イエスとペトロ 2011年1月16日(日曜 朝の礼拝)

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イエスとペトロ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 18章12節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。 18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18:17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18:18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。ヨハネによる福音書 18章12節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はヨハネによる福音書第18章12節から27節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 12節から14節までをお読みします。

 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

 兵士たちと下役たちに捕らえられたイエス様はまずアンナスのところへ連れて行かれます。このことはヨハネによる福音書だけが記していることであります。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる福音書を見ますとその年の大祭司であったカイアファを議長とする最高法院においてにイエス様が尋問されたことが記されています。けれどもヨハネによる福音書はカイアファのしゅうとであったアンナスによる尋問を記しているのです。アンナスとはどのような人物であったのでしょうか?アンナスは紀元6年から15年まで大祭司の職にありました。アンナスの5人の息子はみな大祭司となっておりまして、大祭司一族の長として大きな影響力を持っておりました。その年の大祭司であったカイアファもアンナスの娘婿でありました。イエス様は最高法院で最も力のあるアンナスのもとへ連れて行かれたのです。

 福音書記者ヨハネは14節で「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」と記しています。この記述は私たちに第11章45節以下の御言葉を思い起こさせます。そこにはこう記されておりました。第11章45節から53節までをお読みします。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりではなく、散らされている神の子を一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

 先程わたしは大祭司カイアファを議長とする最高法院での尋問がヨハネによる福音書には記されていないと申しましたが、第11章45節以下にありますように、最高法院においてイエス様を処刑することはすでに決定済みであってのです。それはイエス様を尋問した裁判の結果というよりも「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、最高法院におって好都合である」という政治的判断によるものでありました。ですからヨハネによる福音書は最高法院における尋問を記していないというよりも記す必要がなかったと言えるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。第18章15節から18節までをお読みします。

 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

 ここで場面が一転します。イエス様は御自分を捕らえに来た者たちに「『わたしである』と言ったのではないか。わたしを捜しているなら、この人々を去らせなさい」と言われたのでありますが、シモン・ペトロともう一人の弟子はイエス様から離れずに従いました。おそらくイエス様を捕らえに来た者たちに紛れてイエス様に従ったのだと思います。イエス様が連れて行かれるのは大祭司アンナスの屋敷でありますから、ローマの一隊の兵士と千人隊長は途中で別れたものと思われます。祭司長たちやファリサイ派の人々が遣わした下役たちが捕らえたイエス様を大祭司であるアンナスの屋敷へつれて来たのです。アンナスは現職を退いておりましたけれども、依然として大祭司であったのです。ローマ人は大祭司を退位させ、別の人物を任命しましたが、ユダヤ人の考えでは大祭司の職は終生変わらないものでありました。それゆえ福音書記者ヨハネはアンナスもカイアファも大祭司と記しているのです(18:19,24、ルカ3:2、使徒4:6参照)。大祭司は本来一人しかいないはずなのですが、同時に何人もの大祭司がいるという状況がローマ人の人事異動によって生じていたのです。大祭司の屋敷でありますから誰でも入れるわけではありません。もう一人の弟子は大祭司の知り合いだったので、大祭司の屋敷の中庭に入ることができましたが、ペトロは門の外に立っておりました。捕らえられたイエス様に従った「もう一人の弟子」について記すのもヨハネによる福音書だけでありますが、ここでは門番の女に話しペトロを中に入れる役割をしております。この「もう一人の弟子」は福音書を記したゼベタイの子ヨハネではなくて、ニコデモではなかったかとも言われますが、ともかくペトロはもう一人の弟子の口利きで大祭司の屋敷の中庭に入ることができたのです。門番の女中はペトロにこう言いました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」。この門番の女の問いは、元のギリシャ語を見ると否定的な答えを予想する質問であります。新改訳聖書がこのところを「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と訳しているように、否定的な答えを予想する質問が門番の女から発せられたわけです。なぜ門番の女はこのようなことを尋ねたのでしょうか?一つの理由は門番として大祭司の屋敷の中庭に入る者がどのような者であるかをチェックするためであったと思われます。そうすると大祭司の屋敷の中庭に入るために、ペトロは「違う」と答えたのだと考えることができます。ペトロは本心からイエス様との関係を否定したのではなくて、大祭司の屋敷の中庭に入るために「違う」と言ったのだと考えることができるのです。けれどもそうではないのです。なぜなら門番の女は「あなたも、あの人の弟子ではありませんか」「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言っているからです。「あなたも」とは「もう一人の弟子と同じように、あなたもまた」ということであります。門番の女は「もう一人の弟子」がイエス様の弟子であることを言っていたわけです。ですからイエス様の弟子であるという理由でペトロが大祭司の屋敷の中庭に入れてもらえないということはないのです。ペトロは「わたしもそうです。あの人の弟子です」と言って大祭司の屋敷の中庭に入ることもできたのです。けれどもこのときペトロは「違う」と答えました。「わたしはそうではない」と答えたのです。このペトロの答えはイエス様の「わたしはある」というお答えを否定する形で記されています。イエス様は御自分を捕らえに来た兵士たちや下役たちの前に進み出て、「わたしがあなたがたが捕らえようとしているナザレのイエスである」とお語りになりました。けれどもペトロは一人の女中から「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言われたとき、即座に「わたしはそのようなものではない」と答えたのです。そればかりかペトロはイエス様を捕らえた下役たちと一緒に立って、火にあたっていたのです。18節後半の「ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」という御言葉は5節後半の御言葉と対応する形で記されいます。5節後半にはこう記されておりました。「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた」。イエス様を引き渡したユダが彼らと一緒にいたように、今やイエス様の弟子であることを否定したペトロが彼らと一緒にいるのです。

 19節から24節までをお読みします。

 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

 また場面が一転しております。大祭司アンナスは、イエス様に弟子のことや教えについて尋ねました。それに対してイエス様は弟子のことには触れず、教えについては、自分は公然と話してきたのだから、それを聞いた人々に尋ねたらよいではないか」とお答えになりました。これは律法に適った裁きを要求していると読むことができます。第8章13節でファリサイ派の人々がイエス様に「あなたは自分について証ししている。その証しは真実ではない」と言っていたように、真実は二人または三人の証言によって確定されなければなくてはならなかったのです。ですからイエス様は大祭司に向かって「律法に従ってわたしを裁くならば、わたしの話を聞いた者たちに証言を求めるがよい」と言われたわけです。またこのイエス様の御言葉は、イエス様の教えが公のものであったことを確認するものであります。イエス様は会堂や神殿の境内ですでに言葉を尽くしてユダヤ人たちに教えてきました。「今更ここで語ることは何もない。わたしはすでに世に向かって公然と話した」とイエス様は言われるのです。

 このようなイエス様の大胆な態度を見て、下役の一人が「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエス様を平手で打ちました。この下役は暴力によってイエス様をどうにかできるとまだ勘違いしているのです。けれども、イエス様がここで求めておられるのは何より正しさであるのです。イエス様は「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言われました。暴力に屈することなく真に大胆なイエス様のお姿がここに記されております。この後どのようなやり取りがあったかは分かりませんけれども、アンナスはイエス様を縛ったまま、娘婿のカイアファのもとへと送るのです。

 25節から27節までをお読みします。

 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が泣いた。

 場面は再び大祭司の屋敷の中庭に一転します。ペトロが立って火にあたっていますと、人々は「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と問いました。これも先程の女中と同じく否定的な答えを予想する聞き方であります。それに対してペトロはここでも「違う」「わたしはそのようなものではない」と答えました。さらに大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と問いつめました。これは目撃証言ですから、もはや否定の答えを予想する問い方ではありません。けれどもペトロはなお打ち消し、イエス様の弟子であることを否定したのです。するとすぐ鶏が鳴いたのです。このことはイエス様の御言葉どおりのことがペトロの身に起こったことを教えております。最後の晩餐の席において、ペトロは「主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と申しました。するとイエス様はこう答えられたのです。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」。この御言葉通りペトロは鶏が鳴く前にイエス様との関係を三度、すなわち完全に否定したのであります。ペトロはイエス様に今ついて行こうとしました。もう一人の弟子の助けを借りて、大祭司の屋敷の中庭までついて来たのです。けれどもそこで命を捨てるどころではない。人々を恐れてイエス様の弟子であることを三度否定してしまう。「わたしはイエスの弟子だ」と名乗りを上げたのではなくて、「わたしはそのような者ではない」とイエス様を捕らえた者たちの一人であるかのように一緒に火に当たっていたのです。

 ペトロがイエス様の弟子であることを三度否定するというお話は四つの福音書すべてに記されておりますけれども、ヨハネによる福音書はそれを二つに分けて記しております。イエス様が大祭司から尋問を受けたことの前後にペトロがイエス様の弟子であることを否定したと記すのです。そのようにしてヨハネはイエス様のまことに大胆な態度を浮き彫りにしようとしているのです。ヨハネによる福音書は、ペトロが主の御言葉を思い出したとも、外に出て激しく泣いたとも記しません。ただその事実をたんたんと記すだけです。けれども私たちが忘れてはならないのは、イエス様はペトロが御自分のことを知らないということを知っており、予告しておられたということです。イエス様はペトロの弱さをご存じであられた。そのペトロの弱さを覆ってくださるように、大祭司の前で真に大胆に振る舞っておられる。イエス様は暴力に屈することなく、正しさを求められるのです。23節のイエス様の御言葉は第8章46節のイエス様の御言葉を思い起こさせるものであります。そこでイエス様はユダヤ人たちにこのように言われておりました。「あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」。イエス様の大胆さを支えているのは誰も自分に罪があると責めることはできないとの確信であります。それゆえイエス様は御自分を平手で打った下役に「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言われたのです。アンナスでもカイアファでもない、イエス様こそ神の正しさを求められる私たちの真の大祭司であられるのです。

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