イエスの時 2009年11月01日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの時

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。ヨハネによる福音書 7章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝からヨハネによる福音書の第7章に入ります。

1.仮庵の祭り

 1節、2節をお読みいたします。

 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。

 私たちは第6章で、イエスさまがガリラヤにおいて「五千人に食べ物を与える」というしるしとそれにまつわるイエスさまの教えを学びました。第7章1節は、そのイエスさまがその後もガリラヤを巡っておられたと記しております。ガリラヤは「周辺の地」という意味でありまして、ユダヤを首都圏とすればガリラヤは地方でありました。なぜイエスさまは首都圏とも言えるユダヤを巡ろうとしなかったのでしょうか。聖書は「ユダヤ人が殺そうとねらっていた」からであると記しています。これはいつのことを言っているのかと言いますと、第5章18節を指していると思います。イエスさまがベトザタの池の病人を癒されたしるしに続いてこう記されておりました。第5章15節から18節までをお読みいたします。

 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 このようにユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとねらっていたので、イエスさまはユダヤではなくガリラヤを巡っておられたのです。そしてそのようなとき、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていたのであります。仮庵祭とは、その昔エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念し、仮庵を作ってそこに仮住まいする祭りであります。また仮庵祭は9月下旬から10月初旬に行われる秋の祭りでありまして、農作物の収穫を感謝する祭りでもありました。仮庵祭については、旧約聖書のレビ記第23章39節から43節にこのように記されています。

 なお第七の月の十五日、あなたたちが農作物を収穫するときは、七日の間主の祭りを祝いなさい。初日にも八日目にも安息の日を守りなさい。初日には立派な木の実、なつめやしの葉、茂った木の枝、川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。毎年七日の間、これを主の祭りとして祝う。第七の月にこの祭りを祝うことは、代々にわたって守るべき不変の定めである。あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。

 イスラエルの民はエジプトを脱出してから約束の地カナンに入るまで一定の場所に住居を定めて住むということはありませんでした。イスラエルの民は神が臨在される会見の幕屋を囲むように、仮庵(天幕)に住んでいたのです。それはいつでも畳んで持ち運びができるまさしく仮につくった庵でありました。ちなみに「庵」を広辞苑で引いてみますと「草や木を用いるなどして作った粗末な家」と記されておりました。ですから共同訳聖書を見ますと「仮小屋祭」と翻訳しています。現在でもユダヤ教徒は、仮庵の祭りを祝っております。仮庵の祭りの間は、家の前や屋上に仮小屋を造り、そこで生活をするのです。そのようにしてかつて先祖たちと共におられた神さまが自分たちとも共にいてくださることを覚えるのです。ユダヤには、過越祭、五旬祭、仮庵祭という3つの大きな祭りがあるのですが、男子はすべてこの三つの祭りに守らねばなりませんでした。申命記の第16章は「三大祝祭日」について記しておりますが、その16節、17節にこう記されております。「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい」。イエスさまの時代、主の選ばれた場所とはユダヤのエルサレムでありました。よって仮庵祭が近づいていたことは、イエスさまがユダヤを訪れるときが近づいていたことを意味していたのです。

2.イエスの兄弟たちの不信仰

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 3節から5節までをお読みいたします。

 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。

 ここで「イエスの兄弟」たちとありますが、これは聖霊によって身ごもったマリアがイエスさまを生んだ後に、夫ヨセフとの間にもうけた弟たちのことを指していると思われます。マルコによる福音書の第6章3節を見ますと、イエスさまにヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンといった4人の弟たちがいたことが分かります。その兄弟たちがイエスさまにこう言ったのです。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。この兄弟たちの言葉は命令形で記されておりまして非常に強い言い方です。「ここを去りなさい。ユダヤに行きなさい。自分を世にはっきり示しなさい」といずれも命令形で記されています。先程、すべての男子は仮庵祭を祝うためにエルサレムへ上らねばならなかったと申しましたけども、ここで兄弟たちはただ巡礼に行きましょうと誘っているのではありません。仮庵祭という多くの人々が集まるこの時をチャンスと捉えて、公にメシアとして自分を示しなさいと言っているのです。4節で兄弟たちは「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない」というこの世の知恵を語っておりますが、これはイエスさまが文字通りひそかに行動していたということではありません(ヨハネ18:20参照)。兄弟たちが言いたいことは、周辺の地であるガリラヤでいくら業をなしても、それはひそかに行動しているのと同じであるということです。公に知られようとするならば、宗教と政治の中心地であるユダヤで業をすべきである。そのようにして自分がメシアであることを世にはっきりと示すべきである、と兄弟たちは語るのであります。皆さんは、この兄弟たちの言葉を読んでどのような印象を持たれたでしょうか。そうだ、その通りだ。兄弟たちの言うことももっともだと思われるでしょうか。しかし、福音書記者ヨハネは5節にこう記しています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。兄弟たちは、仮庵祭をチャンスと捉えて、「あなたのしている業を弟子たちに見せるためにユダヤへ行きなさい。そして自分がメシアであることを世にはっきり示しなさい」とイエスさまに言いました。しかし、兄弟たちはイエスさまがメシア、救い主であると信じていたわけではないのです。兄弟たちは自分でイエスさまを信じる決断をせずに、世間がイエスさまをどのような人物として評価するかに関心を持っていたのです。 

3.わたしの時はまだ来ていない

 6節から9節までをお読みいたします。

 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 兄弟たちが仮庵祭をチャンスと捉えて、「ユダヤに行って自分を世にはっきり示しなさい」と語ったのに対して、イエスさまは「わたしの時はまだ来ていない」と仰せになりました。ここで「時」と訳されている言葉は、定められた時や好機(チャンス)を意味するカイロスという言葉です。先程、ユダヤには過越祭、五旬祭、仮庵祭という3つの大きな祭りがあると申しました。その3つの祭りの中でも仮庵祭はもっとも盛大に祝われたと言われております。よって兄弟たちは、仮庵祭こそイエスさまが御自分を世にはっきり示す良い時であると考えたのでありました。しかし、イエスさまは「わたしの時はまだ来ていない」と仰せになるのです。ここで「わたしの時」と言われる「イエスの時」については、これから後もしばしば言及されております。例えば第7章30節にこう記されています。「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」。また第8章20節にもこう記されています。「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」。さらに第12章23節では、イエスさまの口から御自分の時について語られています。「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。このように見てきますと、イエスさまが言われる「わたしの時」が王としてエルサレムに入城される時に留まらず、イエスさまが十字架に上げられる時を意味していることが分かります。そしてそれは秋に行われる仮庵の祭りではなくて、早春に行われる過越の祭りであったのです。なぜなら、イエスさまこそ、洗礼者ヨハネが告げておりましたように「世の罪を取り除く神の小羊」であられるからです(ヨハネ1:29)。それゆえイエスさまは、「わたしが世に自分をはっきりと示すようにと御父から定められた時はまだ来ていない」と仰せになったのです。 

 イエスさまは「わたしの時はまだ来ていない」と言われたのに対し、兄弟たちには「あなたがたの時はいつも備えられている」と言われました。「あなたがたの時」の「時」も定められた時、好機(チャンス)を意味するカイロスが用いられています。「あなたがたの時はいつも備えられている」、これはどういう意味でしょうか。わたしの手もとにある翻訳聖書から、手がかりになるものをいくつかご紹介したいと思います。リビングバイブルはこのところをこのように意訳しています。「しかし、あなたがたはいつ行ってもいいし、いつ行こうが、別にかまいません。世間の人に憎まれるはずもありませんから」。また、柳生直行(やぎゅうなおゆき)という方の翻訳ではこのところをこう訳しています。「だが、そなたたちは、いつでも好きな時に活動できる。世間の人がそなたたちを憎むことはあり得ないからだ」。さらに、塚本虎二(つかもととらじ)という方の翻訳ではこのところを「あなたたちのときはいつでも準備ができている」と訳し、「いつでもしたいことができるのだから」と補足しています。これらの翻訳を手がかりに考えますと、「あなたがたの時はいつも備えられている」とは、「あなたがたにとって時は、いつでもチャンスとなりうる」ということを意味していると思われます。私たちが親しんでいることわざで言うならば、「思い立ったが吉日」なのです。神さまの定められた時ということを考えることもなく、この時がチャンスであると考える。そのようにして思いのままに振る舞うことができる。それが「あなたがたの時はいつも備えられている」というイエスさまの御言葉が意味するところであります。なぜ、イエスを信じない兄弟たちは思いのままに振る舞うことができるのか。それは世が彼らを憎むことができないほどに、彼らが世に埋没してしまっているからです。しかし、世はイエスさまを憎むます。それはイエスさまが世の行っている業は悪いと証ししているからです。御父を同じ業をされる御子イエス・キリストが遣わされたことによって、人々の思いがどれほど神さまから離れているかが露わとされるのです。

 兄弟たちは、イエスさまがユダヤに行って、大勢の人の前で業を行えば世はイエスさまをメシアとして受け入れるのではないかと考えました。しかし、実際はそのようにはなりませんでした。イエスさまはこの後、第9章で生まれつき目の見えない人を見えるようにします。また第11章では、ラザロを死人の中から甦らせます。しかしそれで世はイエスさまをメシアとして受け入れたでしょうか。受け入れるどころか、世はイエスさまを憎み、ますます殺そうとねらうようになったのです。そのようにして神さまが定められたイエスの時は満たされるのです。8節にも「わたしの時が来ていないからである」とありますが、この所を新改訳聖書は「わたしの時がまだ満ちていないからです」と訳しています。イエスさまの時が満ちるとき、それはイエスさまへの世の憎しみが頂点に達する時でもあるのです。その世の憎しみによって、イエスさまが十字架に上げられることにより、この方こそ神の御子であり、救い主であることが公に示されるのであります。イエスさまが十字架につけられる場面は第19章に記されておりますが、そこを見ますと、イエスさまがつけられた十字架の上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが掛けられておりました。そして、その罪状書きを多くのユダヤ人たちが読んだと記されているのです。そのようにイエスさまが王であることは十字架においてはっきりと示されたのです。そして、何より十字架の死から三日目に復活し、天へとあげられることによってはっきりと示されたのであります。そのことは私たち自身のことを考えてみればすぐ分かることであります。私たちがイエスさまを神の御子であり、救い主であると信じているのは、病人を癒されたとか、目の不自由な人を見えるようにしたということによるのではなく、イエスさまが十字架に死に、三日目に復活し、天へと上げられたお方であるからです。それゆえ、イエスさまが神の御子であり、救い主であることが世にはっきりと示されるのは十字架という苦難の死を通してであるのです。けれども兄弟たちは、その十字架という苦難の死を抜きにして、自分を世にはっきり示しなさいとイエスさまを誘惑したのです。このように見てきますと、兄弟たちの言葉の中に私たちは荒れ野の誘惑と同じ響きを聞き取ることができるのです。しかし、イエスさまは御自分の時を明確に弁えておられました。御自分がどのようにして神の御栄光を現すのかをご存じであられたのです。

むすび.神の定められた時を弁える

 今朝の御言葉で私たちに求められていることも、神さまによって定められた時を弁えるということであります。祈りの中で神さまによって定められた時を信仰を持って待ち続けること。そのことが、イエスさまを信じている私たちにも求められているのです。それは神の栄光を現すという大きな目的の中で、もう一度自分の人生を捉え直すことであります。自己中心の人生設計から神中心の人生設計へと立て直すことです。そのような意味で、イエスさまが言われる「わたしの時」とは決断の時とも言えます。そのように考えるならば、「あなたがたの時はいつも備えられている」というイエスさまの御言葉は、「いつでもわたしを信じる決断の時があなたたちに備えられている」とも読むことができるのです。まだイエスさまを信じていない人にもイエスさまを信じる時がいつも備えられている。イエスさまを信じようとしない家族にイエスさまを信じる時がいつも備えられている。そのことを私たちは信じて祈り続けたいと思います。そのことを信じて、主の日の礼拝を通して、イエス・キリストこそ神の御子であり、救い主であることを、私たちも世にはっきりと示してゆきたいと願います。

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