この人を見よ 2011年1月30日(日曜 朝の礼拝)

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この人を見よ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19:2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19:3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19:4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19:7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19:8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19:12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19:13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19:14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。ヨハネによる福音書 19章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

序.ピラトの法廷

 使徒信条は「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白しておりますが、ヨハネによる福音書第18章28節から第19章16節までにはイエス様がローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれたことが記されています。前回は第18章40節まで学びましたので、今朝は第19章1節から16節前半より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.ユダヤ人の王

 1節から7節までをお読みします。

 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

 少し遡りますが第18章38節でピラトはユダヤ人たちにこう語りました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」。ローマの総督ピラトはイエス様に何の罪も見いだせませんでした。ですからピラトはイエス様を過越祭の慣例となっていた恩赦を用いて釈放しようとしました。けれどもユダヤ人たちが選んだのは強盗バラバであったのです。ピラトの思惑通りにはことは運びませんでした。そこでピラトはどうしたかと言いますと、イエス様を捕らえ、鞭で打たせました。この鞭には骨や金属の破片がついており肉をも裂いたと言われています。鞭打ちによって死んでしまう者もいたのです。よってイエス様は傷らだけになったと思われます。またピラトが命じたのかどうかは分かりませんが、兵士たちは茨で冠を編んでイエス様の頭にかぶせ、紫の服をまとわせました。鋭いトゲのある茨の冠を頭に載せ、王の色である紫の服を着せることによって、さらにはそばにやって来ては「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手で打つことによってイエス様を嘲ったのです。これらのことは官邸の中で起こったことであります。ピラトは官邸の中で、イエス様が鞭打たれ兵士たちになぶりものにされる様子を見ておりました。そして官邸の外にいるユダヤ人たちのもとに出て来てこう言うのです。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引きだそう。そうすれば、わたしが彼に何の罪を見いだせないわけが分かるだろう」。ピラトは鞭打たれて傷だらけになった男に茨の冠をかぶらせ、紫の服を着せてユダヤ人たちの前に差し出すことにより彼らを侮辱しようとしました。ピラトは自分が何の罪も見いだせなかった男をユダヤ人たちの言いなりになって処刑することが面白くなかったのです。ここでピラトがしていることは悪い冗談、悪ふざけです。「お前たちが私に訴えている男がどのような男か今一度よく見てみろ。このような男がお前たちの王なのか」とユダヤ人たちをおちょくっているのです。しかし私たちが注目したことは福音書記者ヨハネはイエス様が自分で茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出てこられたように記していることです。兵士たちはイエス様を道化にしようと茨の冠をかぶらせ、紫の服を着せたのかも知れませんけれども、イエス様はユダヤ人の王として茨の冠をかぶり、紫の服を着て御自分の民であるユダヤ人たちの前に進み出るのです。ピラトは「見よ、この男だ」と言いました。ピラトの思いからすれば、「この無力でみじめな男を見よ、これがお前たちの王だ」と言ったところでしょう。このようにしてピラトはユダヤ人たちを愚弄したのです。そしてピラトの願いとしてはユダヤ人たちが「そのような無力でみじめな男が私たちの王であるはずはない」と言わせたかったのだと思います。ある研究者はピラトはこのときユダヤ人たちから笑いが起きるのを期待していたのではないかとさえ言っております。けれどもユダヤ人たちの反応はピラトの期待に反するものでありました。彼らは茨の冠をかぶり、紫の服を着て出て来た自分たちの王を見ると「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだのでありました。ピラトは「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい」。これは人を死刑にする権限を持っていなかったユダヤ人たちには不可能なことであります(18:31参照)。しかも十字架刑はローマの処刑方法でありました。ピラトはこのように言うことにより、ユダヤ人たちの訴えを棄却しようとしたのです。ピラトにはユダヤ人たちがそれ程までにイエス様を殺そうとする理由が分からなかったのです。そのようなピラトにユダヤ人たちは自分たちがイエス様を殺そうとする本当の理由を打ち明けます。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」。第18章29節でピラトから「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問われたとき、ユダヤ人たちは「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と答えました。しかしここに至ってユダヤ人たちはピラトにイエス様を訴える本当の理由を明かすのです(5:18、8:58、10:36参照)。ユダヤ人たちは「ローマの法律によれば無罪であっても、ユダヤの法律、神の掟である律法によればその男は死罪にあたる。なぜなら自分を神と等しい者として神を冒涜したからである」と言うのです(レビ24:15、16参照)。このことを打ち明けることによりユダヤ人たちはピラトに自分たちの要求に従うようにと促したのかも知れません。なぜなら地方総督はその土地の代表者たちの決議を出来る限り重んじることが求められていたからです。けれどもピラトを捕らえたのは何よりも恐れでありました。ユダヤ人たちの「この男は自分を神の子としている」という言葉を聞いて、ピラトは再びイエス様のおられる官邸の中へと入って行くのです。

2.上からの権威

 8節から12節までをお読みします。

 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあるということを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」。そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 再び総督官邸の中に入ったピラトは「お前はどこからきたのか」とイエス様に問うています。これは第7章でユダヤ人たちが問題にしたことでありました。エルサレムの人々は「メシアはどこから来るか分からないはずだ。ガリラヤのナザレ出身のこの男がメシアであるはずはない」と言いました。またある者たちは「メシアはダビデの村ベツレヘムから出ると聖書に書いてあるのだから、ガリラヤのナザレ出身のことの男がメシアであるはずはない」と言いました。イエス様が御自分が御父から遣わされたという究極的な出所について教えられましたけれども、彼らはそれをまったく理解しませんでした。ピラトがイエス様に「お前はどこからきたのか」と問うとき、そこで問うていることは出身地ではありません。ユダヤ人たちが言うように、お前は神的な人物であるのかどうかが問われているのです。それに対してイエス様は何もお答えになりませんでした(イザヤ53:7参照)。そこでピラトはイエス様にこう言います。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」。ピラトは自分が何者であるかを語ることによってイエス様を脅して答えさせようとするわけですが、イエス様は次のようにおっしゃいました。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」。ここで「神から」と訳されている言葉は直訳すると「上から」となります。口語訳聖書は「あなたは、上から賜るのでなければ、わたしに対して何の権威もない」と訳しています。イエス様は「上から与えられていなければ、わたしに対して何の権威もないはずだ」と答えることによってピラトの質問に間接的に答えておられるのです。イエス様はここで自分は権限を持っていると言うピラトにあなたの権限は上から与えられたものに過ぎないと言われます。明らかにイエス様はここでピラトを超えた権威、神の権威に心を向けています。ピラトは神の権威、それは同時にイエス様の権威でもありますが、その上からの権威を実現するための器に過ぎないのです。ピラトの思いを超えたところで第10章18節のイエス様の御言葉が実現しようとしているのです。第10章はイエス様が「わたしは良い羊飼いである」と言われたところでありますが、その18節でイエス様はこうおっしゃいました。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。ここで「できる」と訳されている言葉は権限と訳されているのと同じ言葉です。新改訳聖書は「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります」と訳しています。ピラトはイエス様を十字架につける権能が自分にあると申しました。けれどもその究極的な権能は神様に、イエス様御自身にあるのです。それゆえイエス様は上から権能を与えられた者としてピラトとユダヤ人たちを裁かれるのです。「だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」。これはイエス様を十字架につけることができると思い上がっているピラトと、そのピラトを利用して自分たちの王を十字架につけようとするユダヤ人たちを断罪する言葉であります。ピラトもユダヤ人たちも、イエス様の御言葉が実現するために用いられた器であったと言うことができます(19:32参照)。けれどもその器は自由意志を持つ人格であるがゆえにその責任を問われるのです。イエス様は、御自分を十字架につけるピラトよりも、ピラトに御自分を引き渡したユダヤ人たちの罪は重いと言われました。それは彼らが神の選びの民であり、神の掟である律法を持っていたからです。またユダヤ人たちはイエス様の御言葉を聞き、その行いを見た上でイエス様を殺そうとするからです。12節に「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた」とありますけれども、ピラトは罪に定められないようイエス様を釈放しようとしました。しかしユダヤ人たちはそれに応じず「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と叫ぶのです。彼らは密告するぞとピラトを脅したわけです。ピラトも自分が上からの権威によって生きていることを知っておりました。そしてピラトにとって上からの権威とは何よりローマ皇帝の権威であったのです。王と自称する者を釈放したという噂がローマ皇帝の耳に入れば、自分の命が危なくなる。それゆえピラトはイエス様を裁きの場へと連れ出すのです。

3.イエスか、皇帝か

 13節から16節前半までをお読みします。

 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

 福音書記者ヨハネはイエス様が判決を受けた場所の名前と時刻を記すことによって、このピラトの判決が重要なものであることを教えています。正式な判決は公に為されなければなりませんでしたから、イエス様は外に連れ出され、敷石という場所で裁判の席に着きます。新共同訳聖書は「裁判の席に着かせた」とありますが、これは口語訳聖書、新改訳聖書とは違う訳し方になっています。口語訳聖書、新改訳聖書では「ピラトが裁判の席に着いた」と記されています。ピラトが判決を言い渡すために裁判官の席についたと記しているのです。けれども新共同訳聖書はピラトはイエス様を裁判官の席に着かせたと記しているのです。ここで「座らせた」と訳されている動詞は自動詞と他動詞の両方の意味があるので、文法的にはどちらにも翻訳できます。私たちは新共同訳聖書を用いておりますので、新共同訳聖書の翻訳によれば、ピラトは自分を脅迫するユダヤ人たちを再び愚弄するために、イエス様を裁判官の席に座らせたことになります。ピラトは「見よ、あなたたちの王だ」と言っておりますが、これは5節の「見よ、この男だ」と重なる言い回しです。「傷だらけで、茨の冠をかぶった無力でみじめな王がお前たちにはお似合いだ」とピラトは嘲ったのです。するとユダヤ人たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫びました。ピラトは「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言っておりますけれども、このユダヤ人たちの要求はそもそもおかしいのです。ユダヤ人たちが自分たちの王をローマの総督に訴え出ることなど本来はあり得ないことであります。ユダヤ人たちが自分たちの王をローマの総督に訴えるという不条理を、ピラトの「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」という言葉は言い表しているのです。すると祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました。これは恐るべき言葉です。なぜならユダヤ人は神を唯一の王とする神の民であったからです。そのユダヤ人の代表者である祭司長たちの口から「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」という言葉が語られたのです。ユダヤ人たちは御父から遣わされた王イエスではなくて、ローマ皇帝を自分たちの王として選び取ったのです。これはピラトにとって決定的な言葉でありました。皇帝を自分たちの王と公言する祭司長たちに別の王を押し付けるならば、自分の方が反逆罪に問われるからです。そこでピラトは、十字架につけるためにイエス様を彼らの手に引き渡したのです。

結.この人を見よ

 今朝の説教題を「この人を見よ」といたしました。これは5節のピラトの言葉「見よ、この男だ」から取ったものであります。元の言葉を見ますと「見よ、この人だ」と記されています。ラテン語訳聖書では「エッケ、ホモ」と記されており、多くの芸術家が「エッケ、ホモ」と題してイエス様の裁判の場面を描いております。私たちは今朝最後にこのピラトの言葉「見よ、この人だ」という言葉をピラトの思いを超えた神様からの示しとして受け取りたいと思います。すなわちイエス様こそ、罪のないまことの人であり神の御子であられるということです。ピラトは何度も「わたしは彼に何の罪も見いだせない」と語りました。またユダヤ人たちは「彼は自分を神の子としている」と言いました。そのようにして福音書記者ヨハネは、この人こそ、罪のないまことの人であり、神の御子であることを今朝私たちに教えているのです。そのようにキリスト教会はこのピラトの言葉を読んできたのであります。ピラトが指し示すイエス様は傷だらけの、茨の冠をかぶった無力でみじめな人です。しかし私たちはイエス様が私たちの罪のために虐げられたことを知っているがゆえに、この人こそ私たちの王であると告白するのです。そして私たちも「この人を見よ」とイエス・キリストを知らない多くの人々に呼びかけているのです。

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