アブラハムが生まれる前から 2010年1月17日(日曜 朝の礼拝)

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アブラハムが生まれる前から

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章48節~59節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
8:49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
8:50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
8:54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
8:56 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
8:57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
ヨハネによる福音書 8章48節~59節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝はヨハネによる福音書第8章48節から59節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.わたしの栄光を求め、裁きをなさる方

 48節から50節までをお読みいたします。

 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」

 イエスさまはユダヤ人たちの罪をあばくために「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と仰せになりました。イエスさまは、あなたたちも真理に耳を傾ける者となってほしい、あなたたちも神に属する者となってほしいとの願いから、彼らが悪魔の子となってしまっていることを糾弾されたのです。しかし、そのイエスさまの御言葉を受けて、ユダヤ人たちは悔い改めるどころか、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返したのです。第4章の「イエスとサマリアの女」の話で学びましたように、ユダヤ人はサマリア人とは交際しておりませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを正統信仰から逸脱した異端者であり、悪霊に取りつかれた者であると考えていたのです。ユダヤ人たちは自分たちを悪魔の子と呼ぶあなたこそ、サマリア人で悪霊に取りつかれている者だとイエスさまに言い返したわけです。ここでユダヤ人たちは「我々が言うのも当然ではないか」と言っておりますけども、これは以前からユダヤ人たちがイエスさまを悪霊に取りつかれていると中傷していたことを教えています。確かに第7章20節を見ますと、群衆がイエスさまに「あなたは悪霊に取りつかれている」と言ったことが記されています。また、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書を読みますと、イエスさまが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると中傷されていたことが記されています。イエスさまは神から遣わされ、神が霊を限りなくお与えになったお方として、神の言葉を話されるのでありますが、ユダヤ人たちはそれを悪霊の言葉として退けるのです。

 ユダヤ人たちの「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」との言葉を受けて、イエスさまは「わたしは悪霊に取りつかれてはいない」とお答えになりました。ここでイエスさまは「サマリア人である」ことは否定されず、「悪霊に取りつかれている」ことだけを否定されました。それはイエスさまがサマリア人について何の偏見も持っておられなかったことを教えています。第4章に記されていたように、イエスさまはサマリア人の町に二日間滞在され、多くのサマリア人がイエスさまの御言葉を聞いて信じました。ユダヤ人たちはサマリア人を悪霊に取りつかれた者と見なしておりましたけども、しかし他でもないそのサマリア人がイエスさまの御言葉を聞いて信じたとヨハネによる福音書は記すわけです。イエスさまがサマリア人と言われたことはヨハネによる福音書にしか記されていないのですけども、それは福音書記者ヨハネの共同体に多くのサマリア人が含まれていたからではないかと推測されています。使徒言行録の第8章を読むと分かりますように、確かに初代教会はサマリア人をユダヤ人と分け隔てなく受け入れていたのです。ですから、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」とのユダヤ人たちの言葉は、イエスさまへの中傷であると同時に、この福音書を執筆したヨハネの共同体への中傷であったとも読むことができるのです。

 続けてイエスさまは、「わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじていない。わたしは、自分の栄光を求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」と言われました。ここで前提とされていることは、イエスさまが自分の栄誉を求めているとするユダヤ人たちの批判であります。42節でイエスさまは、「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」と言われました。このようなことは普通の人間なら決して口にしないことでありました。ですから、ユダヤ人たちはイエスさまが悪霊に取りつかれていると言い、その動機が自分の栄誉を求めているに過ぎないと非難したのです。自分の栄光を求めているから、あいつは自分が神のもとから来たとか、真理を語っているとか言うのだ、こうユダヤ人たちは非難したわけです。しかし、イエスさまはそうではない。わたしがそのように主張するのは、わたしを遣わされた父を重んじているからだと言うのです。自分を遣わされた父を重んじるがゆえに、イエスさまは自分が父から遣わされたこと、自分が語っている言葉が真理であることを主張せずにはおれないのです。イエスさまは、「わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」と言われました。「あなたたちは父を重んじない」と言われたのではなくて、「あなたたちはわたしを重んじない」と言われたのです。このイエスさまの御言葉は、父がイエスさまを重んじてくださっていることを前提としています。50節に、「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、他におられる」とありますように、イエスさまが父を重んじておられるように、御父もイエスさまを重んじておられるのです。イエスさまが父の栄光を求めているように、御父もイエスさまの栄光を求めておられるのです。それゆえ、イエスさまを重んじないユダヤ人たちは、御父からの裁きを受けなくてはならないのであります。イエスさまを重んじないことは、そのイエスさまを遣わされた父をも重んじないことであるがゆえに、彼らは神さまの裁きを受けなくてはならないのです。「わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」。このイエスさまの御言葉は、イエスさまが苦難の生涯を忍耐して歩むことができた秘訣であると言うことができます。そして、それは私たちが苦難の生涯を忍耐して歩むための秘訣でもあるのです。ペトロの手紙一の第2章20節から23節に次のように記されています。

 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのはキリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

 イエスさまは御父が自分の栄光を求めてくださるお方であり、正しくお裁きになるお方であることを知っているがゆえに、自分の栄光を求めませんでした。私たちも御父から栄光を与えられたイエスさまが私たちに栄光を与えてくださるお方であり、正しくお裁きになる方であることを知っているがゆえに、自分の栄光を求めることから解放されるのです。

2.決して死ぬことはない

 ヨハネによる福音書に戻ります。51節から53節までをお読みいたします。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊にとりつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」

 イエスさまは、「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」となります。イエスさまは神の御子としての権威をもって、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われたのです。このイエスさまの御言葉を理解する助けとなるのが、21節以下で3度イエスさまが警告された言葉、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という御言葉であります。つまり、イエスさまは御自分の言葉を守るならば、その人は決して自分の罪のうちに死ぬことがない、と言われたのです。わたしの言葉を守るなら、律法違反者としての呪いの死を死ぬことがないとイエスさまは言われたのです。しかし、ユダヤ人たちはこのイエスさまの御言葉をそのようには理解せずに、この地上の死、肉体の死を指すと理解しました。彼らはイエスさまの御言葉を真理として受け入れるどころか、それによってイエスさまが確かに悪霊に取りつかれていることが分かったと主張したのです。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』という。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」。旧約聖書の創世記第5章を見ますと、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と記されております。また、列王記下の第2章を見ますと、エリヤが火の馬に引かれた火の戦車に乗って天に上って行ったことが記されています。エノクとエリヤ、この二人は文字通り死を味わうことなく天へと上げられました。イエスさまの「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」という御言葉を聞いてユダヤ人たちが思い浮かべた死とは、エノクとエリヤが経験しなかった文字通りの死のことであったのです。それゆえ、ユダヤ人たちはそのイエスさまの御言葉を聞いて、確かにあなたは悪霊に取りつかれていると言ったのです。アブラハムも預言者たちも、神の言葉を語り、神の言葉に生きた人たちでありましたけども、結局は彼らも死んでしまった。それなのに、あなたは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。あなたは、私たちの父アブラハムより偉大なのか。いったいあなたは自分を何者とするのかとユダヤ人たちはイエスさまを激しく非難したのでありました。

3.アブラハムの喜び

 54節から56節までをお読みいたします。

 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである。」

 あなたは自分を何者だとするのかと言うユダヤ人たちに、再びイエスさまは自分の栄光を求めていないことをお語りになります。50節では、「ほかにおられる」と記されていたのが、ここでは御自分に栄光を与えてくださるのはイエスさまの父であり、ユダヤ人たちが「我々の神だ」と呼んでいる方であることがはっきりと記されています。イエスさまは御自分の父とユダヤ人たちが神とするお方が同じであることを認めておりますけども、御自分がその方を知っているのに、ユダヤ人たちは知らないと言われます。なぜなら、彼らはイエスさまのうちに御父が働いておられることを認めることができないからです。イエスさまが神から聞いた真理を語っているのに、それを真理として受け入れず、悪霊の言葉として退けるからです。イエスさまは自分の栄光を求めて自分について主張しているのではないのです。イエスさまが「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われるのは、イエスさまが御父を知っており、御父の御言葉を守っているからであるのです。イエスさまが御父の御言葉を守って、十字架の贖いの死を死なれるがゆえに、そのイエスさまの御言葉を守る人は決して罪のうちに死ぬことがない。罪の刑罰としての呪いの死を死ぬことがないのです。もちろん、イエス・キリストを信じる私たちもこの地上で死を経験いたします。しかし、イエス・キリストの言葉を守る私たちは、決して自分の罪のうちに死ぬことはないのです。なぜなら、イエス・キリストが私たちの主として、すでに私たちの罪の刑罰としての呪いの死を死んでくださったからです。それゆえ、イエス・キリストを信じる者たちにとってこの地上の死は、天の祝福へ入るための入り口となったのです。私たちは臨終の床にあって、死んだらどこへ行くのだろうか。死ぬのが怖いと怯えながら死んでいくのではありません。イエス・キリストを信じる私たちは、自分がイエス・キリストのおられる天へと行くことを知っているがゆえに、平安のうちにこの地上を去って行くことができるのです。「わたしの言葉を守るならば、その人は決して死ぬことがない」というイエスさまの御言葉は、そのようにして私たち一人一人のうえに実現するのです。

 53節でユダヤ人たちはイエスさまに「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか」と言いましたけども、ここでイエスさまはアブラハムと御自分との関係についてお語りになっています。ここで「あなたたちの父アブラハムは」とありますけども、これは明らかに54節の「わたしの父」と対応しております。つまりイエスさまは、御自分は神の子であるが、あなたたちはアブラハムの子であると言っているわけです。しかし、39節でイエスさまはユダヤ人たちに「アブラハムの子ならアブラハムと同じ業をするはずだ」と言っておられましたから、ここではユダヤ人たちの主張を前提としてお語りになっているわけです。アブラハムはイエスさまの時代から2000年ほど前の人物であります。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブからイスラエル12部族の源となる12人の兄弟が生まれたのであります。それゆえ、アブラハムはユダヤ人たちの先祖であり、父であると言えるのです。イエスさまはそのアブラハムが「わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」とお語りになりました。前回も申しましたように、アブラハムは神から召し出されたとき、行く先も分からずに主の言葉に従いました。そして、そこには次のような祝福の約束が伴っていたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。わたしはあなたを大いなる国民にする。この約束はイサクが生まれることによって実現の第一歩を踏み出しました。そしてアブラハムはイサクの誕生を通して、この主の祝福の実現を信仰によって見て、喜んだのです。やがて自分の子孫から地上のすべての氏族を祝福へと導き入れるメシアが生まれることを見るのを楽しみにしており、そしてそれを信仰によって見て、喜びに溢れたのです。ヘブライ人への手紙は第11章で、旧約の信仰者たちについて記しておりますけども、アブラハムについては次のように記されています。ヘブライ人への手紙第11章8節から13節までをお読みいたします。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

 この人たちは信仰を抱いて死にました。約束された者を手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

 13節に「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」とありますように、アブラハムは信仰によって神の約束がイエス・キリストによって実現される日を見て、喜びに溢れたのです。ところで、13節には「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とも記されています。これはユダヤ人たちが言ったことでもあります。ユダヤ人たちは「アブラハムは死んだではないか」と言いましたけども、ヘブライ人への手紙の著者もアブラハムが死んだことを認めております。けれども、ここで注意したいことは、アブラハムがただ死んだと書いてあるのではなくて、アブラハムが信仰を抱いて死んだということであります。そして、その信仰とはやがて生まれてくるメシアへの信仰であり、イエス・キリストへの信仰であったのです。そうであれば、アブラハムは決して死ななかったのです。アブラハムは自分の罪のうちに死ぬことはなかったのです。それゆえ、共観福音書を読みますと、イエスさまは復活を否定するサドカイ派の人々に復活があることを論証するのに、モーセが「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と呼んでいることを指摘されたのでありました。アブラハムは確かに死にましたけども、イエス・キリストへの信仰を抱いていたがゆえに、自分の罪のうちに死ぬことはありませんでした。すなわち、アブラハムは主にあって今も生きているのです。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」というイエスさまの御言葉は、アブラハムも来るべきイエス・キリストを信じて救われたキリスト者、クリスチャンであったことを私たちに教えているのです。そして、そのことはイエスさまを見ても喜びを抱かないユダヤ人たちが、父であるアブラハムと似ても似つかない者となってしまっていることを浮き彫りとしているのです。

むすび.アブラハムが生まれる前から

 ヨハネによる福音書に戻ります。57節から59節までをお読みいたします。

 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 まるでアブラハムに会ったことがあるような口ぶりだが、あなたはまだ五十歳にもなっていないではないかとユダヤ人たちは反論をいたしました。確かにルカによる福音書によればイエスさまはこのとき三十代前半でありました。ユダヤ人たちの理屈から言えば、アブラハムはイエスさまの時代から2000年も前の人でありますから、五十歳どころか2000歳以上でなければならなくなります。しかし、それに対してイエスさまは「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われたのです。「わたしはある」とは、出エジプト記の第3章で、神さまがモーセに示された御自分の御名前であります。イエスさまはここで御自分がアブラハムが生まれる前からおられる神その方であることを主張されたのです。私たちは、今朝の御言葉が仮庵の祭りにおいて語られた御言葉であることを忘れてはなりません。仮庵の祭り、それは荒れ野においてイスラエルの民と神さまが共にいてくださったことを仮小屋に住んで祝う祭りでありました。仮庵祭になされる水の儀式は、荒れ野でイスラエルの民を潤した岩から流れ出る水を指し示すものであり、闇夜にエルサレム神殿を照らし出す4つの大きな燭台の火は、イスラエルの民を導いた火の柱を指し示すものでありました。イエスさまは、その水の儀式も燭台の光も共に御自分を指し示すものであるとお語りになられたのです。そして、ここでイエスさまはイスラエルを罪の奴隷状態から導き出す主なる神こそ、御自分であるとお語りになられたのです。しかし、ユダヤ人たちはイエスさまを信じるどころか、イエスさまを神を冒涜する者として、殺そうとしたのであります。そのようにして、彼らは自分たちを罪のうちに死ぬ者としてしまうのです。このようにして神さまの裁きは実現されるのです。イエス・キリストを何者だと言うのか。その判断によって、その人自身が実は神さまから裁かれてしまうのです。イエス・キリストを悪霊に取りつかれていると言うのか。それとも、イエス・キリストを「わたしの主、わたしの神よ」と告白するのか。その二者択一の問いの前に今朝私たちは立たされているのです。

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