命の言葉を持つイエス 2009年10月18日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

命の言葉を持つイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章60節~71節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
6:70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。ヨハネによる福音書 6章60節~71節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 先週は特別伝道礼拝としてお話しをいたしましたが、今朝から再びヨハネによる福音書を読み進めていきたいと思います。

1.つまずく弟子たち

 60節から66節までをお読みいたします。

 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちがいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

 この所には群衆の中からだけではなく、弟子たちの中からもイエスさまのお話を聞いてつぶやきが生じたことが記されています。26節から始まるイエスさまの教えを聞いて、弟子たちの多くの者が「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやいたのでありました。このことに気づかれたイエスさまは次のように仰せになりました。「あなたがたはこのことにつまづくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」。このイエスさまの御言葉から弟子たちが何についてつぶやいたのかが推測できるのではないかと思います。結論から申しますと、弟子たちのつぶやきは群衆と重なるものでありました。41節、42節にこう記されておりました。

 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

 群衆が「わたしは天から降って来た」というイエスさまの御言葉を聞いてつぶやいたように、弟子たちもこのことにつぶやいたのでありました。といいますのも、62節に「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・」とあるからです。人の子が天から降って来たことにつまずくならば、それでは人の子が天に上るのを見るならばどうなるかとイエスさまは問うているのです。62節は「・・・・・・」と記されているように、未完成の文であります。もし何々ならばという仮定だけが記されて終わっているのです。それでこの文を完成させようといくつかの推測がなされてきました。多くの研究者がしている推測は、「もっとつまずくであろう」ということです。「わたしが天から降ってきたことにつまずくのであれば、人の子がもといた所にい上るのを見るならば、もっとつまずくであろう」とイエスさまは仰せになったと考えるのです。永遠から神と共にいた言が肉となって地上に宿ったことにつまずくならば、人の子であるわたしが天に上るのを見るならばもっとつまずくに違いないとイエスさまは言われたのです。イエスさまが「人の子がもといた所に上るのを見るならば」と言われるとき、そこで言われているのは何よりもイエスさまの昇天であります。イエスさまが天に昇られることです。けれどもヨハネによる福音書が十字架と復活と昇天をひとまとめにとらえ、栄光と呼んでいることを考えるならば、ここでは昇天ばかりではなく十字架に上げられることが言われていると読むことができます。そうしますと弟子たちがつまずいた「このこと」はむしろ51節のイエスさまの御言葉であったとも考えられるのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。ここでイエスさまは御自分を天から降って来た生きたパンであるとお語りになり、そのパンをわたしが与えると仰せになりました。さらにそのパンが「世を生かすためのわたしの肉のことである」とイエスさまは仰せになられたのです。つまりここでイエスさまは、御自分の十字架の死を予告されているのです。イエスさまは、わたしの受難予告を聞いてつまずくならば、それが実現してわたしが十字架に上げられるのを見るときはもっとつまずくに違いないと言われたのです。

 続けてイエスさまは、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と仰せになりました。このイエスさまの御言葉は52節の群衆の激しい議論を背景として語られているのではないかと思います。52節にはこう記されておりました。

 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。

 前々回、52節から59節までをお話ししたときに、わたしはこの福音書の最初の読者たちはイエスさまの御言葉を主の晩餐と結びつけてすんなりと読むことができただろうと申しました。けれども、このイエスさまの御言葉を聞いた弟子たちは群衆と同じような不快感を抱いたようであります。どうやら弟子たちもイエスさまが言われた「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことを文字通りに理解して「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやいたのです。そのような弟子たちに対して、イエスさまは「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われたのです。すなわち、御自分の言葉を文字通り理解するのではなくて、そこに霊的真理が潜んでいることを教えられたのです。おそらくこのイエスさまの御言葉を読んで多くの方が、かつてイエスさまがニコデモに語られた御言葉を思い起こされたのではないでしょうか。イエスさまは第3章6節で、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と仰せになりました。イエスさまが「肉から生まれたものは肉である」と言われるとき、それは母親の胎内から生まれる誕生のことを指しています。それに対して「霊から生まれたものは霊である」と言われるとき、聖霊によって生まれる、上からの新しい誕生のことを指しているのです。そのような肉と霊の対比がここでも用いられています。イエスさまが「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」と言われるときの「命」とは、54節にありますように「永遠の命」のことであると考えられます。イエスさまは、永遠の命を与えることができるのは神の霊である聖霊だけであることをここで教えてくださっているのです。そして、イエスさまは御自分がお話しになった御言葉こそ霊であり命であると仰せになるのであります。それゆえ、イエスさまは「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と仰せになられるのです。イエスさまの御言葉は霊であり命であるがゆえに、聖霊の導きによって初めて信じることができるのです。イエスさまの御言葉を聞いても、その人の心を聖霊が照らしてくださらなければ、それは聞いていられないひどい話だとつぶやかざるを得ないのです。それゆえ、イエスさまは「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」という御言葉を繰り返されるのです。

 64節の途中に、福音書記者ヨハネの解説の言葉が記されています。「イエスは最初から信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」。この御言葉は何を意味しているのでしょうか。それはイエスさまにとって、弟子たちの多くが離れ去り、もはや御自分と共に歩まなくなったことが思いがけないことではなかったということです。この時イエスさまには多くの弟子たちがおりました。しかし、イエスさまは最初から信じない者がだれであるかを知っておられたのです。それゆえ、多くの弟子たちが離れ去ったことは起こるべきして起きたことなのです。マルコによる福音書の第4章でイエスさまは「種を蒔く人のたとえ」をお語りになりました。その説明の中でイエスさまはこう仰せになりました。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いていても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」。イエスさまの御言葉を聞いて、ユダヤ人たちと共につぶやいてた弟子たちのうえに、まさしくこのイエスさまの御言葉が実現しているのです。特に、ヨハネによる福音書が記された時代の教会は、ユダヤ人会堂から追い出され、周囲の人々から様々な迫害を受けていたと考えられております。そのようなヨハネの教会の現実に重ね合わせるようにして、ヨハネは弟子たちの多くが霊であり命であるイエスさまの御言葉につまずき、離れ去ったことを記すのです。自分たちの群れから多く人々が離れ去り、共に歩まなくなってしまった現実を目の当たりにしながら、イエスさまの「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」という御言葉をヨハネは記したのです。

2.ペトロの信仰告白

 67節から69節までをお読みいたします。

 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 ここで突然「十二人」が出てきますが、マルコ、マタイ、ルカのいわゆる共観福音書を見ますと、イエスさまが弟子の中から十二人をお選びになり、使徒と名付けられたことが記されています。福音書記者ヨハネは読者がそのことを知っていることを前提として記しているようです。このヨハネの書き方ですと、十二人は多くの中から選ばれた者たちというよりも、イエスさまのもとに留まり続けた残りの者たちという印象を受けます。多くの弟子たちがイエスさまの御言葉につまずき離れ去っていく中で、イエスさまは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。このイエスさまの御言葉は、もとの言葉を見ますと否定の言葉で始まっている疑問文で記されています。これは否定の答えを期待する聞き方なのです。イエスさまは十二人に、「まさかあなたがたも離れて行きたいのではあるまいな」と言われたのです。そのイエスさまの思いに答えるように、十二人を代表してシモン・ペトロがこう答えるのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスさまの御言葉に対して、ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と逆に問うのです。あなたがわたしたちの主である以上、わたしたちの居場所はあなたのもとだけですとペトロは答えたのです。なぜなら、主イエスこそ永遠の命の言葉を持っておられるお方であるからです。このペトロの告白は、63節の後半でイエスさまが言われたことを映し出すものです。イエスさまは「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と仰せになりましたが、ペトロはそれを受けて「あなたは永遠の命の言葉を持っておられる」と言うのであります。これによって離れ去っていた多くの弟子たちと十二人の違いが浮き彫りにされています。多くの弟子たちがイエスさまの御言葉につまずいたのに対して、十二人はイエスさまが永遠の命の言葉を持っておられると告白することができました。このことは十二人のうえに聖霊の導きがあったこと、彼らが父なる神の選びの内にあったことを教えています。 

 さらにペトロは、「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白いたしました。神の聖者とは神さまのお働きのために聖別され遣わされた者という意味であります(10:36を参照)。このペトロの告白はイエスさまが天から降って来られたことを前提としています。多くの弟子たちがつまづいたのに対して、十二人はイエスさまの御言葉通りにイエスさまを天から降ってきた神の聖者であると信じたのでありました。細かいことを言うようですが、ここでの「信じ」と「知っています」は現在完了形で記されています。現在完了形は、過去に起こったことの結果が現在も続いていることを表します。ですから、ペトロは今信じた、今知ったと言っているのではないのです。かつて信じた通り今も信じている。かつて知ったとおり今も知っているとペトロは言っているのです。十二人に含まれると考えられる最初の弟子たちはすでに第1章で、イエスさまを「メシア」、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」、「イスラエルの王」と言い表しました。そのように告白して、イエスさまと共に歩んできた弟子たちはの思いは変わることはありませんでした。いやむしろ、様々なしるしを目の当たりにすることにより、彼らはイエスさまのもとに留まり続け、「あなたこそ神の聖者であるとわたしたちは信じ、知っています」と堂々たる告白をすることができたのです。ある注解書を読んでおりましたら、この「知っています」は体験に基づく知識であると記してありました。十二人がイエスさまこそ神の聖者であると知った体験とは何であったのか。それは何より彼らだけが体験した湖の上を歩くイエスさまとの遭遇でありました。海の高波を踏み砕くようにして十二人の乗る小舟に近づいて来られるイエスさまのお姿。彼らはそこに人間以上のお方、神その方の姿を見たのであります。そして、イエスさまの口から「わたしはある」というその昔モーセに示された神の名を聞いたのであります。私たちは、このペトロの信仰告白を読むときに、湖の上を歩まれるイエスさまの出来事を忘れてはなりません。十二人はそのような体験を通して、「イエスさまこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白することができたのです。そして、ここに私たち教会の最も根本的な信仰の告白が言い表されているのです。

3.その中の一人は悪魔

 70節、71節をお読みいたします。

 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 十二人を代表するペトロの信仰告白を受けたイエスさまは、御自分が選ばれた十二人の中に悪魔の手先となる人物がいることを指摘されます。イエスさまはそれが誰であるかを言いません。ただ福音書記者ヨハネがそれがイスカリオテのユダであったことを伝えているのです。イエスさまを祭司長たちに引き渡したのはこともあろうに十二人の一人であるユダでありました。64節に「また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」とありますように、もちろんイエスさまはそれが誰であるかを知っておられたはずです。けれども、ここではそれが誰であるかは告げませんでした。イエスさまは、ユダが実際の行動に移すまでユダを他の弟子たちと同じようにこの上なく愛されたのです。第13章にイエスさまが弟子の足を洗う場面が描かれていますが、イエスさまはそこでユダの足をも洗われたのであります。このことは、「その中の一人は悪魔だ」というイエスさまの御言葉がただユダを断罪する言葉ではなくて、御自分のもとに留まり続けることを求められる御言葉であったことを私たちに教えています。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」。そのように仰せになるイエスさまのお顔は苦渋に満ちておられたのではないかと思うのです。なぜなら、イエスさまは御自分を裏切るユダのためにも十字架の死を死のうとされているからです。

むすび.キリストのもとに留まり続ける 

 今朝の御言葉には、イエスさまのもとから多くの弟子たちが離れ去ったこと、さらには留まり続けた十二人中からも裏切り者が出てくることが記されております。このことは私たちに何を教えているのでしょうか。それは地上の教会には欠けや弱さがあるということです。立派な信仰者と思われていた人が信仰を捨ててしまう。牧師や長老や執事の中からさえ信仰を捨ててしまう人がでてくる。そのようなことが地上の教会においては起こりうるのです。他の誰かのことを考える必要はありません。むしろ、イエスさまがここで求めておられることは、私たち一人一人が自分はどうであろうかと問うてみることです。「あなたがたも離れていきたいか」というイエスさまの御言葉を自分に対するものとして聞くことであります。そして、ペトロの「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」との言葉を自分の言葉として語るのです。日本でキリスト者であり続けることは、困難の伴うことであります。キリストを信じることでさまざまな誤解や偏見を受けたりもします。そのようなことを考えるならば、いっそ信仰を捨ててしまおうかと思うこともあるのです。牧師であるわたしも、そのようにふと考えることがあるのですね。しかし、もし信仰を捨ててしまうならば、何を信じて生きてゆけばいいのでしょうか。そもそもイエスさまを神の聖者であると信じ、知っている私たちがこの方から離れ去ることなどできるのでしょうか。イエスさまがわたしを永遠の命に生かすために十字架の死を死んでくださったことを知った今、この方のもとを離れ去ることができるでしょうか。できないです。キリスト者とはそのことを知っている者のことを言うのです。自分はキリストなしでもはや生きていくことができないことを知っている者、それがキリスト者なのであります。

関連する説教を探す関連する説教を探す