生きた水の流れ 2009年11月22日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

生きた水の流れ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章37節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。ヨハネによる福音書 7章37節~39節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝はヨハネによる福音書の第7章37節から39節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.祭りが最も盛大に祝われる終わりの日 

 37節に「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とありますが、この祭りとは秋に行われる仮庵の祭りのことであります。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野に仮小屋を造って神さまと共に歩んだことを覚える祭り、それが仮庵の祭りでありました。前々回に仮庵の祭りについて詳しくお話しをしましたが、今朝はもう一度聖書から仮庵の祭りがどのような祭りであったのかを確認しておきたいと思います。旧約聖書のネヘミヤ記第8章13節から18節までをお読みいたします。 

 二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず、これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。

 「山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。」

 民は出て行き、枝を持って来て、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作った。こうして捕囚の地から帰った人々から成る会衆は、皆で仮庵を作り、そこで過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。最初の日から最後まで、毎日彼は神の律法の書を朗読し、彼らは七日間にわたって祭りを行い、八日目には定めに従って終わりの集会を行った。

 このように仮庵の祭りは大きな喜びの祝いであったわけですが、ヨハネ福音書が記す「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」が、7日目にあたるのか、それとも8日目にあたるのかよく分かりません。日数で言えば8日目が終わりの日にあたるのですが、この日は喜びの祝いがすでに終わっており、聖なる集会が開かれる日でありました。祭りが最も盛大に祝われるのは、何といっても7日目でありまして、おそらく今朝の御言葉はこの7日目に語られたものであると思います。といいますのも、この7日目に行われた儀式とイエスさまの御言葉は密接に結びついているからです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 仮庵の祭りがどのような祭りであったのかといろいろ参考書を調べましたけども、仮庵の祭りでは仮庵に住むことと水の儀式が7日間行われておりました。水の儀式とはどのようなものかと言いますと、祭司と会衆からなる行列がシロアムの池で黄金の水差しで水を汲み、水の門を通って神殿に入り、祭壇の周りを一回りして祭壇に水を注ぐという儀式でありました。この行進には、歌と笛と踊り、収穫の象徴である小枝の振りかざしが伴ったと言われています。シロアムの池で祭司が黄金の水差しで水を汲むときには、イザヤ書の第12章3節の「あなたたちは喜びのうちに救いの水を汲む」と合唱したと言われています。また、祭司と会衆からなる行列は詩編113編から118編のハレルヤ詩編を歌って手にした収穫の象徴である小枝を振りかざしながら水の門を通って神殿へと進んだと言われています。さらには祭壇の周りを回るときには詩編118編25節の「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを」と歌いながら、収穫の象徴である小枝を振りかざしたと言われています。特に最後の7日目は、祭壇の周りを7周回りましたので、その間会衆は、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを」と歌い、収穫の象徴である小枝を振りかざし続けたのです。これはユダヤ人にとって大きな喜びでありまして、ユダヤ教の『ミシュナー』は、「水汲みの祭儀の喜びを見たことがない者は、彼の人生において喜びを見たことがない者である」とさえ記されています。仮庵祭の中心の一つが水の儀式であったことは、もともとは仮庵祭が秋に行われる収穫祭であったことを思い起こすならばよくお分かりいただけると思います。すなわち、水の儀式は雨乞いの儀式でもあったのです。先程は、仮庵祭がどのような祭りであるかを確認するためにネヘミヤ記を読みましたが、もう一つ仮庵祭について教えている大切な箇所としてゼカリヤ書の第14章を挙げることができます。ここは少し長いですが、お読みします。

 見よ、主の日が来る。かすめ取られたものが/あなたの中で分けられる日が。わたしは諸国の民をことごとく集め/エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され/女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が/都から全く断たれることはない。戦いの日が来て、戦わねばならぬとき/主は進み出て、これらの国々と戦われる。その日、主は御足をもって/エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け/非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの谷はアツァルにまで達している。ユダの王ウジヤの時代に/地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に/あなたのもとに来られる。その日には、光がなく/冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海に向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。ゲバからエルサレムの南のリモンまで、全土は低地となる。しかし、エルサレムはベニヤミンの門から昔の門の区域を経て、角の門に至るまで、またハナンエルの塔から王の酒ぶねに至るまで、その高い位置にとどまり、そこに人々が住み着く。破滅が再び臨むことはなく/エルサレムは安住の地となる。諸国の民がエルサレムに兵を進めてくれば/疫病で主はすべての者を撃たれる。肉は足で立っているうちに腐り/目は眼窩の中で腐り、舌も口の中で腐る。その日、主の大いなる混乱が彼らに臨む。彼らは互いにつかみ合い、手を振り上げる。ユダもエルサレムで戦いに参加する。周りのあらゆる国の富みは集められる/金、銀、衣服も非常に多く。彼らの陣営にいる馬、らば、らくだ、ろばなどあらゆる家畜にも同じ疫病が襲う。エルサレムを攻めたあらゆる国から/残りの者が皆、年ごとに上って来て/万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。地上の諸族の中で、エルサレムに上って万軍の主なる王を礼拝しようとしない者には、雨が与えられない。もし、エジプトの家族も上って来なければ、仮庵祭を祝うためにエルサレムにのぼらなかった諸国の民が、主から受けたと同じ疫病に見舞われることがないと言えようか。これこそ、仮庵祭を祝うために上って来なかったエジプトの受ける罰であり、またすべての国の受ける罰である。その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にはもはや商人はいなくなる。

 ゼカリヤはバビロン捕囚後の預言者でありますけども、ここでは主の日の到来と仮庵祭を祝うことが密接に結びつけられています。1節に「見よ、主の日が来る」とありまして、16節には「エルサレムを攻めたあらゆる国から/残りの者が皆、年ごとに上って来て/万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う」と記されています。このように仮庵祭を祝う喜びは主の日において味わう喜びの先取りでもあったのです。また先程わたしは、水の儀式は雨乞いの儀式でもあったと申しましたが、そのことは17節で「地上の諸族の中で、エルサレムに上って万軍の主なる王を礼拝しようとしない者には、雨が与えられない」と言われていることにも示されているわけです。そして仮庵の祭りが主の日の到来と結びつけられていたがゆえに、8節では「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」と預言されているのです。このように主の日の到来の前味として仮庵祭が祝われていたことを覚えるとき、当時のユダヤ人たちの熱狂ぶりが分かってくるのではないかと思います。長々と話してきましたが、これでようやく私たちはイエスさまの御言葉がどのような文脈で語られているかを聞き取る準備ができたと言えるのです。

2.大声で招くイエス

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 シロアムの池から黄金の水差しで水を汲んできた祭司と会衆の行列が、神殿の祭壇を7周回り、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よわたしたちに栄えを」と歌う、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスさまは立ち上がって、大声でこう言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。

 このイエスさまの御言葉は、ギリシャ語の原文の句読点を打つ所を変えることによって、次のようにも訳すことができます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来なさい。そして、わたしを信じる者は飲みなさい」。もとのギリシア語にはもともと句読点がありませんので、句読点の打ち方によっては、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来なさい。そして、わたしを信じる者は飲みなさい」と訳すことができるのです。そうしますと、続く「聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」の「その人」は、他でもないイエスさま御自身を指していることになるのです。また新共同訳聖書の訳に従って、「その人」を「わたしを信じる者」と解釈したとしても、そこで前提とされているのは、イエスさまの内から生きた水が川となって流れ出るようになるということです。いずれにせよ、私たちは、38節の「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という言葉を、イエスさまを抜きにして考えることはできないのです。それゆえ、「その人」をまずイエスさまを指しているものとして読んでみたいと思います。イエスさまは、「聖書に書いてあるとおり」と仰せになりますが、旧約聖書を捜しましても、人間から生きた水が川となって流れ出るようになるといった預言は記されておりません。旧約聖書で、生きた水が川となって流れ出るようになると預言されていたのは何より神殿でありました。エゼキエルは、その書物の第40章以下に「新しい神殿の幻」について預言しておりますけども、第47章を見ますとこの新しい神殿から「命の水」が湧き上がって流れ出す場面が描かれています。エゼキエル書の第47章1節から9節までをお読みいたします。

 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。さらに、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。さらに彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。

 このようにエゼキエルは、新しい神殿から命の水が流れ出ることを預言したわけですが、私たちはこの預言がイエス・キリストにおいて実現したと読むことができます。なぜならヨハネ福音書の第2章で、イエスさまは御自分の体を指して、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と仰せになられたからです。また、先程のゼカリヤ書の第14章8節の「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」という預言も、イエスさまにおいて実現したと読むことができるのです。そして、ここにイエスさまが、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で招かれた理由があるのです。人々は、祭司が祭壇に水を注ぐ儀式を通して、主の日に命の水である聖霊が注がれることを待望しておりました(イザヤ44:3)。そのような人々に、イエスさまは「わたしこそがあなたがたの渇きを癒す、命の水の源である」と大声で言われたのです。そして、わたしのもとに来て、わたしを信じるようにと大声で人々を招かれたのです。イエスさまは「渇いている人はだれでもわたしの所に来て飲みなさい」と言われました。ある人は、このとき誰も渇いていなかったのではないかと申します。誰もが喜びに溢れていた祝いの時に、このイエスさまの御言葉はふさわしくない、場違いであると言うのです。しかし、そもそもこの水の儀式が行われるようになったのは、水不足によって、渇いた体験を持っていたからです。またそれが主の日の到来と結びつけられて、命の水である聖霊と解釈されたときも、その根底にあったものは魂の渇きであったはずです(詩編42:3)。ですから、このイエスさまの大声は、祭りの熱狂の中で満たされていると勘違いしている人々の心をもう一度目覚めさせる、揺り動かす言葉であると言えるのです。収穫の象徴である木の枝を振りかざしながら、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と歌う人々の祈りに答えるように、イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われたのです。人々が祈り願う渇きからの癒しを与えることができるお方がここにおられる。このようにして、仮庵の祭りの水の儀式は、イエス・キリストにおいて成就されるのです。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。このイエスさまの御言葉はイザヤ書の第55章1節を思い起こさせます。そこにはこう記されています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。このイザヤ書の御言葉を念頭に置くとき、イエスさまの招きが無償であることが分かります。イエスさまのもとに来て、イエスさまを信じるならば、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになるのです。細かいことを言うようですが、ここでの「川」は元の言葉を見ますと複数形で記されています。ですからある人は「数々の川」と訳しています。創世記の第2章にエデンの園から4つの川が湧き出ていたと記されていますが、何本もの川が流れ出るほどに、私たちの内から生きた水が溢れ出すのです。イエスさまを信じて、聖霊が豊かに注がれることによって、私たちもエゼキエルの預言した神殿となり、創世記の描くエデンの園とされるのです。そのことをイエスさまはここで告げておられるのです。

3.私たちは潤された園、水の涸れない泉

 イエスさまの御言葉について福音書記者ヨハネは次のように記しています。39節。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」。

 この39節は、38節でイエスさまが、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るであろう」と記したことの理由が記されていると読むことができます。イエスさまは、38節で、「流れ出るであろう」と将来のこととして語られましたけども、その御言葉が実現するのは、イエスさまが栄光を受けてからであるとヨハネは記しているのです。栄光を受けるとは、イエスさまが十字架につけられ、死からよみがえり、天に昇られることであります。第20章を見ますと復活されたイエスさまが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたことが記されています。イエスさま御自身は、神さまから霊を限りなく与えられたお方でありますが、それが信じる者たちにまで流れ出るのは栄光を受けてからであるのです。そして、今私たちはイエスさまが栄光を受けられた時代に生きているのです。ですから、イエスさまのもとへ来て、イエスさまを信じた私たちは今既に聖霊を与えられているのです。それも私たちの内から生きた水が川となって流れ出るほど豊かに与えられているのです。今日は旧約聖書からの引用が多いのでありますが、イザヤ書の第58章11節に次のような御言葉があります。「主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」。イエスさまは、御自分を信じる者たちの内から生きた水が川となって流れ出すと仰せになりました。それはイザヤ書の御言葉で言えば、私たちが潤された園、水の涸れない泉となるということです。それは私たちも人々の渇きをいやすものとされるということです。自分の渇きが癒されるだけではなくて、隣人の渇きをも癒すことができる命の泉とされているのです。

むすび.十字架を通して与えられた聖霊

 ローマ・カトリック教会の修道女であったマザー・テレサは、「淋しさ」について次のように語っております。「貧しさにはいろいろあります。経済的にうまくいっているように思われる国にさえも、奥深いところに隠された貧しさがあるのです。それは見捨てられた人々や苦しんでいる人々が抱えている極めて強烈な淋しさです」。また次のようにも言っています。「私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人をもたないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう」。さらに次のようにも言っています。「私たちこそは、兄弟姉妹と考えるべき人々を排斥したり、拒否したりすることで、その人たちをアルコールへと逃避させ、依存症にまで追いつめている張本人なのです。彼らは飲むことによって、人生の惨めさを忘れようとしているのですから」。このマザー・テレサの言葉は、現代の多くの人々が深い渇きの中にあることを私たちに教えてくれます。現代の私たちも魂の深い渇きの中にあるのです。そしてその渇きを癒すことができるのは、十字架と復活の主であるイエス・キリストだけなのです。私たちはそのキリストの聖霊をいただき、キリストにならって生きることによってのみ、潤された園、水の涸れない泉となることができるのです。イエスさまは今日もここに集うすべての者を招いておられます。いやここに集っていない人々をもイエスさまは招いておられます。イエスさまは御自分を信じる者たちに霊を与えるために、十字架の死という苦しみをお受けになりました。そのことを思いますときに、これは十字架につけられたイエスさまの叫びであると読むこともできます。イエスさまは十字架の上で「渇く」と言われながら死ぬことによって、私たちに永遠に渇くことのない生きた水をお与えくださったのです。また、十字架につけられたイエスさまのわき腹を兵士が槍で刺すと、すぐに水と血が流れ出たとありますけども、この水こそ、御自分を通してお与えになる聖霊であったのです。私たちは来て信じるだけで命の水にあずかったのでありますが、その源であるイエス・キリストはそのために大きな犠牲を払われたことを覚えたいと思います。そのようにして、私たちが「イエスは主である」と告白し、神さまを「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる幸いを改めて感謝したいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す