神からの誉れ 2009年8月23日(日曜 朝の礼拝)

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神からの誉れ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章41節~47節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。
5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
5:44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
5:45 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。
5:46 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。
5:47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」ヨハネによる福音書 5章41節~47節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ヨハネによる福音書第5章31節から47節までをお読みいただきましたが、今朝は41節から47節までを中心にしてお話しをいたします。

 今朝の御言葉である41節以下をお話しする前に、前回お話しした31節から40節までを簡単に振り返っておきたいと思います。イエスさまは31節で、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」と仰せになりました。ここでイエスさまは、「自分についての証しは真実とは見なされない」というユダヤ社会のしきたりを踏まえて、自分とは別に証しをなさる方として御父についてお語りになりました。イエスさまが命を与え、裁きを行われる御子であることを証しできる方は、その権能をお授けになり、遣わされた御父を他にしてはいないのです。けれども、ユダヤ人たちは御父と言っても信じませんから、イエスさまは、彼らが人を遣わした洗礼者ヨハネについてお語りになりました。また、イエスさまは、ヨハネの証しにまさる証しとして、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」と仰せになりました。また、イエスさまは、「わたしをお遣わしになった父が旧約聖書を通して、わたしについて証ししてくださっている」とお語りになりました。御父は、洗礼者ヨハネを通して、またイエスさまに成し遂げるようにお与えになった業を通して、さらには旧約聖書を通して、イエスさまについて証しをされているのです。

 37節に、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とありますが、ここでの「証しをしてくださる」は、元の言葉を見ると、完了形で記されています。完了形は、過去に起こったことが、今も効力を持ち続けていることを表しますから、御父は、聖書を通して、今もイエスさまについて証しをしておられるわけです。イエスさまが39節でいう「聖書」は、47節で「モーセの書いたこと」と言われている旧約聖書のことですが、現在の私たちが、37節また39節を読むとき、旧約聖書と新約聖書からなる一冊の聖書を指すと読んだらよいと思います。イエスさまをお遣わしになった御父は、旧約聖書と新約聖書からなる一冊の聖書を通して、今もイエスさまについて証しをしておられるのです。そして、そのように読むとき、洗礼者ヨハネの証しも、イエスさまが行ったもろもろの業も、私たちにとってなお有効な証しであることが分かるのです。

 さて、私たちが用いております新共同訳聖書は、31節から47節までを一つのまとまりとして区分し、「イエスについての証し」という小見出しをつけております。しかし、ある人は、この小見出しは、31節から40節までにはふさわしいが、41節以下にはそぐわないと言っております。その人は、41節以下には、「ユダヤ人たちがイエスについての証しを受け入れない理由」が記されていると言うのです。わたしはそれを読んでなるほどと思いました。イエスさまは、31節から40節までで、御自分を遣わされた御父が、洗礼者ヨハネを通して、御自分に成し遂げるように与えになった業を通して、さらには旧約聖書を通して、証ししてくださっているとお語りになりました。しかし、その御父の証しをユダヤ人たちは受け入れたでしょうか。ユダヤ人たちは、ヨハネのもとに人を遣わし、そのともし火の光のもとで喜び楽しもうとしましたけども、御父がヨハネを通してなされた証しを受け入れませんでした。ヨハネが、「この方こそ神の子である」と証ししたにも関わらず、ユダヤ人たちは、イエスさまを神を冒涜する者として殺そうと狙うようになったのです。また、ユダヤ人たちは、御父がイエスさまに成し遂げるようにお与えになった業を通しての証しも受け入れませんでした。このもろもろの業の内には、ベトザタの池で病人を癒したことも含まれるわけですが、彼らの関心はそれが安息日に行われたことだけに払われ、むしろ安息日に癒しの業をするイエスさまを迫害し始めたのです。また、ユダヤ人たちは、御父が旧約聖書を通してなされている証しも受け入れませんでした。彼らは聖書を熱心に研究しておりますが、聖書が証しし、永遠の命を持っておられるイエスさまのもとへ来ようとしないのです。なぜ、ユダヤ人たちは、御父のイエスさまについての証しをことごとく受け入れないのか。その根底にあるものを、イエスさまは41節以下で教えてくださったいるのです。

 41節から43節の前半までお読みいたします。

 「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。」

 イエスさまは、「わたしは人からの誉れは受けない」と仰せになりました。ここで「誉れ」と訳されている言葉は、「栄光」とも訳される言葉であります。「わたしは人からの栄光は受けない」とイエスさまは言われたのです。このイエスさまの御言葉は、どこか唐突な印象を受けますが、イエスさまは人からの誉れを求めて、これらのことを言っているのではないとはっきり断っているわけです。例えば、イエスさまは39節、40節で、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と非難されましたが、イエスさまは、人から誉れを求めて、わたしのところへ来るようにと言っているのではないのです。これまで、イエスさまは御父がなされる御自分についての証しを語ってこられたのですが、それはイエスさまが人から誉れを受けたい、ちやほやされたいという思いによるものではありませんでした。むしろ、イエスさまはユダヤ人たちが救われるために、また彼らが命を得るために、御父がなされている御自分についての証しを語ってこられたのです。しかし、ユダヤ人たちは御父の証しを受け入れず、イエスさまのもとへと来ようとはしませんでした。その根本的な原因を、イエスさまは42節で、「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」と仰せになるのです。ユダヤ人たちは、神の言葉である聖書を熱心に研究しておりました。モーセを通して与えられた律法に従って生活を営んでおりました。そうであれば、彼らこそ、神さまを愛している人々のように思われるのですが、イエスさまは、「あなたたちの内には神への愛がないことをわたしは知っている」と言われるのです。なぜなら、「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない」からだとイエスさまは仰せになるのです。あなたたちは、御父の名によって来たわたしを受け入れない。そのことは、あなたたちの内に御父への愛がないことの証拠であると、イエスさまは仰せになるのです。ユダヤ人たちは、聖書の中に永遠の命があると考えて熱心に研究しておりましたが、聖書の証しするイエス・キリストのもとへ来ようとはしませんでした。それは、彼らのうちに神への愛がなかったからです。神への愛なくして、神の言葉である聖書を研究しても正しく読み解くことはできないのです(イザヤ29:13を参照)。よく、聖書は神さまからのラブレター、愛の手紙であると言われます。しかし、聖書を神さまからのラブレター、愛の手紙として読むことができるのは、読む人の内に神さまへの愛があるからなのですね。誰かからラブレターをもらったとき、それをラブレターとして読むことができるのは、相手に少しでも好意を持っているからです。もし、相手に全く好意を持っていないと、それは気持ち悪い手紙となってしまうのです。聖書は、神さまの御言葉でありますから、神さまへの愛なくして、正しく読み解くことはできません。そして、ユダヤ人たちには、その神への愛がないと、イエスさまは指摘されたのです。

 43節後半から44節までをお読みいたします。

 「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」

 イエスさまは、「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない」とユダヤ人たちに言われましたが、そのユダヤ人たちも、「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、受け入れる」のです。互いに受け入れ、誉れを与え合うのです。「誉れを与える」とは簡単に言えば、「ほめる」ということです。あなたは立派な方だとほめる。すると、いやいやあなたこそ立派な方ですと、互いに誉れを与え合う。これはユダヤ人だけではなくて、私たちも日常の生活においてしていることであります。互いに誉れを与え合って、私たちは人間関係を築き、その人から与えられる誉れに支えられて生きているところがあるのです。しかし、ユダヤ人たちの問題点は、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしなかった」ことにあります。そして、ここにユダヤ人たちとイエスさまの違いが明らかにされているのです。イエスさまが、人からの誉れを受けず、唯一の神からの誉れを求めるのに対して、ユダヤ人たちは、互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないのです(17:1、5)。そのような正反対の心であるがゆえに、イエスさまはユダヤ人たちに、「どうして信じることができようか」と仰せになるのです。

 イエスさまは、ユダヤ人たちが父の名によって来たイエスさまを受け入れない理由として、神への愛がないからだとお語りになりました。そして、この「神への愛がないこと」と44節の「唯一の神からの誉れを求めようとしないこと」は、別々のことというよりも、むしろその帰結であるのです。ユダヤ人たちの内に神への愛がないからこそ、彼らは唯一の神からの誉れを求めようとしないのです。神への愛がないから、神からの誉れを求めない。それでは、彼らは神を愛するのではなくて、誰を愛していたのでしょうか。それは、自分自身であります。彼らは自分自身を愛していた。それゆえ、その自分に誉れを与える者たちを互いに受け入れ合ったのです。ここに描き出されるのは、聖書を研究しながら、神を抜きにしてしまっている世界です。そのような世界にユダヤ人たちが生きていることが、イエスさまの出現によって曝かれてしまったのです。彼らは、熱心に聖書を研究しておりました。ですから当然、自分たちは神さまを愛していると思っていたはずです。しかし、父の名によってイエスさまが来られたことによって、明かとなったことは、聖書を熱心に研究している彼らが、神への愛からではなくて、人からの誉れを受けるためにそうしていたということです。そして、このことをイエスさまは偽善であると非難されたわけです。マタイによる福音書の第23章に「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」というお話しが記されていますが、その1節から7節までをお読みいたします。マタイによる福音書第23章1節から7節までをお読みいたします。

 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」

 5節に、「そのすることは、すべて人に見せるためである」と記されているように、律法学者やファリサイ派の人々は、人からの誉れを求めて、モーセ律法を研究し、教えていたのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 45節から47節までをお読みいたします。

 「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 当時のユダヤ人たちは、モーセを神さまと自分たちとの間に立って執り成してくれる弁護者、仲介者と考えておりました。旧約聖書の出エジプト記の第32章に、主なる神によってエジプトから導き出されたイスラエルの民が、モーセの帰りを待ちきれずに、金の子牛を造って礼拝した罪が記されています。イスラエルの民は、シナイ山において主なる神と契約を結んだ直後に、偶像崇拝の罪を犯したのです。その出エジプト記の第32章7節から14節までをお読みいたします。

 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 このところに、主なる神とイスラエルとの間に立ち、執り成すモーセの姿が最もよく表されています。そして、イエスさまの時代のユダヤ人たちも、モーセが神さまと自分たちとの間に立って、執り成し、弁護してくれると信じていたのです。

 再び、ヨハネによる福音書に戻ります。

 しかし、イエスさまは、あなたたちが頼りにしているモーセこそが、あなたたちを父に訴えるのだと言われるのです。なぜなら、モーセは他でもないイエスさまについて書いているからです。エルサレムのユダヤ人たちは、自分たちはモーセの弟子であると自負し、モーセの座について民衆を教えていたのでありますが、イエスさまは、「モーセはわたしについて書いている」と仰せになるのです。ここでのモーセは、歴史的人物であると同時に、モーセが記したとされる律法、さらには旧約聖書を指しております。イエスさまは、39節で、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と仰せになりましたが、それと同じことをここで、「モーセは、わたしについて書いているからである」と言われているのです。「モーセは、わたしについて書いているからである」。このイエスさまの御言葉は、先程申しましたように、モーセの記した律法、さらには旧約聖書全体を指すと解釈できますが、具体的には申命記の第18章に記されている「預言者を立てる約束」を指していると考えることができます。申命記の第18章15節から19節までをお読みいたします。

 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。

 主なる神が御自分の名によって遣わされるモーセのような預言者こそ、イエス・キリストでありました(使徒3:22、23)。けれども、ユダヤ人たちは、父の名によって遣わされたイエスさまを信じないのです。それは、彼らがモーセが書いたことを信じていなかったからなのです。彼らは旧約聖書を信じていないために、イエスさまの語ることを信じることができないのです。

 三度、ヨハネによる福音書に戻ります。

 イエスさまは、今朝の御言葉である41節から47節までで、ユダヤ人たちが御父の証しを受け入れない理由を語られたのでありますが、そこには3つの理由が挙げられておりました。1つは、ユダヤ人たちの内に神への愛がないことであります。2つ目は、ユダヤ人たちが唯一の神からの誉れを求めようとしないことであります。3つ目は、ユダヤ人たちがモーセの書いたことを、つまり旧約聖書を信じていないことであります。この3つは、現代の多くの人々が、御父の証しを受け入れず、イエスさまを信じようとしない理由でもあります。そもそも、「ユダヤ人たち」とは、イエスさまを受け入れない世を代表する者たちでありまして、民族のことを言っているのではありません。イエスさまを信じない世の代表がユダヤ人たちなのです(1:10)。なぜ、多くの人々が、御父の証しを受け入れず、命を得るためにイエスさまのもとへと来ないのでしょうか。それは彼らの内に神への愛がなく、彼らが唯一の神からの誉れを求めず、聖書を信じていないからです。これが、まず私たちがはっきりと聞き取るべき、イエスさまの教えであります。しかし、今朝のお話がここで終わってしまうならば、それはイエス・キリストの福音とは言えません。私たちが今朝の御言葉で、しっかりと心に刻みつけたいのは、45節の「わたしが父に訴えるなどと、考えてはならない」というイエスさまの御言葉です。当時のユダヤ人たちは、モーセが主なる神と自分たちの間に立って、執り成し、弁護してくれると考えておりました。けれども、イエスさまは、そうではない。わたしこそが、父とあなたたちの間に立って、執り成し、弁護する者であるとお語りになるのです(ヘブライ人への手紙を参照)。イエスさまは、ユダヤ人たちに、あなたたちは、神への愛がない、あなたたちは唯一の神の誉れを求めようとしない、あなたたちは聖書を信じていないと、彼らの不信仰を断罪されたのではありません。それどころか、「わたしはあなたたちを父に訴えない」とイエスさまは言われるのです。ここに、「命を得るためにわたしのところへ来なさい」というイエスさまの招きがあるのであります。そして、イエスさまは、御自分のもとへ来る者たちに、神への愛を与え、唯一の神からの誉れを求める者とし、聖書を信じる者としてくださるのです。

 ここに集う多くの人々は、すでに自分の口で「イエスは主である」と言い表しているキリスト者でありますが、その私たちは今朝のイエスさまの御言葉をどのような思いで読むのでしょうか。父の名によって来られたイエスさまを信じているわたしには関係のない個所だと思って読むならば、それは大間違いであります。アダムにあって堕落し、生まれながらに罪のある私たちは、だれも自分の内に神への愛を持っていなかったのです。また、生まれながらに罪のある私たちは、誰も唯一の神からの誉れを求めようとはしなかったのです。また、生まれながら罪のある私たちは、誰も聖書を信じることができなかったのです。それでは、そのような私たちが、なぜ、今は、神を愛し、神からの誉れを求め、聖書を信じることができるのでしょうか。それは、私たちにイエス・キリストの御霊である聖霊が与えられているからであります。私たちはイエス・キリストの聖霊によって、神を愛し、神からの誉れを求め、聖書を信じる者とされているのです。しかし、そのような者とされておりながら、神への愛を失っているときがある。神からの誉れよりも人からの誉れを求めることがある。聖書の御言葉よりも、人の声、自分の声を真実であると信じ込むときがあるのです。ですから、イエスさまは、主の日の礼拝ごとに、私たちを御もとへと招いてくださるのであります。復活されたイエスさまは、主の日の礼拝を通して、神を愛し、唯一の神からの誉れを求め、聖書を信じて生きよと、私たち一人一人の生活を整え、導いてくださるのです。

 私たちは今朝、礼拝こそ、神への愛の最高の表現であり、礼拝においてこそ、人は神からの誉れにあずかることができることを覚えたいと思います。私たちが、イエス・キリストに神の子とされ、神を誉めたたえる者とされている。これにまさる誉れ、栄光は、この地上にないことを、はっきりと胸に刻みたいと願います。

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