五千人を満腹させたイエス 2009年8月30日(日曜 朝の礼拝)

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五千人を満腹させたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。ヨハネによる福音書 6章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 ヨハネによる福音書の特徴は、一つのお話しが長い、まとまりが大きいということです。例えば、第5章は、イエスさまがベトザタの池で病人を癒されたしるしと、それに続くイエスさまの教えで終わっております。イエスさまがしるしをなされて、それに続いてイエスさまの教えが語られることも、ヨハネによる福音書の特徴であります。この特徴は、今朝から学び始める第6章にも見ることができます。第6章全体が一つのまとまりであり、イエスさまがなされた「五千人に食べ物を与える」というしるしに続けて、イエスさまの教えが長々と語られるのです。そのようなことを踏まえた上で、今朝は第6章1節から15節までを御一緒に学びたいと願います。

   

1.過越祭が近づいていた

 1節から4節までをお読みいたします。

 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

 この1節から4節までは、これから起こる出来事が、どのような状況で行われたかを記しています。第5章のお話しの舞台は、ユダヤのエルサレムでありましたが、第6章のお話しの舞台は、ガリラヤへと移っております。どのくらいの月日が経ったかは分かりませんが、その後、イエスさまはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られました。巻末の聖書地図にある「6 新約時代のパレスチナ」を御覧いただくと、ガリラヤ湖西岸に「ティベリアス」という町があります。ティベリアスは、ガリラヤの領主ヘロデがローマ帝国に敬意を表して建設し、皇帝ティベリウスの名にちなんで名付けた町でありました。ティベリアスはガリラヤの首都とされ、湖もこの名前で呼ばれるようになっていたのです。ティベリアス子の向こう岸に渡られたイエスさまを、大勢の群衆は陸路で、湖畔を歩いて追いかけました。彼らは、イエスさまが病人たちになさった癒しの御業を見て、それぞれの期待を胸にイエスさまの後を追いかけたのです。

 ここではどうやら、イエスさまたちの方が、早く到着したと考えられます。3節に、「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」とありますが、これはマタイによる福音書の第5章から第7章までに記されている山上の説教が語り出されるのと同じ構図であります。このときも群衆が来るまでは、イエスさまは山で弟子たちを教えておられたのかも知れません。そして、この山は、私たちにモーセが十戒を授かったシナイ山を連想させるのです。少なくとも、それが福音書記者ヨハネの意図するところでありました。なぜなら、ヨハネは続けて、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」と記しているからです。過越祭は、ユダヤの最も盛大なお祭りで、その昔、主なる神がモーセを指導者として、イスラエルを奴隷の国エジプトから導き出したことを祝うお祭りでありました(出エジプト記第12章)。その過越祭が近づいていたということは、このときは、3月か4月の春であったことになります。10節に、「そこには草がたくさん生えていた」という記述は、草花が萌え出ている春の風景を描いているわけです。しかし、この「過越祭が近づいていた」という言及は、この出来事の起こった季節を確定するためというよりも、これからイエスさまがなさる「五千人に食べ物を与える」という御業の背景として言及されているのです。主なる神が、モーセを指導者として、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出し、40年もの間、荒れ野で天からのパンであるマンナをもって養われた。その主の御業を思い起こしながら、これからイエスさまがなされる御業を理解するようにと、福音書記者ヨハネは私たちを導いているのです。また、後を追って来た大勢の群衆も、過越祭が近づいていたゆえに、これからなされるイエスさまの御業を、かつて主がモーセを通してなされた出来事と結びつけやすかったのだと思います。

2.どこでパンを買えばよいか

 5節から9節までをお読みいたします。

 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめい少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 山に登り、弟子たちと一緒に座っておられたイエスさまのもとに、大勢の群衆がやって来ました。その群衆を見て、イエスさまは、弟子の一人であるフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われたのです。しかしこれは、イエスさまが、真剣に、どこで買えばよいだろうかとフィリポに尋ねておられるのではありません。といいますのも、6節に、「こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」からであるからです。フィリポが何と答えるか、イエスさまはフィリポを試されたのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。このイエスさまの問いに対して、フィリポは大変現実的な答えをしています。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。一デナリオンは、一日分の労働賃金にあたると言われますから、二百デナリオンは、二百日分の労働賃金にあたります。およそ八か月分の労働賃金をつぎ込んで、パンを買ったとしても、めいめいが少しずつ食べるにも足りないと、フィリポは答えるのです。このフィリポの答えは、イエスさまたちが二百デナリオンもの大金を持っていたということではありません。ここで、フィリポが言いたいことは、「この人たちを食べさせるためのパンを買うことなど不可能です」と言うことです。「二百デナリオンもの大金があるわけでもないし、あったとしても、そのような大量なパンを売っているところなどありません」。それがここで、フィリポが言わんとしていることであります。

 また、弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレも、イエスさまの問いを聞いていたのでしょう。アンデレはイエスさまにこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。イエスさまの「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」との問いを受けて、フィリポが群衆の数を見積もり、計算して二百デナリオン分のパンでも足りないとの答えを出したのに対して、アンデレは、群衆の中でだれか食料を持っている者はいないかと探し求めたようです。しかし、アンデレが見出したのは、大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年だけでありました。もしかしたら、他にも食料を持っていた人がいたかもしれませんけども、アンデレの呼びかけに答えて、イエスさまに自分の食料を差し出したのは、この少年だけであったのです。しかし、続くアンデレの言葉は、否定的なものでありました。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。アンデレは、買い求めることができないなら、それぞれが持っているものを出し合ってわけたらよいではないかと考えたようでありますけども、それが大麦のパン五つと魚二匹であっては、何の役にも立たないと結論するのです。しかし、イエスさまは、その五つのパンと二匹の魚を用いて、驚くべき奇跡をなされるのです。

3.パンを与えるイエス

 10節から13節までをお読みいたします。

 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンくずで、十二の籠がいっぱいになった。

 イエスさまは、弟子たちに「人々を座らせない」と言われ、男たちはそこに座ったのでありますが、ここで「座る」と訳されている言葉は、「横になる」とも訳すことができます。前にも申し上げたことがありますが、ユダヤでは寝そべって、肩肘をついて、上半身を起こして食べるのが正式の食べ方でありました。イエスさまは、弟子たちを通して、人々にそのような姿勢を取ることを命じられたわけです。弟子たちは、これから何が起こるのか分からないまま人々を座らせたのではありません。また、人々もこれから何が起こるのか分からないまま座ったのでもありません。イエスさまは、弟子たちに、人々に食事を取る姿勢を取るように命じなさいと言われ、人々は、弟子たちの言葉に従って食事を取る姿勢を取ったのです。その数はおよそ五千人であったとありますが、そのような大勢の人たちを食べさせることができるのだろうか。弟子たちと人々の視線は自ずとイエスさまへと集まっていたと思います。そのような中で、イエスさまは、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々にわけ与えられたのです。また、魚も同じように、欲しいだけ分け与えられたのでありました。少年がイエスさまに差し出したのは、大麦のパン五つと魚二匹ですから、これだけでは、10人の食欲すら満たすことはできないと思われるのですが、イエスさまが取り、感謝の祈りを唱えて、分け与えられるとき、それはすべての人々、すなわち五千人もの人々に欲しいだけ分け与え、満腹させることができたのです。ここでは、明らかにパンと魚が増えています。イエスさまがパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えて、分け与えられたとき、そのパンと魚は五千人もの人々の胃袋を満たすほどに増えたのです。パンがイエスさまの手の中で増えたことは、「残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」という記述からも分かります。イエスさまが祝福して、人々に食べ物を与えてくださるということ。それは、このしるしが、今朝、私たちに教えてくれる真理であります。私たちは、食べ物がなくては生きていくことができません。当たり前だと思われるかも知れませんが、このことは私たちが忘れやすいことではないかと思います。私たちが生きていくことができるのは、神さまが日ごとの糧を与えてくださっているからなのです。そのことを覚えて、私たちは食事の前に、神さまに感謝の祈りをささげるのです。そして、今朝の御言葉を重ねて考えるならば、私たちの日ごとの食事も、イエス・キリストの御手からいただいているものであることが分かるのです。この日本に、いったいどれだけの人がいるでしょうか。また、この世界にいったいどれだけの人がいるでしょうか。その何億、何十億と言われる人々に、食事を与えてくださるのは誰でしょうか。それはイエス・キリストなのであります。こう聞いて、いや、食事を満足に得ることができず、飢えている人がいるではないかと言われるかも知れません。確かに、この世界にはいまだに多くの餓死している人がおります。日本国際飢餓対策機構の発行しているニュースによれば、「一分間に17人(うち12人が子ども)、一日に2万5千人、一年間では約1000万人が飢えのために生命を失っている」とのことです。それが罪の支配する世の現実であります。けれども、私たちは、イエス・キリストの恵みは、すべての人々を満たすほどに豊かであることを信じたいと思うのです。そのことを信じて、私たちが与えられている恵みを、パン五つと魚二匹を差し出した少年のように、主の御用のために差し出したいと願うのです。

4.世に来られる預言者

 14節、15節をお読みいたします。

 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 イエスさまの、「五千人に食べ物を与える」というしるしは、その昔、イスラエルの民が経験した、荒れ野で、天からのパン、マンナを食べたという出来事に匹敵するものと、人々の目には映ったようです。それゆえ、人々は、イエスさまのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったのであります。「まさにこの人こそ、世に来られるはずの預言者である」。この人々の言葉は、旧約聖書の申命記第18章に記されている「モーセのような預言者を立てる約束」を前提としています。彼らは、「五千人もの人々に食べ物を与え、満腹させることができるイエスさまこそ、世に来られるはずのモーセのような預言者である」と言ったのです。そして、イエスさまを自分たちの王にしようと力ずくで連れて行こうとしたのでありました。しかし、イエスさまはそれを知って、ひとりでまた山に退かれるのです。イエスさまが、モーセのような預言者であること。このことは、使徒言行録の第3章で、ペトロが説教の中で語っていることでありますし、間違いではありません。確かに、イエスさまこそ、世にこられる預言者なのです。しかし、人々は、そのイエスさまを自分たちの都合のよい王として担ぎ出そうとしたのです。すなわち、自分たちの日々の食事を保証する王として祭り上げようとしたのです。そのような彼らの手からイエスさまは逃れられる。そのようにして彼らの願いを拒絶されたのです。なぜなら、旧約聖書が約束していたモーセのような預言者とは、彼らにパンを与え、彼らの食事を確保する者ではなくて、主の名によって、主の言葉をことごとく語る者であるからです。私たちがイエスさまを信じるというとき、それは私たちの願望を投影して、イエスさまを信じるのではだめなのです。聖書が証しするところのイエス・キリスト、十字架と復活によって、私たちを罪と死の支配から贖い出してくださったイエス・キリストを信じなくてはならないのです。そして、その信仰を与えてくださるのは、他ならないイエス・キリストなのです。イエスさまが、五千人もの人々にパンを分け与えられたように、イエス・キリストを信じる信仰も、イエスさまから与えられるものなのです。

むすび.イエスは神、その方

 今朝の御言葉の「五千人に食べ物を与える」というイエスさまのしるしの意味は、22節以下で、イエスさま御自身によって解き明かされるのでありますが、その32節にこう記されています。

 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのパンをあなた方にお与えになる。」

 ここで、イエスさまは、モーセが天からのパンを与えたのではなくて、わたしの天の父がパンを与えたのだと仰せになりました。このイエスさまの御言葉に照らし合わせて、今朝の御言葉を読むならば、パンをとり、感謝の祈りを唱え、五千人もの人々に分け与えられたイエスさまは、モーセというよりも、むしろ神その方、神の御子であられるのです。確かに、イエスさまは、モーセのような預言者でありますけども、モーセを超えた、モーセ以上のお方であられるのです。なぜなら、この方こそ、大地の実りを祝福し、すべての人々に食べ物を与えてくださる神の独り子であられるからです。

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