イエスは命のパン 2009年9月20日(日曜 朝の礼拝)

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イエスは命のパン

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章34節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」ヨハネによる福音書 6章34節~40節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝は、ヨハネによる福音書第6章34節から40節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

1.イエスは命のパン

 34節、35節をお読みいたします。

 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 ここでの「彼ら」は、イエスさまを捜し求めてカファルナウムまで来た群衆のことであります。彼らは、その前日に、ガリラヤ湖の向こう岸で、イエスさまがパン五つと魚二匹によって五千人を満腹させたしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエスさまを王にするために連れて行こうとしたのでありました。その彼らが、イエスさまに、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言っているのです。では、「そのパン」とはどのようなパンなのでしょうか。32節、33節にこう記されておりました。「すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである』」。ですから、34節で群衆がイエスさまに求めた「そのパン」とは、「わたしの父が与える天からのまことのパン」であり、「天から降って来て、世に命を与える神のパン」のことを言っているのです。しかし、まだこの時、群衆は「そのパン」がどのようなものであるかを理解していなかったようです。というよりも、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」という群衆の言葉は、イエスさまへの野次、ひやかしとも読むことができるのです。そもそも、群衆が求めたのは、自分たちの先祖が食べたマンナのような天からのパンでありました。それは彼らが、来るべき預言者は、かつてのモーセが行った奇跡と同じ奇跡を行うと期待していたからです。イエスさまが、「神がお遣わしになったわたしを信じること、それが神が求められる唯一の業である」と言われたのに対して、彼らは、「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どんな業をしてくださいますか」と言ったのでありました。そして、そのしるしとして、自分たちにも天からのパンを与えて食べさせることを要求したのです。それに対して、イエスさまは、彼らが引用した旧約聖書の御言葉の意味を解き明かされるのです。31節に二重カッコで『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』とありますが、この二重カッコは、旧約聖書の詩編第78編24節からの引用であります。そこにはこう記されています。詩編第78編23節から25節までをお読みいたします。

 それでもなお、神は上から雲に命じ/天の扉を開き/彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり/人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。

 このように詩編を読んでも、イエスさまが言われたように、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない」ことが分かります。そして、イエスさまはこの詩編の言葉を預言と解釈しまして、この預言が今、あなたがたに実現していることを告げるのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 詩編といいますと、そこには祈りと賛美の歌が記されていると考えるのでありますが、イエスさまにとって、またその弟子たちである初代教会にとって、詩編は預言の書でもありました。使徒言行録の第2章に、ペンテコステのペトロの説教が記されています。そこでペトロは、キリストの復活を詩編第16編の成就であると解き明かしました。さらに、キリストの昇天着座については、詩編第110編の成就であると語っています。また、そこで、詩編の作者であるダビデは「預言だった」と断言されています。このように、初代教会にとって、詩編はキリストを預言する書物であったのです。そのことは、イエスさまにとって、詩編が御自分について預言する書物であったことを意味しています。詩編第22編や第69編が、十字架につけられたイエスさまのお姿を彷彿させるのはそのためであるわけです。ここでもそうでありまして、イエスさまは、詩編第78編24節の「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」という預言が、御自分において実現しているとお語りになっているのです。35節で、イエスさまが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と仰せになっているように、イエスさまこそ、父がお与えになる天からのまことのパンであり、天から降って来て、世に命を与える神のパンであるのです。そのイエスさまを目の当たりにしながら、群衆は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願うわけですから、これは、彼らがイエスさまというお方をまったく理解していなかったことを表しています。ここでのイエスさまと群衆との会話のズレは、第4章に記されていたイエスさまとサマリアの女との対話にも見ることができます。第4章15節にこう記されておりました。「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください』」。ここで、イエスさまは、永遠の命に至る水である聖霊のことをお語りになっているのに対して、サマリアの女は、喉を潤す水を求めたのありました。今朝の御言葉もそうでありまして、イエスさまが、世に永遠の命を与える御自分について語っておられるのに対して、群衆は腹を満たす、パンを求めているのです。イエスさまと群衆の間に、なぜ、このような会話のズレが生じているのか。それは、イエスさまが26節で言われたように、群衆がイエスさまを捜している動機が、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。14節に、「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」とありましたけども、それは満腹した満足感から出てきた言葉でありまして、大変底の浅い言葉でありました。群衆は、またお腹が減ればパンを求め、自分たちの食欲が満たされないならば、イエスさまを世に来られる預言者であると認めようとはしないのです。それは結局、自分たちの利益に適う限りにおいて信じるという自己中心的な信仰なのです。それゆえ、イエスさまは、「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と仰せになるのです。

2.父がわたしにお与えになる人

 36節、37節をお読みいたします。

 「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」

 私たちは、聖書を自分に対して語りかける生ける神の言葉として読み、また聞くのでありますが、36節の、「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」というイエスさまの御言葉は、自分に対する御言葉としてはおそらく読まないのではないかと思います。むしろ、私たちは続く37節のイエスさまの御言葉を自分に対する御言葉として読み、大きな慰めを得ているのではないかと思うのです。36節は、ガリラヤの群衆に言われた言葉であって、自分とは関係のない言葉として読み飛ばしてしまう。そういう読み方をおそらく私たちは無意識のうちにしているのではないかと思います。けれども、わたしは、それでよいのだろうかと思うのです。群衆たちに見られる、自分たちの利益に適う限りにおいて信じるという自己中心的な信仰は、彼らに特有なものではなく、すべての人に共通の信仰であると言えるからです。ですから、36節の「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」というイエスさまの御言葉は、彼らだけではなくて、すべての人に当てはまる御言葉であると言えるのです。そう聞きますと、当然、次のような疑問がわいてくると思います。それは、「では、なぜ、今、私たちはイエスさまを信じて、このように礼拝をささげているのか」という疑問です。私たちはその答えを、29節のイエスさまの御言葉の内に見ることができます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。このイエスさまの御言葉は、「神がお遣わしになった者を信じること、それこそ神が求められる唯一の業である」という意味でありました。そして同時に、「神がお遣わしになった者を信じること、それは神が私たちの内に実現してくださる業である」という意味も持っているのです。そのことをイエスさまは、37節で、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」と言われているのです。この福音書のプロローグ、第1章10節に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と記されておりました。そういう世にあって、言であり、命のパンであるイエス・キリストのところに来るとすれば、それは「御父がイエスさまにお与えになる人々」としか言えないのです。すなわち、今、イエス・キリストを信じて礼拝をささげている私たちは皆、御父がイエスさまにお与えになった者たちであるのです。私たちは自分たちのことをクリスチャン、キリスト者と呼びます。クリスチャン、キリスト者とは、「キリストのもの」という意味です。私たちは自分自身のものではない、キリストのものである。これをハイデルベルク信仰問答は、「生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めである」と告白しています。ところで、私たちはどのようにして、キリストのものとなったのでしょうか。それは、父なる神が御子イエス・キリストにお与えになるという仕方によってであります。エフェソの信徒への手紙の御言葉を用いるならば、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びにな」られたがゆえに、私たちはイエス・キリストのところに来ることができた。イエス・キリストを信じることができたのです。

 続けてイエスさまは、「わたしのところに来る人を、わたしは決して追い出さない」と仰せになりました。イエスさまは御自分のもとに来る人を、決して追い出されません。イエスさまは、その人を無条件で、受け入れてくださるのです。なぜなら、その人は、御父からイエスさまに与えられた者であるからです。それゆえ、イエスさまは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われるのです。このイエスさまの御言葉を読むとき、私たちは、自分の本当の居場所が、このお方のもとであることが分かります。イエスさまの「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という御言葉を読んで、心からホッとするわけですね。イエスさまが、わたしを父から与えられた者として大切にしてくださることを知って、深い平安を覚えるのです。しかし他方、このイエスさまの御言葉は私たちに、深い反省を促す言葉ではないかとも思うのです。それは、私たちの教会が、このイエスさまのお心をそのまま映し出す群れとなっているかどうか、ということです。イエスさまは、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と仰せになりましたけども、私たちが追い出してしまっていることはないだろうか、そのような反省を促されるのです。もし、そうであれば、私たちは教会の頭であり、私たちの主であるイエス・キリストが、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と仰せになったことをしっかりと胸に刻まなくてはいけないと思うのです。

3.お遣わしになった方の御心

 38節、39節をお読みいたします。

 「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」

 イエスさまは、御自分を遣わされた御父の御心を行うために来られたことをお語りになりました。そして、御自分を遣わされた御父の御心が、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであること」を明言されたのです。このイエスさまの御言葉を正しく理解するために、ここで旧約聖書のイザヤ書第53章の御言葉を読んでおきたいと思います。イザヤ書の第53章11節、12節をお読みいたします。

 彼は自らの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 イエスさまは、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」と仰せになりましたが、それはイザヤ書によれば、イエスさまが、主の僕として、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負ったからであるのです。それゆえ、神は多くの人をイエスさまの取り分とし、イエスさまは戦利品としておびただしい人を受けるのです。イエスさまが、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われるとき、それは軽い、薄っぺらな言葉ではありません。イエスさまは、御自分のもとに来る人のために、十字架に上げられる覚悟をもって、「わたしは決して追い出さない」と言われるのです。また、イエスさまが御自分を遣わされた御父の御心についてお語りになるときも、そうであります。その御心には、イエスさまに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させるために、愛する御子を十字架に上げることが含まれているのです。このように見てきますと、御父と御子イエスがどれほど私たちを愛してくださっているかが分かるのです。

むすび.命のパンへの招き

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 40節をお読みいたします。   

 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 イエスさまは、自分は御父の御心を行うために天から降ってきたと仰せになりましたが、この御父の御心に、イエスさまが「わたしが命のパンである」と言われた理由がよく言い表されております。なぜ、イエスさまは「わたしこそが、命のパンである」と仰せになったのか。それは、子を見て信じる者に、永遠の命を与えることができるからであります。イエスさまは、御父の御心に従って十字架に上げられることにより、罪と死の力に輝かしい勝利をおさめてくださいました。それゆえに、イエスさまは御自分を信じる者たち、御父から御自分に与えられた者たちに、神さまとの永遠の交わり、永遠の命を与えることができるのです。私たちは、イエスさまを通して、神さまを父と呼び、親しく礼拝しておりますけども、そのようにして、私たちは、命のパンであるイエスさまにあずかっているのです。そして、その永遠の命は、イエスさまが、終わりの日に私たちを復活させてくださることによって、完成されるのです。イエスさまが、「わたしが命のパンである」と言われるとき、それはこの地上を生かす命だけのことを言っておられるのではありません。死に勝利する命、よみがえりの命のことを言っておられるのです。イエスさまは、御自分を信じる者たちを終わりの日に復活させるお方として、「わたしが命のパンである」と断言されるのです。そして、その保証として、イエスさまは、十字架の死から三日目によみがえられたのであります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。このイエスさまの御言葉は、主の日の礼拝ごとに、すべての人に向けて今も語られている、力強い招きの言葉であるのです。その招きに私たちはこれからも喜んで従っていきたいと願います。たとえ今、信仰に弱さを覚えていたとしても、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」というイエスさまの御言葉に支えられて、信仰の旅路を御一緒に歩んでいきたいと願います。

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