何が人を穢(けが)すのか 2021年1月17日(日曜 朝の礼拝)

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何が人を穢(けが)すのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 7章14節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」マルコによる福音書 7章14節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、ファリサイ派の人々が昔の人の言い伝えを神の掟と同じように重んじたこと。それに対して、イエスさまは、昔の人の言い伝えと神の掟とを区別し、神の言葉のみを重んじられたことを学びました。このイエスさまの姿勢は、宗教改革者たちの姿勢であり、私たち改革派教会の姿勢でもあることを教えられたのであります。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1.群衆に教えるイエス

 それから、イエスさまは、再び群衆を呼び寄せて、こう言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。17節に、「弟子たちはこのたとえについて尋ねた」とあるように、イエスさまは、群衆にたとえを用いてお語りになりました。聖書において、「譬え」は、格言やナゾをも含む広い意味を持っています。イエスさまのたとえには、なぞなぞの要素もあるのです。前回も申しましたが、聖書において、「汚れ」は、衛生的なことよりも、宗教的なことです。聖なる神さまとの関係において、「汚れ」のことが言われているのです。つまり、「汚れ」とは聖なる神さまとの交わりを妨げるものであるのです。『レビ記』の第11章から第15章までに、「清いものと汚れたものに関する規定」が記されています。そこには、食べ物について、出産について、皮膚病について、家屋に生じるカビについて、男女の漏出(ろうしゅつ)について、記されています。今朝の御言葉の背景には、『レビ記』に記されている「清いものと汚れたものについての規定」があるのです。今朝の御言葉だけではなくて、当時のユダヤ社会全体が、清いものと汚れたものを区分する宗教的な社会であったのです。そのことは、私たちがすでに学んできたことでもあります。第1章40節以下に、重い皮膚病を患っている人がイエスさまのところに来てひざまずいて、「御心をならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったことが記されていました。この人は、重い皮膚病を患っているために、汚れた者とされ、神さまとの交わりを持つことができませんでした。汚れた者は、神殿に入ることができなかったのです。昔で言えば、神さまが臨在されるイスラエル共同体の外に住まねばならなかったのです。第5章21節以下に記されていた、十二年間も出血の止まらない女も、『レビ記』の規定によれば、汚れた者でありました。彼女も神さまとの交わりを断たれていたのです。

 イエスさまが、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく」と言われるとき、文脈からは、「イエスさまの弟子たちが汚れた手で食事をした」ことを言っているようですが、どうもそうではないようです。と言いますのは、イエスさまは、食事の前に手を洗うという昔の人の言い伝えを問題としていないからです。ここで、イエスさまが言われていることは、もっとラディカル(根本的、急進的)なこと、神の掟に記されている食物規定についてであるのです。

 『レビ記』の第11章と『申命記』の第14章に、イスラエルの人たちが、食べてよい動物と食べてはいけない動物のリストが記されています。今朝は、『申命記』の第14章を開いて、少し読んでみます。旧約の303ページです。第14章3節から8節までを読みます。

 すべていとうべきものは食べてはならない。食べてよい動物は次のとおりである。牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、子鹿、野山羊、羚羊、大カモシカ、ガゼル。その他ひづめが分かれ、完全に二つに分かれており、しかも反すうする動物は食べることができる。ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。いのしし。これはひづめが分かれているが、反すうしないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。

 ここには、神の民であるイスラエルの人々が食べてよい動物と食べてはいけない動物が記されています。食べてよい動物は、ひづめが分かれており、しかも反すうするものでありました。具体的に言えば、牛、羊、山羊、鹿などは食べてよい動物であったのです。しかし、反すうするだけか、あるいはひづめが分かれていない動物は食べてはならないのです。具体的には、ラクダ、岩狸、野兔、いのししは食べてはならない、汚れたものであるのです。「いのしし」の中には、豚も含まれています。ユダヤ教徒が豚を食べないことは有名な話ですが、それは、律法に、「いのししは食べてはならない汚れた動物である」と定められているからであるのです。しかし、私たちキリスト教徒は、豚を食べています。それは、なぜでしょうか。それは、イエスさまが、今朝の御言葉で、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」と言われたからなのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の74ページです。

2.弟子たちに教えるイエス

 イエスさまが群衆と別れて、家に入られると、弟子たちは、たとえについて尋ねました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。このイエスさまのたとえを、弟子たちは理解できなかったのです。それで、弟子たちは、家で、すなわち教会で、イエスさまに尋ねたのです(当時は家の教会)。イエスさまは、弟子たちに、こう言われます。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。新共同訳は、「こうしてすべての食べ物は清められる」を、イエスさまの御言葉として翻訳していますが、他の翻訳聖書を読むと、この言葉は、福音書記者マルコの解説の言葉として記されています。聖書協会共同訳では、19節を次のように翻訳しています。「『それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。』このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし」。新改訳2017も、19節を次のように翻訳しています。「『それは人の心に入らず、腹に入り排泄されます。』こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた」。私は、聖書協会共同訳や新改訳2017のように、「こうして、すべての食べ物は清められる」という言葉を、福音書記者マルコの解説の言葉として、つまり、「こうして、イエスはすべての食べ物を清められた」と読む方がよいと思います。と言いますのも、新共同訳のように訳してしまうと、意味が分からなくなってしまうからです。「腹に入りトイレで外に出されることによって、すべての食べ物は清められる」となると、よく意味が分からないからです。

 イエスさまが、すべての食べ物は清い、食べてもよいとしたのは、外から人の体に入るものは、人を汚すことができないからです。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入って、やがてはトイレで外に出されてしまうからです。これは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが聞いたら、とても受け入れられない言葉です。なぜなら、イエスさまは、神の掟である食物規定を廃棄することを言われたからです。このことを、弟子たちが本当に理解することができたのは、もっと後のことです。『使徒言行録』の第10章に、ペトロがヤッファで幻を見たことが記されています。その所を開いて少し読みたいを思います。新約の232ページです。第10章9節から16節までを読みます。

 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。

 このやり取りから、私たちは、ペトロが食物規定に従って生活していたことが分かります。食物規定は、ユダヤ人であるペトロにとって、身についていたものであったのです。そのペトロに、主イエスは、幻の中で、「神がすべてのものを清められた」ことを教えられるのです。そのようにして、主イエスは、ペトロに異邦人コルネリウスの招きに応じる心備えをさせられたのです。主イエスは、ペトロに、「神がすべてのものを清められた」ことを三度宣言することにより、異邦人であっても、イエス・キリストの福音を受け入れるならば、清い、聖なる神の民であることを示されるのです。ペトロの説教を聞いた、コルネリウスたちのうえに聖霊が降ったことは、そのことを示しているわけです。

 このように、ペトロに幻が示されることによって、エルサレム教会は、異邦人伝道へと踏み出していくわけですが、そのことは、イエスさまが、この地上を歩まれたときに、弟子たちに教えられたことであったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の75ページです。

3.何が人を穢すのか

 イエスさまは、更に、次のように言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。イエスさまは、人を汚すものは、外から腹に入る食べ物ではなく、心から出て来る悪い思いであると言われます。私たちの心から出て来る悪い思いが、聖なる神さまとの交わりを妨げているのです。このことは、預言者イザヤが記していることでもあります。『イザヤ書』の第59章1節から4節までをお読みします。旧約の1158ページです。

 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。

 汚れとは、聖なる神さまとの交わりを妨げるものであると申しましたが、私たちの心の中から出て来る悪い思い、罪が、聖なる神さまと私たちとの交わりを妨げているのです。ですから、問題は、汚れたものを食べないことではなく、私たちの心が罪に汚れているということなのですね。そして、その私たちを罪から贖うために主は来られるのです。飛んで、20節と21節を読みます。

 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる。

 私たちを汚すのは、心の中から出て来る悪い思いである。そのことは、私たちの存在そのものが罪に汚れていることを教えております。その私たちを罪から清めるために、主イエスは、贖い主として来てくださいました。そして、十字架の上で、血を流すことにより、新しい契約を結び、私たちに神の霊、聖霊を与えてくださったのです。そのようにして、私たちの心を清めてくださったのです(一ヨハネ1:7参照)。神さまは、イエス・キリストに結ばれた私たちを、聖なる者として受け入れてくださり、とこしえに離れることはないと言ってくださるのです。

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