自ら十字架を負うイエス 2011年2月20日(日曜 朝の礼拝)

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自ら十字架を負うイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章16節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:16 こうして、彼らはイエスを引き取った。
19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。ヨハネによる福音書 19章16節~24節

原稿のアイコンメッセージ

序.共観福音書との違いを意識しつつ

 しばらく中断しておりましたが、今朝から再びヨハネによる福音書を読み進めていきます。小見出しに「十字架につけられる」とあるとおり、今朝の御言葉にはイエス様がいよいよ十字架に上げられる場面が記されています。新共同訳聖書は小見出しをつけ、さらにその脇に括弧書きで並行箇所を記しています。マタイによる福音書では第27章32節から44節にイエス様が十字架につけられる場面が記されていますよと教えてくれているわけです。今朝は、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書との違いを意識しつつ、ヨハネによる福音書から御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

本論1.自ら十字架を背負うイエス

 16節後半から18節までをお読みします。

 こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかのふたりをも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

 16節後半に「こうして、彼らはイエスを引き取った」とあり、18節にも「そこで彼らはイエスを十字架につけた」とありますが、ここでの「彼ら」とは誰のことを言っているのでしょうか?23節に「兵士たちは、イエスを十字架につけてから」とありますから、十字架刑を執行するローマの兵士たちであったと考えることができます。しかし文脈からすれば、ここでの「彼ら」はイエス様をピラトに訴えたユダヤ人の祭司長たちであったと読むことができるのです。ピラトは6節で「あなたがたが引き取って、十字架につけるがよい」と言っておりましたけれども、16節から18節を読みますと、そのピラトの言葉のとおり、ユダヤ人の祭司長たちがイエス様を引き取って十字架につけたかのように読むことができるのです。

 イエス様は、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれました。十字架刑につけられる者は、自分が磔にされる十字架の横木を処刑場まで背負って運んだと言われています。ですから、イエス様が十字架を背負い、処刑場である「されこうべの場所」に向かわれたのは当然のことであったと言うこともできます。けれども、福音書記者ヨハネはイエス様が自ら進んで、主体的に十字架を背負われたことを記しているのです。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書を読みますと、ローマ兵がイエス様の十字架をキレネ人シモンに無理やり背負わせたことが記されています。たとえばマルコによる福音書の第15章21節にはこう記されています。

 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そしてイエスをゴルゴタという所-その意味は「されこうべの場所」-に連れて行った。

 このようにマルコによる福音書では、イエス様の十字架を背負うのはキレネ人シモンであるのです。しかし、福音書記者ヨハネはシモンのことを一切記さず、イエス様が自ら十字架を背負って、ゴルゴタへ向かわれたと記すのです。ローマ兵によって連れて行かれるのではなくて、イエス様は自ら十字架を背負い、ゴルゴタへ向かって歩まれるのです。このことはイエス様が十字架の死を主体的に死のうとしておられることを私たちに教えております。かつてイエス様は第10章18節で次のようにおっしゃいました。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。イエス様は命を捨てる権能と命を再び受ける権能とをお持ちの方として、自ら十字架を背負い、ゴルゴタへと向かわれたのです。

 処刑場がなぜ「されこうべの場所」と呼ばれたかについては、そのかたちが「されこうべ」の形に似ていたからだと言われています。処刑場であるゴルゴタはイスラエルの町の外にありました。そして、そのゴルゴタには三本の十字架が立てられたのです。イエス様の他にも二人、イエス様を真ん中にして右と左に十字架につけられました。福音書記者ヨハネはこの二人の罪について記しておりませんけれども、マルコとマタイは「強盗」、ルカは「犯罪人」と記しております。いずれにしても、この二人は自らの罪のゆえに十字架につけられたのです。そして、そのようにしてヨハネも、イエス様のうえに「罪人の一人に数えられた」という旧約聖書の預言が実現したと記しているのです。旧約聖書のイザヤ書第53章11節、12節にこう預言されておりました。

 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 イエス様は自ら十字架を背負い、ゴルゴダへと向かい、罪人と共に十字架につけられました。そのようにしてイエス様はイザヤが預言した主の僕として罪人の一人に数えられたのです。

本論2.ナザレのイエス、ユダヤ人の王

 ヨハネによる福音書に戻ります。19節から22節までをお読みします。

 ピラトは罪状書きを書いて、十字架のうえに掛けた。そこには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 十字架刑において罪状書きが掲げられることは当時の慣習でありました。ピラトはイエス様の罪状書きに「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書きました。しかしそれを見たユダヤ人たちの祭司長たちは「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と書き直すことを求めました。ここでの「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」という言葉は元のギリシア語から直訳すると「彼は、わたしはユダヤ人の王だと言った」となります。私たちはイエス様がピラトから尋問された場面を学びましたが、イエス様の口から「わたしはユダヤ人の王である」と発言されたことはありませんでした(18:33,34,37)。むしろイエス様をユダヤ人の王であると言い張ったのは祭司長たちであったのです。それゆえ、もし祭司長たちの言葉に従って、ピラトが罪状書きを書き直したならば、それは偽りの罪状書きとなってしまいます。ですから、ピラトは祭司長たちの要求を断固として退けました。「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」。この言葉にはローマの総督であるピラトの意地のようなものが感じられます。ピラトは祭司長たちに強要されて、何の罪も見いだせない男を十字架につけるはめになりました。しかし、ここでローマの総督としての権威をもって祭司長たちに一撃を加えるのです。そして、このピラトの書いた言葉は、ピラトの思いを越えて、真実を物語っているのです。ナザレのイエスは、まさしくユダヤ人の王でありました。イエス様は十字架にあげられることによって、ユダヤ人の王として即位された。イエス様は十字架に上げられることによって王としての栄光をお受けになるのです。ヨハネによる福音書は、罪状書きの言葉「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という言葉が、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたことを記しています。これによって当時の全世界の民に、十字架につけられたイエス様がユダヤ人の王であることが示されたのです。そしてこのことは、ユダヤ人の王であるイエス様が、全ての人の王であることをも示しているのです。聖書は世界各国の様々な言葉に翻訳されて読まれておりますけれども、それはイエス・キリストが全ての人の王であられるからなのです。私たちは日本語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という御言葉を読むとき、このお方が私たち日本人の王であることを心に留めるべきなのです。もちろん、それはユダヤ人たちが訴えたような政治的な王ではありません。イエス・キリストは私たち日本人の罪をも担って十字架で死んでくださった十字架の王であられるのです。

本論3.永遠の大祭司イエス

 23節と24節をお読みします。

 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。

 十字架刑を執行した兵士たちは、死刑囚の所持品をもらうことができました。このことは兵士たちのいわば役得であったのです。兵士たちはイエス様の服を縫い目に従って四つにわけ、各自に一つずつ渡るようにしました。しかし、下着は縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったので、裂かないで、くじ引きで誰のものになるかを決めることにしました。そのようにして、聖書の御言葉、詩編第22編19節の御言葉がイエス様の上に実現したのです。「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という御言葉はヘブライ語聖書のギリシア語訳である七十人訳聖書からそのまま引用されています。福音書記者ヨハネは、聖書の御言葉に記されていることがそのままイエス様において実現したことを私たちに教えているのです。兵士たちがイエス様の衣服を分け、くじを引くということさえも、神様の御意志、御計画によって行われていることをヨハネは私たちに気づかせたいのであります。イエス様の下着には縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったことはヨハネだけが記していることであります。それで多くの人々がこのイエス様の下着は何を象徴するのかと考えてきました。一つの有力な解釈は、イエス様の縫い目のない、上から下まで一枚織りの下着はイエス様が大祭司であることを表しているという解釈であります。大祭司の衣服については旧約聖書の出エジプト記第28章31節、32節にこう記されています。

 また、エフォドと共に着る上着を青一色の布で作りなさい。その上着の真ん中に頭を通す穴をあけ、そのへりは革の鎧の襟のように縁取りで破れないようにする。

 ここに記されているのは上着についての指示でありますけれども、ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、下着も一枚織りで作られました(土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想7』88頁参照)。それゆえ、福音書記者ヨハネはイエス様の下着に縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったことを記すことにより、イエス様こそ大祭司であることを示しているのです。

 私たちは先程、ウェストミンスター小教理問答を通して、イエス様の預言者職について学びました。そして次週はイエス様の祭司職について学ぼうとしているわけであります。イエス様の祭司職についてまとまって教えているのはヘブライ人への手紙であります。ヘブライ人への手紙はイエス様がただ一度御自身をささげてくださったことにより永遠の贖いを成し遂げてくださった大祭司であると教えています。ではヘブライ人への手紙の他に、イエス様が大祭司であることを教えている書物は他にないのかと言えば、わたしはヨハネによる福音書もイエス様が大祭司であることを教えていると思います。私たちが既に学びました第17章のイエス様の祈りは昔から「大祭司の祈り」と呼ばれてきましたし、またヨハネによる福音書もイエス様の十字架の死をいけにえとして解釈しております。洗礼者ヨハネはイエス様を指差して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのです。また福音書記者ヨハネは第19章14節で、イエス様が裁判の席についたのは「過越祭の準備の日の、正午頃であった」と記しています。これは神殿において祭司たちが過越の小羊を屠る時間帯でありました。そのような時間帯にイエス様は自ら十字架を背負い、ゴルゴダへと向かわれるのです。いわばイエス様は永遠の大祭司として、十字架のうえに自らをほふられるのです。私たちは自ら十字架を背負い、ゴルゴタに向かわれたイエス様のお姿に、自らを神の小羊としてささげられる大祭司イエス様のお姿を見ることができるのです。

結.自分の十字架を背負ってイエスに従う

 私たちは今朝、十字架につけられたイエス・キリストが、私たちの王であり、大祭司であられることをはっきりと心に刻みたいと思います。そして、私たちそれぞれに与えられている十字架を自ら背負って、イエス様に従ってゆきたいと願います。イエス様はマルコによる福音書の第8章34節でこうおっしゃいました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。

 私たちの罪のために自ら十字架を背負われたイエス・キリストは、今朝私たちに「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。十字架の死から三日目に復活された栄光の主がそのようにして私たちを栄光へと招かれるのです。

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