あなたを罪に定めない 2009年12月06日(日曜 朝の礼拝)

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あなたを罪に定めない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

聖句のアイコン聖書の言葉

【新共同訳】
ヨハ
7:53 〔人々はおのおの家へ帰って行った。
新共同訳 サブ聖書ウインドウ No.1
ヨハ
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.本文学上の問題

 今朝はヨハネによる福音書の第7章53節から第8章11節までの御言葉の恵みに与ろうとしているのでありますが、この所は全体が亀甲の括弧でくくられております。『新共同訳聖書』の「凡例」を見ますと、亀甲の括弧の説明として次のように記されています。「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所を示す」。この凡例の説明通り、今朝の御言葉はもともとはヨハネ福音書には記されていなかったものが後の時代に入り込んだと考えられているのです。聖書のオリジナルテキストは残されておらず、厖大な写本によってテキストを確定していくのですが、古い写本には今朝の御言葉が記されておりません。今朝の御言葉がヨハネ福音書に記されているのは5世紀頃の写本からであります。しかしそうは言っても、凡例にありましたように「年代的には古く重要である個所」と考えられているのです。2世紀、3世紀には今朝の御言葉に言及している文書がありまして、福音書には記されなかったけれども、イエスさまにまつわる有名なエピソードとして広く言い伝えられていたわけです。またある写本によりますと、今朝の御言葉はルカによる福音書の第21章38節以下に記されています。これはルカ福音書の第21章37節、38節を読むとよく分かることであります。そこにはこう記されています。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。これは今朝の御言葉の第8章1節、2節が伝えている状況とほぼ同じであります。「オリーブ山」とありますけども、この言葉がヨハネ福音書に出てくるのはここだけであります。また3節に「律法学者たちやファリサイ派の人々」とありますが、「律法学者たち」が出てくるのもここだけであります。言葉遣いから言っても今朝の御言葉は共観福音書、とりわけルカ福音書にありそうな話であると考えられているのです。それがなぜヨハネによる福音書の第7章52節以下に置かれたのか。これにも様々な推測があるのですが、一つの有力な推測は第8章15節の「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」の実例として今朝の御言葉がここに置かれたのではないかと考えられているのです。そのような本文学上の問題はあるにせよ、私たちは今朝の御言葉をイエスさまにまで遡ることのできる神の御言葉として読み進めて行きたいと思います。

1.姦通の女

 第7章53節から第8章6節前半までをお読みいたします。

 人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

 先程も申しましたように、この所はルカによる福音書の第21章37節、38節の記述と似ております。そこにはエルサレムに上ったイエスさまが夜はオリーブ山で過ごし、朝早くから神殿の境内で教えられたことが記されておりました。それと同じようにここでもイエスさまは、人々がおのおの家へ帰って行った夜にはオリーブ山で過ごし、朝早くから神殿の境内で民衆に教え始められたのです。「座って教え始められた」とありますが、これは律法の教師が正式に教えるときのスタイルであります。ですからイエスさまは律法の教師として民衆を教えていたと言うことができます。そこへ突然、律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせてこう言ったのです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。「姦通」という言葉が出てきますが、「姦通」とは『広辞苑』によりますと「配偶者のある者、特に妻が、配偶者以外の異性とひそかに肉体関係をもつこと」と記されておりました。イエスさまのもとへ連れてこられた女は配偶者以外の男性と肉体関係を持っていたその現場で捕らえられたと言うのです。この女をイエスさまのもとへ連れてきたのは律法学者たちとファリサイ派の人々でありますから、こういう女をどのように裁くべきかを彼らはよく知っておりました。「こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」と彼らが言っているように、申命記の第22章22節以下には次のように記されておりました。

 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。

 このような掟を読みますときにイスラエルにおいて姦淫がどれほど大きな罪であったかが分かるのでありますが、それは男も女も共に罰する掟でありました。しかし、今朝の御言葉を読みますと姦淫の現場で捕らえられたのは女だけなのですね。相手の男はどうしたのだろうかと当然疑問がわいてくるわけです。男は逃げて女だけが捕まったのだろうか。これも一つの推測でありますけども、昔から多くの人々がしてきたもう一つの推測は、この女は仕組まれて姦淫の罪を犯したのではないかということです。例えば、自分の妻と別れたい夫が、友人に頼んで妻を誘惑してもらい姦淫の罪を犯させるという場合です。そのように考えますと、姦淫の現場で捕らえられたこと、捕らえられたのは女だけであったことがうまく説明できるわけであります。いずれにせよ、律法学者たちやファリサイ派の人々がこの事件について聞いたとき、これはイエスを試して訴える口実を得るのにちょうどいいと考えたわけです。イエスさまがそれについて何というかによって、イエスさまを訴える口実を得ることができると彼らは考えたのです。もしイエスさまが「この女を石で打ち殺してはならない」と答えるならば、イエスさまをモーセの律法に違反する者として訴えることができます。またもしイエスさまが「この女を石で打ち殺しなさい」と答えるならば、ローマの法律に違反する者として訴えることができるわけです。なぜなら、当時のユダヤはローマ帝国の属州であり、人を死刑にする権限が与えられていなかったからであります(ヨハネ18:31)。それゆえイエスさまがどう答えても、モーセの律法に違反する者として、あるいはローマの法律に違反する者として訴える口実を彼らは得ることができると考えたわけであります。

2.かがみ込み、指で地面に何かを書き始められるイエス

 6節後半から9節までをお読みいたします。

 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、イエスさまを空々しく「先生」と呼び、「ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問うわけですが、それに対してイエスさまは、かがみ込み、指で地面に何かを書き始められました。このときイエスさまが指で地面に何を書いたのかいろいろな推測がなされておりますが、一つだけ紹介しますとエレミヤ書の第17章13節をイエスさまは指で地面に書いていたと推測する人が多くおります。そこにはこう記されています。「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」。ここに「地下に行く者として記される」とありますように、イエスさまはこの聖句を指で地面に書き記すことによって、御自分を試し訴えようとする者たちに警告を与えたと考えるのです。また多くの人々がこの聖句をイエスさまが指で地面に書き記したと考えるのにはもう一つ理由があります。それはイエスさまが仮庵の祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、「渇いている人は、だれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われた、まさしく「生ける水の源である主」であるからです。イエスさまを試し訴えようとする者たちは、まさしく生ける水の源である主を捨てる地下に行く者たちであると言えるのです。

 ではヨハネによる福音書に戻ります。

 もちろん聖書が何もしるしていない以上、この時イエスさまが指で地面に何を書き始められたのかは分かりません。ここで大切なことはイエスさまが何を書いたかということよりも、「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」ことであります。ここでイエスさまは明らかに彼らの問いに答えることを拒否しておられます。かがみ込み、指で地面に何かを書き始められたことは、彼らの問いに答えたくない、彼らと関わりたくないとのジェスチャーであったのです。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスさまは身を起こしてこう言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。このイエスさまの御言葉は「この女に石を投げなさい」という御言葉はモーセの律法と同じでありますが、それに付け加えられている前提とされている部分がイエスさま独自の御言葉であります。モーセの律法によれば、通常はじめに石を投げるのは目撃者である証人でありました。申命記の第17章7節を見ますとこう記されています。「死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない」。このようにモーセの律法によれば、まず石を投げるのは目撃者である証人であったわけです。けれども、イエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたのです。これは人々の関心を他者である女から自分へと向けさせる御言葉でありました。これまで律法学者たちやファリサイ派の人々の関心、またその経緯を聞いていた民衆の関心というものは女の罪へと向かっておりました。「このようなふしだらな女は地上から除いてしまえ」と人々は思っていたはずです。けれども、イエスさまの御言葉は、その罪への糾弾を自らへと向けさせるわけです。女の罪をあげつらい糾弾しているけども、それでは自分はどうであろうかとイエスさまはこの女を裁こうとしているすべての者に自らが問うよう仕向けられるわけです。このことは私たちもしばしば忘れることであります。誰かが罪を犯したとき、自分が同じ罪を犯しかねない者であることを忘れて裁く。自分を裁判官の席に座らせて、裁くことに快感を覚えることすらあるのです。この女を連れて来た律法学者たちやファリサイ派の人々、また彼らの訴えを聞いていた民衆はおそらく自分を裁判官の席につけていたと思います。けれども、イエスさまの御言葉は彼らをも被告とするのです。そして彼らを訴えるのは彼ら自身、彼らの良心なのです。良心は英語でコンシエンスといいますが、この言葉の元々の意味は「すべてを知っている」という意味であります。自分が何をしてきたかを知っているもう一人の自分、それが良心です。その良心が自分自身を訴えるわけです。イエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と仰せになると、また身をかがめて地面に書き続けられました。これは彼らを突き放すイエスさまのジェスチャーと言えます。イエスさまはそのようにして、彼ら自身に自分の罪について考えさせるわけです。おそらく、このとき女の罪をあげつらってたすべての人が沈黙したのではないでしょうか。そして、しばしの沈黙の後に、これを聞いた者は年長者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスさまひとりと、真ん中にいた女が残ったのです。ここで「年長者から始まって」と記されていることは感慨深いことであります。年長者であるほど自らが罪を犯したことを知っていた。それは長く生きているから罪を犯すことが多かったというよりも、自らの罪に正直であったということでありましょう。自分が罪を犯した者であることは、彼らの自身がよく知っていたのです。そしてとうとうイエスさまひとりと、真ん中にいた女が残ったのであります。罪を犯したことのない唯一のお方であるイエスさまと姦通の現場で捕らえられた女だけが残ったのです。

3.わたしもあなたを罪に定めない

 10節、11節をお読みいたします。

 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 イエスさまが、身を起こされたとき、そこには連れてこられた女だけが残っておりました。わたしはこれをとても不思議だと思うのですね。なぜ、このとき女は逃げなかったのだろうかと不思議に思うわけです。イエスさまは身をかがめて指で地面に何かを書き続けているわけですから、逃げようと思えば逃げられたはずなのに女はイエスさまのもとに残っていたわけです。私たちはここにこの女の信仰を見ることができると思います。彼女はイエスさまから裁かれることを望んでイエスさまのもとに残った。それゆえ彼女はイエスさまを11節で「主よ」と呼びかけたのです。身を起こされたイエスさまは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と問われました。イエスさまはこのように仰せになることによって彼女に何が起こったかを認識させられるわけであります。このイエスさまの御言葉を受けて女は「主よ、だれも」と答えました。これは文脈からすれば、「主よ、だれもわたしを罪に定めませんでした」という意味の言葉であります。ここでイエスさまが女に教えようとしていることは一体どのようなことでしょうか。それは主イエス・キリストの法廷において、人を罪に定めることができる人はだれもいないということであります。ここで起こっていることは何かと言えば、それは終わりの日に行われる最後の審判の先取りであるのです。栄光のイエスさまが生ける者と死ねる者との裁き主として来られるとき、私たちは他の人たちから罪を訴えられるということはありません。なぜなら、すべての人が罪を犯しているゆえに被告となるからです。女が「主よ、だれも」と言ったように、私たちを罪に定める人はだれもいないのです。もしいるとすれば、それは主イエスだけであります。ですからある人は、この女の言葉を次のように意訳しております。「主よ、あなた以外はだれもいません」。女は「わたしを罪に定めることができるのは罪を犯したことのないあなた以外にはだれもいない」と言ったというのです。イエスさまは、女の「主よ、だれも」という言葉を受けて、どうされたでしょうか。そうかそれならと言って、イエスさまが石を女に投げつけたのではないのです。イエスさまは罪を犯したことのない唯一のお方でありますから、理屈から言えばこのとき女に石を投げつけることができたはずです。けれども、イエスさまはもちろんそのようにはなさいませんでした。それどころかイエスさまはこう言われたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。イエスさまは姦通の現場で捕らえられた女に対して「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。ここでイエスさまが、「わたしも罪を犯したことがあるからあなたを罪に定めない」と言われたのではないことは明かであります。なぜなら聖書は明確に、イエスさまが罪を犯されなかったことを教えているからです(一ヨハネ3:5)。それではここでイエスさまはモーセの律法に違反されたのでしょうか。そうではありません。むしろイエスさまはこの女の罪の刑罰を自ら担うことによって、この女に罪の赦しを宣言するのです。イエスさまは、女の罪の刑罰としての死を十字架の上で死なれるお方として、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。この女だけではありません。自らの罪を主イエス・キリストの裁きに委ねるすべての者たちに、「わたしもあなたを罪に定めない」と仰せになってくださるのです。そのようにして私たちを赦し、新しい命へと生かしてくださるのであります。この女はイエスさまと出会い、イエスさまを主と呼ぶことによってまさしく命拾いをしたわけです。そのような女にイエスさまは「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。これは新しい命へと生かされる女にふさわしい御言葉であると思います。この女もしばらくして、イエスさまが十字架につけられて処刑されたことを知ったのではないでしょうか。そしてさらに弟子たちからイエスさまの十字架が私たちの罪のためであったことを教えられ、イエスさまが死から三日目に甦られたことを聞かされたと思うのです。そのとき、かつてイエスさまからいただいた「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という御言葉の本当の重さが分かったのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて罪赦された者は、罪を憎み、罪から身を守り、罪と戦う者となります。なぜなら、その罪のためにイエス・キリストが十字架の死を死んでくださったことを知っているからです。もちろん、イエス・キリストを信じてからも私たちには罪が残っておりますから度々罪を犯します。けれども、その度ごとに私たちは悔い改めて信仰をもって立ち上がることができるのです。それは私たちの罪のために十字架で死んだイエスさまが三日目に永遠の命によみがえられたからです。私ちは主の日の礼拝ごとに、神さまの御前に罪を告白し、イエス・キリストを通して罪の赦しにあずかりますけども、それは今朝のイエスさまの御言葉を繰り返し聞くことでもあるのです。イエスさまは、自らの罪を悔い、御自分によりすがるすべての者にこう言ってくださいます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

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