イエスについての証し 2009年8月16日(日曜 朝の礼拝)

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イエスについての証し

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 5章31節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。ヨハネによる福音書 5章31節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 先週は、特別伝道礼拝として、ローマの信徒への手紙よりお話ししましたが、今朝から再びヨハネによる福音書を御一緒に読み進めていきたいと思います。

 先程は、第5章1節から40節まで、少し長くお読みしましたが、今朝は31節から40節を中心にしてお話しをいたします。このところを読んで気が付くことは、「証しをする」、あるいは「証し」という言葉が何度も用いられていることです。1節から18節で、ベトザタの池で病人を癒し、19節から30節で、「御子の権威」について教えられたイエスさまは、今朝の31節以下で、御自分について証しされる方について教えられるのです。

 31節、32節をお読みいたします。

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」

 ここでイエスさまは、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と語っておりますが、これは当時のユダヤ社会の常識を念頭においての発言であります。「自分自身についての証しは真実とは見なされない」。これは現代の日本でも同じだと思います。テレビのドラマで、刑事が容疑者と思われる人物を一人一人当たっていくという場面があります。「一昨日の夕方、あなたはどこにいましたか」。「どこそこにいました」。「それを証言してくれる人が誰かいますか」。こう会話が続きまして、それを証言してくれる第三者がいれば、その人の証しは真実と見なされるわけです。「自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」。これはユダヤの裁判での原則でありました。人は自分について証言をするとき、どうしても自分について良いように証言をしてしまうので、その証しは真実とは見なされなかったのです。そのことを踏まえて、イエスさまは、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と仰せになられたのです。そして続けて、「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」と仰せになるのです。イエスさまは、ユダヤ人たちが御自分がどのようなものであるかを正しく認め、受け入れることができるようにと、御自分について証しをなさる別の方についてお語りになります。そして、その方こそ、イエスさまをお遣わしになった御父なのです。しかし、御父と言ってもユダヤ人は信じませんので、イエスさまは洗礼者ヨハネの証しについてお語りになるわけです。イエスさまは、人間による証しを受けないお方でありますが、ユダヤ人たちが御自分を信じて救われるために、まずヨハネの証しについてお語りになるのです。

 33節から35節までをお読みいたします。

 「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」

 この福音書のプロローグ、第1章6節から8節に、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、またすべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と記されておりました。また、第1章19節から34節までには、洗礼者ヨハネの証しがどのようなものであったかが具体的に記されておりました。ヨハネが「来るべきお方」について証しを始めたとき、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問させたことがそこに記されています。また、その中にはファリサイ派に属する者たちもおりました(1:24)。そのことを指してイエスさまは、エルサレムのユダヤ人たちに、「あなたたちはヨハネのもとへ人を送った」と言われているわけです。ここでイエスさまは、ヨハネの証しが真実であったと言われています。ヨハネは、イエスさまを、世の罪を取り除く神の小羊、聖霊によって油注がれたメシア、神の子と証ししたのでありますが、そのヨハネの証しが真実であったことをイエスさま御自身が証ししてくださっているのです。しかし、そのことは、イエスさまが何者であるかが、ヨハネの証しに依存している。ヨハネの証しによって左右されるということではないのです。考えてみてください。イエスさまが神の御子であると証しすることのできる人間がいるでしょうか。被造物であり、有限である人間に、創造主であり、無限であられる神を証言すること、保証を与えることはできないのです。それができるのは、御子をお遣わしになった御父と、遣わされた御子だけであります。イエスさまは、31節で、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」と言われましたけども、これはユダヤのしきたりに従って仰せになったことでありまして、イエスさまは御自分の証しが、御父を源とする証しであり、それが真実であることをご存じであるのです(8:13、14)。では、洗礼者ヨハネは、なぜ、真理について、すなわちイエスさまについて証しすることができたのでしょうか。それはヨハネが「神から遣わされた一人の人」であったからです(1:6)。神さまから前もって「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である」と教えられていたからです(1:33、34)。神さまは、人々がまことの光であるイエスさまを信じるようにと、ともし火として洗礼者ヨハネを遣わされたのです。そして、エルサレムのユダヤ人たちは、そのヨハネのもとに人を遣わして、その光のもとで喜び楽しもうとしたのでありました。しかし、ユダヤ人たちは、ヨハネの証しを受け入れようとはしませんでした。ヨハネが、イエスさまについて「この方こそ神の子である」と証ししたにも関わらず、彼らはイエスさまが「神を御自分の父と呼び、御自分を神と等しい者」とされたことに腹を立て、殺そうと狙うようになったのです。しかし、イエスさまは、そのようなユダヤ人たちが救われるために、ヨハネの証しが真実であったことを証しされたのです。そして、ヨハネの証しよりも大きな証しとして、御父が成し遂げるようにお与えになった御自分の業についてお語りになるのです。

 36節から38節までをお読みいたします。

 「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」

 イエスさまは、ヨハネの証しにまさる証しとして、御父がイエスさまに成し遂げるようにお与えになった業、つまりイエスさまが行っている業そのものを挙げられます。ここでの「業」は元の言葉を見ますと複数形で記されていますから、イエスさまが救い主としてなされたあらゆる業を指しております。そして、ここには当然、エルサレムのユダヤ人たちが問題にした38年も病気で苦しでいた人をイエスさまが癒されたという御業も含まれているわけです。イエスさまが、地上の生涯において為されたもろもろの業、それはイエスさまが御父から遣わされたことを証ししているのです(使徒2:22も参照)。

 37節に、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とありますが、ここで「証しをしてくださる」と訳されている動詞は完了形で記されています。完了形は、過去に起こったことが、現在でも効力をもっていることを表します。ですから、ここでイエスさまは、「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて今も証ししてくださっている」と語っておられるのです。それはユダヤ人たちが永遠の命があると考えて、研究している聖書によってであります。このときまだ新約聖書はありませんから、ここでの聖書は旧約聖書のことです。イエスさまは、わたしをお遣わしになった父が、聖書を通して、御自分について証しをしておられると仰せになっているわけです。

 今朝の御言葉をここまでで振り返ってまとめてみますと、イエスさまは、御自分について証ししてくださるのは、御自分を遣わされた御父であるとお語りになりました。先程も申しましたように、イエスさまが神の御子であられるということは、人間によって証明されるようなことではないのです。そのことを証しすることができるのは、イエスさまを他にして、御子をお遣わしになられた御父だけなのであります。そして、イエスさまは、御父が3つの仕方で、御自分について証しをされていることを教えられたのです。1つは、洗礼者ヨハネを通して、御父はイエスさまについて証しをされました。2つ目は、イエスさまが成し遂げるようにお与えになった業、つまりイエスさまが行っている業によって、御父はイエスさまについて証しをされました。そして、3つ目は、神の御言葉である聖書によって、御父はイエスさまについて証しをされているのです。

 これまで見てきましたように、1つ目のヨハネの証しについては、エルサレムのユダヤ人たちは喜び楽しもうとしましたが、その証しを受け入れませんでした。また、2つ目のイエスさまに成し遂げるようにお与えになった業、つまりイエスさまが行っている業の証しも、彼らは受け入れず、むしろそのような業をなさっているイエスさまを神を冒涜する者として殺そうとしたのでありました。それでは、3つ目の父のお言葉である聖書による証しについてはどうかと言えば、やはり彼らはその証しを受け入れないのです。イエスさまは、37節の後半で、「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」と言っておりますが、これはユダヤ人たちが御父について全然知らないということを言っているのです。人が他者を認識するとき、声と姿の2つが必要であると考えられておりましたから、「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」というイエスさまのお言葉は、ユダヤ人たちが御父について全然知らないということを言い表しているのです。また、イエスさまは、ユダヤ人たちに「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない」とも言われました。彼らは熱心に聖書を研究し、そらんじるほど読んでいたことでありましょう。しかし、イエスさまは、「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない」と言われるのです。そして、これこそ、預言者イザヤを通して、主なる神が仰せになられたことであったのです。イザヤ書の第29章13節にこう記されています。「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。』」

 このイザヤ書の御言葉は、マルコによる福音書の第7章で、イエスさまがエルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちを非難して引用されたものでありましたが、ここでも当てはまります。エルサレムのユダヤ人たちは、律法を熱心に研究し、そらんじるほど読んでおりました。彼らは私たちのだれよりも旧約聖書を暗唱していたはずです。しかし、イエスさまは、あなたたちは、それを父のお言葉として留めていないと言われるのです。イザヤの預言によれば、彼らは人間の戒めを覚え込んでいるに過ぎないと言うのであります。ユダヤ人たちの不信仰については、次回の41節以下で詳しく学びたいと思いますが、彼らが父のお言葉を留めていないことは、御父から遣わされたわたしを信じないことから分かるとイエスさまは仰せになるのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 39節、40節をお読みいたします。

 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 ユダヤ人たちは、聖書そのものの中に永遠の命があると考えて、聖書の一言一句を研究しておりました。聖書そのものの中に永遠の命があるのですから、聖書を研究し、それを現在に当てはめて、そこに従って生きるとき、永遠の命に生きることができると彼らは考えていたのです。律法学者とは、法律学者でもありまして、かつて与えられたモーセ律法を、今の時代において守るにはどうすればよいかを研究する人々でありました。そのことは、ベトザタの池のお話しを思い出していただければよくお分かりいただけると思います。モーセの律法に、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書いてある(出エジプト20:10)。それでは、「いかなる仕事」とは、具体的に何であろうか。それを律法学者たちは細則を作って細かく規定したわけです。そして、その禁じられている労働のリストの中に、床を担ぐことが含まれていたのです。10節に、「そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」とありますが、これは、モーセ律法を研究して、彼らが定めたところの細則に違反していることを告げているわけです。ユダヤ人たちは、モーセ律法を守り、そこに従って生きるところに、永遠の命があると考えておりました。しかし、イエスさまは、そうではない、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と仰せになるのです。聖書の中に永遠の命があるのではなくて、聖書が証しする来るべきお方、イエス・キリストの内に、永遠の命があるのです。26節に、「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」とありましたように、イエスさまの内に、御父との永遠の交わりが実現しているのです。

 聖書を研究しているユダヤ人たちが、誰よりも先に、聖書が証しするイエスさまを信じてもよさそうなものでありますけども、現実はそうはなりませんでした。ユダヤ人たちは命を得るためにイエスさまのところへ来ようとしないのです。なぜでしょうか。それは、聖書に取り組む姿勢そのものが間違っていたからです。聖書の中に永遠の命があるのではないのです。聖書が証しするお方、イエス・キリストの内に永遠の命があるのです。聖書をイエス・キリストを証しする書物として読むこと。これがイエスさまが教えてくださった正しい聖書の読み方であるのです。だいぶ前に、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、どれも旧約聖書を経典の一つに持っていると申しました。けれども、その読み方はまったく違うのです。私たちは、キリスト教会は、旧約聖書をイエス・キリストを証しする書物として、読むのであります。そして、それが正しい旧約聖書の読み方なのです。なぜ、そのように言えるかと言えば、それはイエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光の体へと復活されたお方であるからです(ルカ24:44~48を参照)。イエスさまが、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われたとき、それは何よりイエスさま御自身が、旧約聖書をそのように読まれたことを教えているのです。イエスさま御自身が、旧約聖書を御自分について証しする書物として読み、苦難を通して栄光へと入るメシアとして歩まれたのです(ルカ24:26、27)。そして、神さまがイエス・キリストを三日目に復活させられたことは、そのイエスさまの読み方が正しいものであったことを証ししているのです。もっと言えば、イエスさまが正しく聖書を読み解くことができたことは、イエスさまが聖書の究極的な著者である神、その方であることを証ししているのです。

 また、イエス・キリストの復活は、イエス・キリストの内に永遠の命があること。イエス・キリストの内に神さまとの永遠の愛の交わりが実現していることを証ししております。イエスさまは、36節で「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしたちが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」と仰せになりましたが、その業の最たるものこそ、十字架の死と復活であったのです。私たちは、十字架の死から復活され、天へと上げられたイエス・キリストの聖霊をいただくことによって、聖書を、イエス・キリストを証しする書物として読み、イエス・キリストのもとへと導かれたのです。

 イエスさまのことばかりお話ししてきましたが、実は、これまでお話ししてきたことは私たちのことでもあるのです。私たちはイエス・キリストを信じて神の子とされています。しかし、そのことを証ししてくださる究極的なお方はどなたでしょうか。それは御父の霊であり、御子の霊である聖霊なのです。誰かが私たちに、「お前は、自分をイエス・キリストを信じて神の子とされていると言うけども、他に証言してくれる者がいるか」と問うならば、私たちは大胆に、「そのことを証言してくださるのは、私たちの内に宿っておられる聖霊である」と答えることができるのです。聖霊が、私たちに「イエスは主である」との信仰の告白を与えてくださり、神さまを「アッバ、父よ」と信頼し、祈る者としてくださった。それゆえ、「私たちがイエス・キリストにあって神の子とされていることを証ししてくださる方は別におられる」と大胆に語ることができるのです。いや、そればかりか、「イエス・キリストにあって、私たちが行っている業そのものが、私たちが神の子とされていることを証ししている」と大胆に語ることができるのです。そして、その業の最たるものが、イエスさまの復活を記念してささげられる主の日の礼拝なのです。

 私たちが、「イエス・キリストは主である」と告白し、神を「アッバ、父よ」と叫び祈る者とされていること。そして、このようにイエスさまの復活を記念して主の日の礼拝をささげていること。これらのことを通して、私たち自身ではない、私たち内におられる別の方、御父の霊であり、御子の霊である聖霊が、私たちがイエス・キリストにあって神の子とされていることを証ししてくださるのです。そして、聖霊なる主の導きのもとに、私たちは聖書を、イエス・キリストを証しする書物として、さらにはイエス・キリストの御言葉として読むことができるのです。

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