは、他の三つの福音書にも記されています。マルコによる福音書を見ますとこう記されています。「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである」(マルコ15:43)。このマルコの記述によりますと、ヨセフは身分の高い議員であり、神の国を待ち望む人でありました。またマタイによる福音書はヨセフについて次のように記しています。「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」(マタイ27:57)。このマタイの記述によりますと、ヨセフは金持ちであり、イエス様の弟子でありました。さらにルカによる福音書はヨセフについて次のように記しています。「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである」(ルカ23:50,51)。このルカの記述によると、ヨセフは議員であり、同僚の決議や行動には同意しなかった善良で正しい人であり、神の国を待ち望む人でありました。このようにそれぞれの福音書においてヨセフについての記述は少し異なっておりますが、ヨセフは最高法院の議員であったと考えてよいと思います。アリマタヤ出身のヨセフは、イエス様をピラトに訴えた最高法院の議員であったのです。そのヨセフについてヨハネによる福音書は次のように記しています。「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」。ヨセフがイエス様の弟子であったことはマタイによる福音書も記しておりましたけれども、ヨハネによる福音書は「ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と記しています。このヨハネの記述は私たちに第12章42節、43節の御言葉を思い起こさせます。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」。ここで福音書記者ヨハネは、イエス様がユダヤ人たちの目の前で多くのしるしを行われたにも関わらず、彼らが信じなかった理由について記しています。ユダヤ人たちが多くのしるしを目の当たりにしながら、イエス様を信じなかった理由には神様側からの理由と人間側からの理由の二つの側面があります。神様の側から言えば、それは預言者イザヤの言葉が実現するためでありました。そして人間の側から言えば、それは神様から与えられる栄光よりも人から与えられる栄光を愛したからであったのです。この第12章42節、43節の御言葉はさらに遡って第9章22節の御言葉を思い起こさせます。第9章は「生まれつき目の見えない人が見えるようになる」お話が記されていますが、その18節から23節までをお読みします。

 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

 ヨハネによる福音書は22節の後半で、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と記しておりますが、これはイエス様の時代ではなく、この福音書が執筆されたヨハネの時代のことであります。ヨハネによる福音書の特徴の一つはイエス様の時代とこの福音書が執筆されたヨハネの時代とを重ね合わせて記す、いわゆる「二重のドラマ」であります。ここはその代表的な箇所です。この福音書が執筆された90年代において、ユダヤ人たちはイエスをメシアであると公に言い表す者たちを会堂から追放していました。会堂から追放されるとは、ユダヤ人社会から追放されることであり、村八分にされることを意味しておりました。そのような状況にある読者に向けて、ヨハネによる福音書は記されているわけです。そして、ここにヨハネによる福音書がヨセフについて、「ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と記す理由があるのです。福音書記者ヨハネは読者の中にユダヤ人たちを恐れて、イエスの弟子であることを隠している者たちを想定してこのように記しているのです。イエスの弟子であることを公にすることにより、社会的な不利益を被ることを恐れてしまう私たちに、イエス様の遺体を取り降ろしたいと願い出たのは、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」であったとヨハネによる福音書は記すのです。

 ヨセフはイエス様の遺体を取り降ろしたいとピラトに願い出たことにより、自分がイエス様の弟子であることを公にしたと言えます。ユダヤ人たちを恐れて、自分がイエスの弟子であることを隠していたヨセフが、イエス様の遺体を取り降ろしたいと願い出ることによって、自分がイエス様の弟子であることを公にするのです。これは不思議なことに思えますけれども、ヨセフはもはや知らん顔することができなかったのだと思います。前回学んだ31節に、「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」とありましたけれども、これはユダヤ人たちが晴々した気持ちで特別な安息日を祝うための自己本位な願いでありました。けれども、ヨセフの願いというものは、イエス様のお体を丁重に葬りたいとの申し出であったわけです。十字架に磔にされた者は、通常は囚人用の共同墓地に葬られます。そのことにイエス様の弟子であったアリマタヤのヨセフは我慢ならなかった。彼はもはやユダヤ人たちを恐れることなく、ピラトのもとに行き、遺体を取り降ろしたいと願い出たのです。このようにしてアリマタヤのヨセフは人間から与えられる栄光よりも神から与えられる栄光を愛する者とされたのであります。そしてここに、人々を恐れてイエス様の弟子であることを隠そうとする私たちへの力強い招きがあるのです。

本論2.ニコデモ

 39節をお読みします。

 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた者を百リトラばかり持って来た。

 ここでニコデモが登場してきますが、ニコデモについて記しているのはヨハネによる福音書だけであります。ヨハネによる福音書は、イエス様のお体がアリマタヤ出身のヨセフとニコデモの二人によって葬られたと記しています。「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも」とありますように、ここヨハネは私たちに第3章の御言葉を思い起こさせようとしています。第3章1節、2節にこう記されておりました。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです』」。このように言うニコデモに対して、イエス様は「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と教え始めるわけです。ニコデモが夜イエス様のもとを訪れたのは、人々に知られたくなかったからであります。このイエス様とニコデモの対話はいつの間にかイエス様の独白となり、ニコデモはどこかに消えてしまいます。次にニコデモが登場しているのは第7章50節であります。仮庵祭のときに、祭司長たちとファリサイ派の人々はイエス様を捕らえるために下役たちを遣わすのですが、下役たちはイエス様を捕らえずに戻ってきました。その時のことが第7章45節から52節までにこう記されています。

 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまで惑われたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は呪われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを尋ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたか確かめたうえでなければ、判決をくだしてはならないことになっているではないか。」彼らは答えた。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

 ここでファリサイ派の人々は「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言っておりますから、ニコデモはこのとき、自分がイエス様の弟子であることを公にしていなかったことが分かります。ニコデモは、イエス様に心ひかれながらも、その信仰を公にしてはいなかったのです。しかしそのような彼がここでファリサイ派の人々に抗議しております。ファリサイ派の人々は「群衆がイエス様を信じるのは律法を知らないからである」と言うのですが、ニコデモは「そのように言うあなたたちは律法に反したことをしているのではないか」と抗議するわけです。そのようにして彼はイエス様を擁護したとも言えるのです。

 隠れるように夜イエス様のもとを訪れたニコデモ、またファリサイ派の人々にイエス様を擁護したニコデモが、今朝の御言葉ではアリマタヤ出身のヨセフと同じように、イエス様の弟子であることを公にいたしました。このことはヨセフとニコデモが、イエス様の十字架において神の栄光を見たからではないでしょうか。特にニコデモにおいては、イエス様から直接次の御言葉を聞いておりました。第3章9節から15節までをお読みします。

 すると、ニコデモは、「どうしてそんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証を受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち、人の子の他には、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。

 このようにニコデモは、イエス様から直接、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と聞かされていたのです。そして、ニコデモは十字架に上げられたイエス様をその目で見たのです。そのときニコデモも、もはやユダヤ人たちを恐れることなく、自分がイエス様の弟子であることを公にしたのです。ニコデモは、没薬と沈香を混ぜた香料を百リトラばかり持って来ましたが、百リトラはおよそ33キログラムで、これは一人の人を葬るには十分すぎる量であります。没薬と沈香を混ぜた香料は高価なものでありましたが、その香料を惜しげもなく持って来たところに、私たちはニコデモの献身を見ることができるのです(12:3参照)。

 かつてイエス様は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われましたけれども、その御言葉どおり、ユダヤ人たちを恐れてイエス様の弟子であることを隠していたアリマタヤ出身のヨセフとニコデモが、イエス様への信仰を公にするのです(12:32)。そしてイエス様のお体は、この二人を通して、まことに丁重に葬られることになるのです。

本論3.新しい墓

 40節から42節までをお読みします。

 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 イエス様のお体はアリマタヤ出身のヨセフとニコデモによって、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包まれました。そして、園にあったまだ誰も葬られたことのない新しい墓に置かれたのです。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書と違って、ヨハネによる福音書はイエス様のお体が丁重に葬られたことを記しています。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書ですと、葬りが不完全なため安息日が終わってから婦人たちが香料をもって墓を訪れるのですが、ヨハネによる福音書ではイエス様の葬りはしっかりと行われているのです。ヨハネによる福音書はニコデモが没薬と沈香を混ぜた香料を大量に持って来たこと、さらには十字架につけられた所には園があったことを記しておりますが、これらはイエス様がユダヤ人の王として葬られたことを示しております。イエス様が十字架につけられた「されこうべの場所」に園があったとは到底考えにくいのですが、ヨハネはイエス様が庭園の墓に葬られたと記すことによって、イエス様が王として葬られたことを教えているのです(列王記下21:18参照)。十字架において「ユダヤ人の王」として息を引き取られたイエス様は、その葬りにおいても「ユダヤ人の王」として葬られるのであります。

 イエス様のお体がまだ誰も葬られたことの新しい墓に納められたことは、ルカによる福音書も記すことですが、これは神の御子であるイエス様にふさわしいことでありました。マタイによる福音書によれば、この墓はアリマタヤ出身のヨセフのものでありました。ヨセフは自分のために用意していた新しい墓にイエス様のお体を納めたのです。当時のお墓は岩壁に横穴を開けたもので、何体かを横たえることができるように造られておりました。ヨセフは自分もやがてここに横たわることを思いつつ、イエス様のお体を墓に納めたのだと思います。また、香料を大量に持って来たニコデモも、もしかしたら自分の葬りのために香料を用意していたのかも知れません。しかし、ニコデモもその香料をイエス様の葬りのために用いたのでありました。

結.主に結ばれて死ぬ人は幸いである

 イエス様を葬ったアリマタヤ出身のヨセフとニコデモは、このときイエス様が復活されるとは夢にも思っていませんでした。しかし、後にこの二人は空っぽの墓を目の当たりにし、イエス様が復活されたという良き知らせを耳にすることになるのです。そのとき、ヨセフもニコデモも、自分が納められることになる墓をまったく新しいものとして見たであろうと思います。墓に葬られたイエス様が三日目に復活されたことによって、墓の存在そのものが新しいものとなった。新しい意義をもつものとなったのです。墓はもはや私たちの終の棲家ではありません。私たちは墓に葬られて終わりではない。イエス・キリストを信じる者はその墓から出てくる。復活するのです。イエス・キリストが朽ちることのない栄光の体へと復活されたように、私たちもイエス・キリストと同じ栄光の体へと変えられるのです(フィリピ3:21参照)。

 ご存じのとおり私たちの教会には春日部にお墓があります。そこには私たちと関係の深い方々の遺骨が納められています。私たちはその人たちが、やがて復活して、墓から出てくることを信じているのです。そればかりか、私たち自身が死んで、墓に納められたとしても、やがて私たちも復活して、その墓から出て来ることを信じているのです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストは死んで葬られ、三日目に復活されたお方であるからです。私たちの罪のために死んでくださったイエス様は、私たちの初穂として死から三日目に復活されました。それゆえ、聖書は「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と私たちに告げているのです(黙示録14:13)。

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