罪のうちに死んではならない 2009年12月27日(日曜 朝の礼拝)

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罪のうちに死んではならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章21節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。ヨハネによる福音書 8章21節~30節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝はヨハネによる福音書の第8章21節から30節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

1.去って行くイエス

 21節から24節までをお読みいたします。

 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 ここに「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉が三度繰り返されています。これはイエスさまを信じようせず、かえってイエスさまを殺そうとしているユダヤ人たちへの警告であります。そして、これはイエスさまを信じないすべての人々への警告でもあるのです。先週私たちはクリスマス記念礼拝をおささげしました。そこでは永遠の神の御子が聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、罪を他にして私たちと同じ人として生まれてくださったことを学びました。イエス・キリストは私たちを罪から救う救い主、メシアとして生まれてくださったのです。では、そのイエス・キリストを信じなければどうなるのでしょうか。そのとき人は、ここでイエスさまが警告されているように、「自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。イエス・キリストを信じないならば、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。これは呪われた運命を告げる言葉ではなくて、警告であります。ですから、イエスさまがここで言わんとしていることは、「あなたたちは自分の罪のうちに死んではならない」ということです。この「自分の罪のうちに死ぬことになる」というイエスさまの御言葉は、旧約聖書のエゼキエル書を背景としております。私たちはエゼキエル書の御言葉を念頭におくとき、初めてこの言葉を正しく理解することができるのです。

 エゼキエル書の第33章1節から11節までをお読みいたします。

 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。彼は角笛の音を聞いても受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張り手に求める。

 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼らその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

 イエスさまはイスラエルの見張りとして、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ主として、わたしを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになるとユダヤ人たちに、そして現代の私たちにも警告しておられるのです。  

 ヨハネによる福音書に戻りましょう。

 イエスさまは御自分の証しを受け入れないユダヤ人たちにこう仰せになりました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。ここでイエスさまがお語りになっていることは第7章32節から36節までに記されていることとほぼ同じ内容であります。そこにはこう記されておりました。

 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこでイエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 第7章33節、34節のイエスさまの御言葉は、今朝の第8章21節とほぼ同じであります。違うところは、「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉が記されていることです。そして、この言葉によって、ユダヤ人たちの反応が変わってきているわけです。第7章では、ユダヤ人たちは「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでも言うのか」と訝っておりました。ユダヤでは相手にされないので、離散しているユダヤ人の所にいって、しかも異邦人であるギリシア人に教えるとでもいうのかとイエスさまを嘲ったわけです。いわば彼らはイエスさまが国外へ行こうとしているのだろうか。それゆえ、私たちが見つけることはないと言われたのだろうかと論じ合ったのでありました。けれども、今朝の御言葉では、「あなたたちは自分のうちに死ぬことになる」という言葉が加えられたことにより、それが生き死にの問題、死んだ後に行く所の問題として受けとめられているのです。それゆえ、今朝の御言葉でユダヤ人たちは、「『わたしの行く所へ来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と論じ合っているわけです。これもイエスさまを嘲る言葉であります。当時のユダヤ人たちは自殺した者は陰府の最も暗い所に行くと信じておりました。それゆえ、イエスが自殺をして陰府の最も暗い所に行くならば、天国に行く自分たちは確かにイエスのいる所に行くことはできないと嘲っているわけです。イエスさまは遣わされた御父のもとへ去って行こうとしているがゆえに、わたしを殺そうと捜しているあなたたちは、自分の罪のゆえに死ぬことになり、わたしが行く所に、あなたたちは来ることができないと言われたのでありますけども、ユダヤ人たちは、イエスさまを陰府の最も深い所に行く者として嘲り、それなら確かに私たちはあなたの行く所に来ることができないと切り返したわけです。そのようなユダヤ人たちに、イエスさまは「あなたたちは下の者に属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」と言われたわけです。このように仰せになることによって、御自分とユダヤ人たちとの違いを明かとされたのであります。「下」や「上」という言葉は、空間的な言葉であります。言い換えれば「下」は「地」であり、「上」は「天」と言えます。ユダヤ人たちばかりでなく、すべての人間はこの地上で命を受け、この地上で生活を営んでおります。それゆえ、私たちは下、地に属するものたちであります。けれども、イエスさまは天地万物が造られる前からおられた永遠なる神の御子であるがゆえに、上、天に属する者なのです。また、私たち人間がこの世に属しているのに対して、イエスさまはこの世に属しておりません。この世とは、アダムの堕落によって悪魔が支配している世のことであります。ヨハネの手紙一第5章19節に、「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」とありますように、罪を持って生まれてくる私たち人間は悪魔の支配下にあるこの世に属する者なのです。しかし、イエスさまは罪のないお方であり、神の支配にのみ生きておられるがゆえにこの世に属していないのです。このことを私たちが正しく知り認めますときに、私たちがイエスさまを信じなければ自分は罪のうちに死ぬことになることが分かってくるのです。では、私たちはイエスさまをどのようなお方として信じなければならないのでしょうか。イエスさまは24節でこう仰せになりました。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。ここで、イエスさまが求めておられることは一つのことだけです。イエスさまを「わたしはある」というお方であることを信じること。それだけで、人は自分の罪のうちに死ぬことはないのです。イエスさまが「わたしはある」というお方であることを信じるならば、私たちは自分の罪のうちに決して死ぬことはないのです。ヨハネによる福音書において、そもそも罪とは「イエスさまを信じないこと」であります(16:9)。十戒に代表される神の掟に照らし合わせて、私たちは沢山の罪を犯している罪人であると言えるのでありますけども、罪とは何より御父から遣わされたイエスさまを信じないことであるのです。それゆえ、イエスさまが「わたしはある」というお方であることを信じるならば、その人はもはや自分の罪のうちに死ぬことはないのです。「わたしはある」。これは旧約聖書の出エジプト記第3章においてモーセに知らされた主なる神の御名前であります。イエスさまこそ、「わたしはある」という神その方であることを信じるならば、その人はもはや自分の罪のうちに死ぬことはないのです。

2.あなたはいったいどなたですか

 25節から27節までをお読みいたします。

 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。

 「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると言うこの男は、一体何者であるのか。そのような思いからユダヤ人たちは「あなたは、いったい、どなたですか」と問うたのでありました。それに対してイエスさまは「それは初めから話しているではないか」とお答えになりました。これまで何度も語ってきましたように、イエスさまは御父から遣わされた者であり、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われる神の啓示そのものであられたのです。そのように何度聞いても理解しないユダヤ人たちに、イエスさまは「あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われるのです。ある人は、このイエスさまの御言葉について、「ここでイエスさまは忍耐しておられる」と記しておりました。何度語っても信じないユダヤ人たちについて、イエスさまには沢山の言うべきこと、裁くべきことがあった。しかし、イエスさまは真実である御父から遣わされた者として、それをぐっとこらえて、御父から聞いたことを世に向かって語り続けていると言うのです。イエスさまは、命にいたる道を一心に語り伝えるのであります。この世の人々が、たとえそれを受け入れなくとも、イエスさまは真実なお方の御言葉を真実として語り続けられるのです。御自分が御父から遣わされ、神の御言葉を伝える者であることを、「初めから話しているではないか」と言われながらも、ここでもまた語ってくださっているのであります。

3.人の子をあげたとき

 28節から30節までをお読みいたします。

 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにはしておかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 イエスさまは御自分が御父について話していることを悟ることのできないユダヤ人たちに、それを悟るときが来ることを告げられました。そしてそのときとは、彼らが「人の子を上げたとき」であるのです。「人の子」とはイエスさまが御自分を指して言われる決まった言い回しであります。また、「上げる」とは、十字架にあげられることと、栄光に上げあげられることの二重の意味をもっております。ここでは「あなたたちは、人の子を上げたとき」とありますから、何より十字架に上げられることが念頭に置かれていると読むことができます。ユダヤ人たちがイエスさまを神の子と自称した者として、十字架に上げるときはじめて、イエスさまが「わたしはある」というお方であること、またイエスさまが、自分勝手には何もせず、ただ御父に教えられたとおりに話していることが分かると言うのです。これは大変皮肉なことであります。イエスさまを神の子と自称し、神を冒涜する者として十字架という呪いの死に引き渡した。そのとき初めて、イエスさまが「わたしはある」という神その方であることが分かると言うのです。これはもしイエスさまが下のものに属しており、この世に属している者であるならば、取り返しがつかないことであります。しかし、イエスさまは上のものに属し、この世に属していないお方であるがゆえに、死から三日目によみがえられることによって、御自分を拒み、御自分を呪いの死へと引き渡した者たちにも、命に至る悔い改めを与えてくださるのです(使徒2章参照)。復活のイエスさまは、悔い改めて御自分を信じる者たちに、御自分の聖霊をお与えくださり、私たちをも神と共に生き、神の御心に適うことを行う神の子供としてくださるのです。

むすび.自分の罪から外に出る

 今朝の御言葉でイエスさまは三度、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告されましたけども、その罪はイエスさまを信じないばかりか、イエスさまを十字架の死へと引き渡すことへと至ります。私たち人間の罪は、神の御子イエス・キリストを十字架に上げるほどに、おぞましいものであるのです。端的に言いまして、人間の罪とは神を殺して自らを神とすることに極まるのであります。しかし、その罪を覆ってしまうほどに神の恵みは豊かなものでありました。なぜなら、私たち人間の敵意、殺意が最も燃え上がった所で、イエスさまが御自分を神の御子であることを示されるからです。十字架の呪いの死を、それこそ陰府の最も暗いところに行くと信じられたいたその死を、イエスさまはすべての人の身代わりとして死なれることによって、御自分がいつも御父の御心に適うことを行う御子であられることを示されるのです。ユダヤ人たちは、イエスさまに対して「自殺でもするつもりなのだろうか」と嘲りましたけども、ある意味この言葉は当たっています。なぜなら、イエスさまは十字架の死を御父の御心として受けとめ、自ら十字架の死を死なれるからです(10:18)。そのようなことができたのは、このお方が、御父と共に歩まれた神の御子であられたからなのです。このことを信じるとき、私たちは自分の罪の外に出ることができるのであります。自分の罪のうちに閉じ込められて死んでいくのではなくて、わたしの罪のために十字架に上げられた神の御子を信じることによって、自らの罪から解き放たれて、イエス・キリストの命に生きることができるのです。イエス・キリストを神の御子と信じることによって、私たちもイエス・キリストの復活の命に生きることができるのです。

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