湖の上を歩くイエス 2009年9月06日(日曜 朝の礼拝)

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湖の上を歩くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章16節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
6:20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。ヨハネによる福音書 6章16節~21節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 前回お話しした最後の15節に、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とありました。イエスさまが、五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人々を満腹にしたというしるしを見て、人々はイエスさまを自分たちの王として担ぎ出そうとしました。しかし、イエスさまはそれを知って、山へ逃れられたのです。今朝の御言葉はその続きであります。

1.弟子たちだけの出発 

 16節、17節をお読みいたします。

 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。

 夕方になると弟子たちは湖畔へ下りて行ったのでありますが、これはイエスさまと弟子たちの間で、前もって決めていたことのようです。イエスさまがひとりでまた山に退かれた後、弟子たちもイエスさまの後を追って山に登った。そして、イエスさまから、これからどうすればよいかが弟子たちに告げられたと考えることができます。人々は、イエスさまのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と熱狂し、イエスさまを自分たちの王にするために力ずくでも連れて行こうとしておりました。この熱狂的な群衆の手をどのようにして逃れることができるか。イエスさまは、まず弟子たちに薄暗い夕方になったら湖畔へ下りて行くようにと命じ、闇が覆う夜に、舟に乗り、向こう岸のカファルナウムへ出発するようにと命じられたのです。闇が覆う夜に、弟子たちに舟で出発するようにと命じられたのには、おもに2つの理由があったと思います。一つは、夜になれば、群衆の熱も冷めて解散し、それぞれ家路に着くだろうという考えたこと。そして、もう一つは、闇に遮られて人目に付きにくいということです。ちなみに、このとき、弟子たちが出発した場所ですが、ルカによる福音書によれば、五千人養いの奇跡は、ベトサイダで行われておりますので、ベトサイダから出発したと考えることができます。巻末の聖書地図「6 新約時代のパレスチナ」に記されているように、ベトサイダもカファルナウムも、ガリラヤ湖の北に位置する町であります。ガリラヤ湖は、最大で東西12キロメートルの湖であると言われますが、ベトサイダからカファルナウムまでは、6キロメートルほどであったと言われています。弟子たちは、ガリラヤ湖の北側の比較的短い距離を舟で渡ろうとしていたのです。

 先程は、イエスさまの立場から、どのようにして熱狂的な群衆の手を逃れることができるかということを申しましたが、逆に群衆の立場に立って、考えてみたいと思います。

 イエスさまを何とか自分たちの王としたい。しかし、イエスさまは山へ登って行ってしまいました。そのイエスさまを捕まえるにはどうすればよいか。まず考えられることは、イエスさまと弟子たちが乗ってきた舟で待ち伏せるということです。イエスさまが、いつまでも山にいるとは考えられませんから、向こう岸に戻るために舟に乗り込むときに、イエスさまを捕まえればよいと言うわけです。しかし、夕方になって、湖畔へ下りて来たのは弟子たちだけでありました。そして、夜になって舟を漕ぎ出したのも弟子たちだけであったのです。そのことに気づいた人もいたようでありますけども、そのままにさせたのは、その舟の中にイエスさまがおられず、弟子たちだけであったからです。そうすると、今度は陸路、湖畔を押さえておけば、イエスさまを逃すことはないわけですね。今朝は読みませんでしたけども、22節にこう記されています。「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた」。ここで言われていることは、一そうの小舟でイエスさまと弟子たちが渡ってきたのだが、その一そうの小舟で弟子たちだけが出かけたということです。つまり、もう舟はなかったのです。ということは、イエスさまが舟に乗って湖を渡ることはないということであります。そうすると、群衆はますます陸路である湖畔に人を待機させてイエスさまを捕らえようとしていたはずであります。しかし、イエスさまは思いもよらない仕方で群衆の手を逃れられるわけです。

2.荒れ狂う湖

 18節、19節をお読みいたします。

 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。

 ガリラヤの湖は、普段は穏やかな美しい湖でありますが、時として深い谷から吹き下ろす強風のために天候が急変することで有名でありました。この時もそうでありまして、夜、弟子たちがカファルナウムに向けて出発したときは、湖は穏やかであったのでしょうけども、その途上において、強い風が吹き、湖は荒れ始めたのです。すなわち、弟子たちは、このとき死の危険、滅びの危険に直面していたのです。聖書を読みますと、海は人間の力を越えた、恐怖の対象としてしばしば描かれています。もし、舟が転覆してしまうようなことがあれば、彼らは溺れ死んでしまう。海とは、人間の力を越えた混沌とした力が働いている場所、死と滅びへと通じる場所であったのです。新約聖書のヨハネの黙示録の第21章に、「新しい天と新しい地」の幻が記されていますが、そこに、「もはや海もなくなった」と記されています。それは海が、混沌とした力が働く場所、死や滅びへと通じる場所と考えられていたからなのです。強い風が吹いて、荒れ狂う湖を、弟子たちは懸命に漕ぎ進んだようです。「二十五スタディオンないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ」とありますが、聖書巻末の度量衡によれば、一スタディオンは約185メートルにあたります。ですから、舟は4キロメートルから5キロメートルほど漕ぎ進んでいたことになります。そして、その弟子たちの舟に、荒れ狂う湖の上をイエスさまが歩いて近づいて来られたのです。舟を翻弄し、弟子たちを飲み込もうとする荒波を踏み砕くようにして、イエスさまが舟に近づいて来られるのです。そのイエスさまのお姿を見て、弟子たちはどうしたでしょうか。彼らは喜んだでしょうか。そうではありません。彼らはむしろ恐れたのです。先程も申しましたように、海は、人間の手に負えない混沌とした力が猛威を振るう場所であります。その荒波の上をイエスさまが歩いて来られる。その光景を見て、弟子たちは恐れた。そのお姿に人間を越えた存在、神その方を見たからです。旧約聖書のヨブ記の第9章8節に、「神は自らの天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」という御言葉があります。「神は自らの天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」。まさに、このときのイエスさまのお姿はそのようなお姿であったのです。イエスさまが、湖の上を歩かれるというとき、私たちが思い描くのは、穏やかな水面の上を、優雅に歩まれるイエスさまのお姿かも知れません。けれども、そうではないのです。舟を飲み込もうとする荒波、その荒波を踏み砕くように近づいて来られるイエスさまのお姿は、まことに荒々しい、力強いお姿なのです。そして、そのようなことができるお方は、まさしく神さましかおられない。それゆえ、弟子たちは恐れずにはおれなかったのであります。

3.わたしはある

 20節、21節をお読みいたします。

 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

 恐れる弟子たちに、イエスさまは、「わたしだ。恐れることはない」と仰せになりました。この「わたしだ」と訳されている言葉は、「わたしである」とも訳すことができます。元ギリシア語は、エゴー・エイミーという言葉です。英語で言えば、アイ・アムとなります。なぜ、ギリシャ語や英語をここで持ち出したのかと言うと、「わたしだ」「わたしである」というイエスさまの御言葉は、その昔、神さまがモーセに知らせた御自身の名前と重なるものであるからです。旧約聖書の出エジプト記の第3章は、モーセの召命について記しておりますが、その7節から14節までをお読みいたします。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプトの手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、父と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ導き上る。

 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有り様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出さねばならないのですか。」

 神は言われた。「わたしは必ずあなた共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

 モーセは神に尋ねた。「わたしは今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わしたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 少し長く読みましたが、このモーセに示された「わたしはある」という神さまのお名前と、イエスさまが弟子たちに言われた「わたしだ」という御言葉が重なって響いてくるように、ヨハネによる福音書は記しているのです。すなわち、海の高波を踏み砕かれるイエスさまこそ、「わたしはある」と言われる主なる神その方なのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 弟子たちは、海の高波を踏み砕かれるイエスさまのお姿に、神の御力を見ました。そして、さらにイエスさまの口から、「わたしはある」ということを告げられたのです。そうであれば、これはもう恐れるしかないわけです。人間が生ける神の前に立つとき、当然抱く感情は恐れであります。しかし、イエスさまは「恐れることはない」と仰せになりました。なぜなら、イエスさまが荒波を踏み砕くようにようにして弟子たちに近づいて来られたのは、彼らを飲み込もうとしていた死と滅びの力から彼らを救うためであったからです。弟子たちは、荒れ狂う湖での危機的状況においてこそ、本当のイエスさまのお姿、海の高波を踏み砕かれ、「わたしはある」と仰せになる神の御子としてのイエスさまにお会いすることができたのです。イエスさまは、死と滅びの中にある弟子たちにこそ、御自分が神の御子であることを決定的な仕方で示されたのであります。

 21節に、「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とありますけども、ここでは、イエスさまが舟に乗り込まれたのかどうかがはっきりと記されておりません。なぜ、福音書記者ヨハネは、弟子たちが舟にイエスさまを迎え入れたとはっきり記さなかったのでしょうか。それはおそらく、この弟子たちの舟に、再び天から来られるイエスさまを待ち望む自分たちの教会を重ねたからだと思います。ヨハネの教会、いやヨハネの教会だけでなく代々の教会は、「主イエスよ、来たりませ」と祈り、イエスさまを迎え入れたいと祈り求めて参りました。しかし、ヨハネの教会を始め私たちの教会は、イエスさまをまだ迎え入れてはおりません。もちろん、イエスさまは御言葉と聖霊において私たちと共にいてくださいます。その意味で、「わたしだ。恐れることはない」というイエスさまの御言葉は、「わたしはあなたと共にいる。恐れることはない」と読むことができます。しかし、私たちは、目に見える仕方で、イエスさまを迎え入れているわけではないのです。そのことを前提とした上で、福音書記者ヨハネはこう記すのです。「彼らはイエスを迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。このことは、私たちに何を教えているのでしょうか。それは、イエスさまを迎え入れようとする信仰に生きるとき、私たちは必ず目指す地に到達するということです。イエスさまを、海の高波を踏み砕くお方、「わたしはある」と言われる神その方として迎え入れる信仰に生きるとき、私たちは死と滅びから救われ、必ず目指す地へ到達するのです。では、私たちが目指す地とはいったいどこでしょうか。それは究極的に言えば、イエスさまがおられる天の国であります。イエスさまを神の御子と信じるとき、私たちは強い風と荒波から救われ、必ず天の国へ入ることができるのです。

むすび.目指す地へ

 いつかは分かりませんけども、イエスさまは、必ず天から再びこの地上の来てくださいます。御使いを引き連れて雲に乗る、栄光の主としてイエスさまは来てくださいます。そのような栄光のイエスさまのお姿を見て、私たちも恐れを抱くかも知れません。けれども、そのような私たちに、イエスさまは、「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるのです。なぜなら、すべての人の裁き主として来られるイエス・キリストこそ、私たちを救うために十字架の上で死に、そして三日目に復活されたお方であるからです。そのイエスさまとまみえるとき、私たちは自分が、目指す地に立っていることに気づくのであります。

 今朝は最後に、その私たちの目指す地である新しい天と新しい地についての記述を読んで終わりたいと思います。ヨハネの黙示録第21章1節から4節までをお読みいたします。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 この新天新地の祝福を思い描きながら、私たちはこれから聖餐の恵みにあずかりたいと願います。

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