この人はメシアか 2009年11月15日(日曜 朝の礼拝)

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この人はメシアか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章25節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
◆下役たち、イエスの逮捕に向かう
7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」ヨハネによる福音書 7章25節~36節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝はヨハネによる福音書の第7章25節から36節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

1.隠れたるメシア 

 25節から27節までをお読みいたします。

 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」

 前回私たちは、イエスさまが祭りもすでに半ばになったころ、神殿の境内に上って行って、教え始められたことを学びました。今朝の御言葉は、そのイエスさまへの様々な人々の反応が記されております。はじめに記されているのはエルサレムに住んでいた人々の反応であります。エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがおりました。「これは人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」。ヨハネ福音書において、イエスさまがエルサレムを訪れたのは今回で3度目となります。1度目は第2章に記されている過越の祭りのときで、イエスさまは神殿から商人を追い出すといういわゆる「宮きよめ」をなされました。2度目は、第5章に記されているユダヤ人の祭りのときで、安息日にベトザタの池の病人を癒されました。このときにユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとしたことが記されておりました。第5章15節から18節に次のように記されています。

 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。 

 このようにエルサレムの人々は、「ユダヤ人たち」と言われている最高法院の議員たちがイエスさまを殺そうとねらっていたことを知っておりました。それゆえ、イエスさまが神殿で公然と話していることに驚き、もしかしたら自分たちの指導者である議員たちは、この人がメシアだということを認めたのではないかといぶかったのであります。26節に「公然と」とありますが、これと同じ言葉が13節にも記されておりました。「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」。エルサレムの人々を含めた群衆は指導者たちを恐れてイエスさまについて公然と語ることができなかったのに対して、イエスさまは神殿に上り公然と教えられたのです。そのようなイエスさまの自由で大胆な態度に、エルサレムの人々は動揺したのでありました。しかし、それはイエスさまをメシアと認めるという積極的なものではありませんでした。26節の後半に「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」とありますが、この所は原文を見ますと、否定の言葉から始まる疑問文で記されています。つまりこの所は否定の答えが予測される疑問文として記されているのです。ですからいくつかの翻訳聖書は、この26節の後に「いやそうではあるまい」という言葉を補っています。なぜなら、エルサレムの人々は、イエスさまがどこの出身かを知っていたからです。27節。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身か知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」。ここに前提とされているのは、当時のユダヤ人たちの間に広まっていたメシアについての教えであります。メシアはどこかに隠れておりまして、突然その姿を現すという「隠れたるメシア」という説が当時のユダヤ人の間に広まっていたのです。この「隠れたるメシア」の教えを裏付けるものとして、例えば旧約聖書のマラキ書第3章1節があります。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。このように待望しているメシアは、突如、その聖所に来られることが期待されていたのです。この期待が「隠れたるメシア」という神秘的な存在へと受け継がれていったのです。この「隠れたるメシア」という説は、マタイによる福音書の降誕物語に親しんでいる私たちには不可解に思えるかも知れません。そこでは、東方の博士たちがヘロデ大王のもとを訪れ、律法学者たちは旧約聖書からメシアがユダヤのベツレヘムでお生まれになることを告げるわけです。もちろんヨハネ福音書のユダヤ人たちも旧約聖書の預言のことは知っておりました。ですから42節を見ますと「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と記されているわけです。以前にも申しましたけども、メシアには人々の様々な期待が投影されておりまして、その出生についてもいくつかの説があったわけです。そしてメシアはどこの出身か分からないはずだという「隠れたるメシア」の教えによれば、ガリラヤのナザレの出身であるイエスさまはメシアであるはずはないとエルサレムの人々は言ったわけです。私たちはここに、何かと理由をつけてイエスさまがメシアであることを認めようとしない人々のかたくなさ、不信仰を見ることができるのです。

2.イエスはどこから来たのか

 28節から30節までをお読みいたします。

 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

 ここでイエスさまは「大声で言われた」と記されています。人々の頑なさをお怒りになったとも考えられるし、これから語る教えを皆に聞いてもらいたいという思いがあったのかも知れません。いずれにせよ、イエスさまが大声で言われたことですから、ここで大切なことが語られていることは明かであります。イエスさまはここで「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている」と27節の人々の言葉をなぞるようにして仰せになりました。このことは、イエスさまが人々の主張をある意味ではお認めになったと読むことができます。それではイエスさまは、「だからわたしはあなたたちの言うように、メシアではない」と言われたかといえばそうではありません。イエスさまは続けてこう仰せになりました。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」。このイエスさまの御言葉は非常に謎めいた御言葉であると思います。イエスさまは、「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」と仰せになりました。イエスさまをお遣わしになった方、真実とも真理とも言えるお方とは、御父である神さまを指しております。しかし、イエスさまは人々に「あなたがたはその方を知らない」と言われるのです。これは人々が知っていると豪語するイエスさまの出身と、イエスさまが教えられている出身との意味合いが異なるからです。人々はイエスさまを自分たちと同じ人間だと考えておりますから、この地上での出身を問題にしているわけです。けれども、イエスさまは永遠から神と共におられる神の独り子であられますから、その出身は神さまがおられる天にあることをここで告げておられるわけです。この福音書のプロローグである第1章1節から3節に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった」と記されておりました。また、第1章14節には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記されておりました。そのようなプロローグから読み進めてきた私たちは、ここでイエスさまが御自分の本当の出身について、つまり御自分が天の神さまのもとから遣わされたことについて語っておられることが分かるのです。

 確かに人々はイエスさまがガリラヤのナザレ出身であることを知っておりましたけども、しかし、彼らは本当のイエスさまの出身がどこであるかを知らないのです。それは人々がイエスさまが神さまから遣わされたお方であることを信じようとしないからであります。イエスさまが神さまから遣わされたことを信じないのは、彼らが神さまを知らないからに他ならないのです。イエスさまが御父から遣わされたことを信じるかどうか。これが信仰と不信仰の分かれ目とも言える大切な点であります。この後イエスさまは何度も、御自分が神さまから遣わされた者であることを教えられます。そして福音書記者ヨハネによれば、弟子とはこのことを知り、信じた者たちのことを言うのです。第17章に「大祭司の祈り」と呼ばれるイエスさまのお祈りが記されています。その6節から9節でイエスさまはこのように祈られているのです。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」。

 このようにイエスさまの弟子とは、イエスさまがお語りになった神さまから受けた言葉を受け入れ、イエスさまが神さまの御もとから出てきたことを本当に知り、神さまがイエスさまを遣わされたことを信じた者たちを言うのであります。イエスさまの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じる者たち、それが神さまがイエスさまに与えられた人々なのです。では、イエスさまの出身がガリラヤのナザレに留まることなく、天にまで遡ることができると信じることは何を意味しているのでしょうか。それはこの方が初めから神と共におられた神の独り子であるということを信じるということであります。私たち人間は誰もがこの地上で生を受けます。夫婦の交わりを通して、私たち人間の命は始まるわけです。けれども、イエスさまはそうではありません。イエスさまは神の御子でありつつ、人となられたお方でありました。イエス・キリストは肉と呼ばれる人の性質を取る前にも、永遠から神のと共におられた言であるのです。それゆえ、イエスさまが神さまの御もとから出て来たことを本当に知り、神さまがイエスさまを遣わされたことを信じている者こそ、キリスト者であるのです。ナザレのイエスという人物が歴史的に存在したということは、誰も否定することのできない事実であります。ですから、イエスさまがガリラヤのナザレの出身であることは、誰もが知っていることなのです。けれども、それで本当にイエスさまの出身について知ったことになるのでしょうか。そうではないということをイエスさまはこの所で現代に生きる私たちにも大きな声で教えてくださっているわけです。

 30節に、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった」とあります。なぜ、人々はイエスさまを捕らえようとしたのでしょうか。それはイエスさまを遣わされた方が神さまを指していることが人々にも分かったからです。そのようにしてイエスさまが御自分を神と等しい者としていることに気づいたからです。しかし、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか神を冒涜する者として捕らえようとしたわけであります。私たちはここにイエスさまが祈られた弟子たちとは異なる人々の反応を見ることができるのです。

3.イエスはどこへ行くのか

 31節から36節までをお読みいたします。

 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちをファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでも言うのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 イエスさまを神を冒涜する者として捕らえようとした者たちがいた一方、群衆の中にはイエスさまを信じる者が大勢おりました。群衆の中には、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをするだろうか」とささやく者たちがいたのです。そして、それを聞いたファリサイ派の人々が、祭司長たちと共に、イエスさまを捕らえるために下役たちを遣わしたのでありました。この「下役たち」とは神殿の治安を守る役人たちであったと思われます。イエスさまにとって自分を捕らえるために下役たちがやって来たことは、御自分の時が迫っていることを意味していたようであります。イエスさまは、下役たちを含むユダヤ人たちにこうお語りになりました。「今しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。それから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることはできない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。ここでイエスさまは、「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と仰せになりました。イエスさまは28節で、ユダヤ人たちに「あなたがたはその方を知らない」と言われましたけども、その方のもとへ行くと言われたのです。それゆえ、イエスさまは続けて「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われたのです。イエスさまが神さまから遣わされたことを信じないゆえに、ユダヤ人たちはイエスさまのいる所に行くことができないのです。イエスさまを遣わされた方を知らないユダヤ人にとって、イエスさまが行こうとしている場所は、遥か遠い異国の地でありました。ユダヤ人たちは、イエスさまの「あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」という御言葉を聞いて、「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでも言うのか」と互いに論じ合いました。彼らはイエスさまの出身を地上のガリラヤのナザレであると考えたように、イエスさまが行こうとされている所も、この地上の異国の地と考えたのであります。そして、そのような思い違いをしているがゆえに、彼らはイエスさまを捜しても、見つけることがないのです。「イエスさまを捜しても見つけることがない」とは、言い換えれば「イエスさまを信じようとしても、信じることができない」ということです。それはイエスさまの出身がガリラヤのナザレでと考えている以上、当然のことだと思います。イエスさまの出身が御父のおられる天ではなくて、ガリラヤのナザレであるとすることは、イエスさまは自分たちを同じような単なる人間として考えているということです。単なる人間を信じて、その弟子となるということは、その人が生きている間にしかできないことです。もしイエスさまがガリラヤのナザレ出身の単なる人間であるならば、イエスさまの弟子になることができるのは、その同時代に生きていた人だけに限られたことであります。ですから、イエスさまの出身を御父のおられる天ではなくてこの地上と考えるならば、イエスさまが共にいなくなってしまえば、イエスさまを見つけることはできない。イエスさまを信じて、弟子となることはできないのです。しかし、イエスさまの教えを受け入れ、イエスさまが御父から遣わされた者であることを信じ、イエスさまが永遠からおられる神の独り子であることを知るならば、イエスさまを捜して見出すことができるのです。なぜなら、イエスさまは十字架の贖いの御業を成し遂げられた後に、御自分を遣わされた方のもとへ帰られたお方であるからです。イエスさまは、十字架の死から三日目によみがえられ、天にお昇りになり、今も生きて働きたもうお方であるからです。

 私たちはかつてルカによる福音書を学びましたけども、その第24章にイエスさまが復活されたことが記されています。イエスさまのご遺体を丁重に葬るために墓に訪れた婦人たちに、二人の天使はこう告げるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。この天使の言葉は、今朝の御言葉を読み解くヒントを私たちに与えてくれます。なぜ、ユダヤ人たちは、イエスさまを捜しても、見つけることはないのか。それは彼らがイエスさまの本当の出身がどこであるかを知らないゆえに、イエスさまのおられないところにイエスさまを捜そうとするからです。死者の中に、過去の人物としてイエスさまを捜そうとしても、イエスさまを見つけることはできません。なぜなら、そこにはイエスさまはおられないからです。イエスさまが今おられるのは、イエスさまが遣わされた御父のおられる天であります。そして、そのことを知っているのは、イエスさまが御父から遣わされたことを知っている者たちであるのです。すなわち、私たちキリスト者だけがイエス・キリストが今も生きて天におられることを知っているのであります。

むすび.私たちはイエスのいる所に行くことができる

 おそらく、教会にはじめて来た方が違和感を覚えるのは、2000年前に地上に生まれたイエス・キリストが天におられ、今も生きて働いておられるということだと思います。そのようなことはイエスさまが単なる人間であれば考えられないことです。けれども、このお方は、初めから神と共におられる神の独り子であります。それゆえ、このお方は、今も生きておられ、御言葉と聖霊において現代の私たちとも出会ってくださり、私たちに語りかけてくださり、私たちを信じて従う弟子としてくださるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストを肉の目で見ることはできませんけども、この方を信じ、この方のいる所に、私たちもやがて行くことになることを信じることができるのです。こうして、イエスさまが第14章でお語りになった御言葉が、私たち一人一人の上に実現するのです。イエスさまは第14章の1節から3節でこう仰せになりました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。

 今、天におられるイエスさまが、やがて御自分の民の救いを完成させるために再びこの地上に来てくださいます。そして、そのとき、「わたしのいる所に、あなたたちもいることになる」というイエスさまのお約束が実現するのです。イエスさまが御父のもとから遣わされたお方であり、今、御父のもとにおられることを信じる者たちは、イエスさまのおられるところに行くことができるのです。そして、それこそ神さまがイエス・キリストを通して与えようとしておられる天の祝福なのであります。

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