永遠の命に至る水 2009年5月17日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の命に至る水

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」ヨハネによる福音書 4章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝からヨハネによる福音書の第4章に入ります。小見出しに「イエスとサマリアの女」とありますように、第4章には、イエスさまとサマリアの女との対話が記されています。すでに学んだ第3章には、イエスさまとニコデモとの対話が記されておりましたけども、私たちは今朝から何回かに渡って、イエスさまとサマリアの女との対話を学ぼうとしているのであります。しかしそもそも、なぜイエスさまは、サマリアを訪れたのでしょうか。その理由が、1節から4節までに記されています。

 さて、イエスがヨハネより多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、-洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである- ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。

 すでに学んだ第3章22節に、「イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」と記されておりました。サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた洗礼者ヨハネの弟子たちは、「みんながあの人の方へ行っています」とぼやいておりましたけども、そのことが、ファリサイ派の人々の耳にも入ったというのです。ここには記されておりませんけども、おそらくこの頃、洗礼者ヨハネは領主ヘロデによって捕らえられたのではないかとも考えられています。第3章24節に「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」とありましたけども、この頃、洗礼者ヨハネは領主ヘロデに捕らえられ、投獄されたのではないかと考えられているのです。といいますのも、マタイによる福音書の第4章12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と記されているからです。イエスさまのことを耳にしたファリサイ派の人々、彼らはかつて洗礼者ヨハネを尋問した者たちでもありました。ヨハネによる福音書の第1章24節に、「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」と記されている通りです。かつてヨハネを尋問したファリサイ派の人々の関心が、ヨハネが投獄されたことによって、今度はイエスさまへと向かいつつあった。それゆえ、イエスさまはファリサイ派の人々との衝突を避けて、ユダヤを去り、再びガリラヤに行くことを決意されたのです。そして、ユダヤからガリラヤへ行くために、イエスさまと弟子たちはサマリアを通らねばならなかったわけです。

 聖書の巻末にある聖書地図「6 新約時代のパレスチナ」を開けていただきたいと思います。当時のパレスチナは大きく3つに区分されていました。北にガリラヤ、真ん中にサマリア、南にユダヤと大きく3つの地域からなっていたのです。イエスさまは、南のユダヤ地方で洗礼を授けていたということでありますから、北のガリラヤに行くためには、その間にあるサマリアを通らねばならなかったわけであります。そして実際、シカルというサマリアの町まで来たわけであります。「サマリア」とゴシック体で記された文字の少し右に、「ゲリジム山」があり、その少し北に「シカル」と記されているのを発見できます。そのシカルという町が今朝のお話の舞台となるわけです。 

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。

 5節、6節をお読みいたします。

 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 さきほど、聖書地図で「シカル」の場所を確認しましたけども、ヤコブの井戸は、そのシカルの町から北に1キロメートルほど離れていたと言われています。イエスさまは旅に疲れて、そのヤコブの井戸の側に座っておられたのです。時は正午ごろとありますから、日差しの厳しい、暑い時間帯でありました。イエスさまは汗を流し、渇きを覚えていらっしゃったようであります。これまで、ヨハネによる福音書は、イエス・キリストの神としての御性質を強調して教えてきました。けれども、ここでは、イエス・キリストが私たちと同じ弱さをもったまことの人間となってくださったことが教えられております。永遠の神の御子でありつつ、人となられたイエス・キリストは、疲れを知らない人間であったかと言えばそうではないのです。イエスさまも疲れを覚えますし、喉も渇けば、お腹も空くのです。イエス・キリストは、まさしく、罪を別にして、私たちと同じ弱さを持つまことの人となってくださったのです(ヘブライ4:15)。イエスさまが旅に疲れて、井戸の側に座っておられる。私たちは、そこに、私たちの救いのために私たちと同じ人となってくださったイエス・キリストのお姿を見ることができるのです。

 7節から9節までをお読みいたします。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

 「サマリアの女が水をくみに来た」とさらっと書いてありますけども、これは異常なことでありました。なぜなら通常、女が水を汲みにくるのは、まだ涼しい朝方か、あるいは夕方であったからです。けれども、この女は、最も暑い正午ごろに、わざわざ水を汲みに来たのです。なぜ、この女はわざわざ暑い時間帯を選んで水を汲みに来たのだろうか。その理由としてすぐに思いつくことは、この女は他の女たちとの交わりを避けたかったということであります。当時の社会において、水汲みはおもに女の仕事であったと言われています。そして、女たちは井戸の水を汲みながら、世間話や情報交換をしたのです。いわゆる井戸端会議をするわけであります。そのような女たちの交わりを、このサマリアの女は避けていた。あるいは、そのような女たちの交わりから排除されていたとも考えることができます。今朝は読みませんでしたけども、16節から18節までに、イエスさまとサマリアの女との次のようなやり取りが記されています。

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

 ここに、女がわざわざひとけ人けのない正午に水を汲みに来た理由が記されています。この女には、過去に5人の夫がおり、今は結婚関係にない男と同棲しておりました。周りの人々からすれば、身持ちが悪い、ふしだらな女であったわけです。それゆえ、彼女誰もいない正午ごろ、ヤコブの井戸に水を汲みに来たのです。けれども、この時はそうではありませんでした。イエスさまが旅に疲れて、井戸のそばに座っておられたのです。そして、イエスさまの方から、サマリアの女に「水を飲ませてください」と話しかけるのです。「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますから、このとき、イエスさまはお一人で井戸の側に座っておられたのでしょう。イエスさまから話しかけられて、サマリアの女は驚いてこう問い返しました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。9節の後半にありますように、ユダヤ人とサマリア人は交際しませんでした。互いに交わりを断っておりました。もっと言えば、互いに憎しみを投げつけ合う敵対関係にあったのです。ユダヤ人とサマリア人は、もともとは同じ先祖ヤコブの子孫であります。ヤコブは後に神さまからイスラエルという名前をいただくわけでありますが、紀元前1200年頃、ヤコブの12人の息子を先祖とするイスラエルの12部族が、約束のカナンの地に移り住みます。そして士師の時代を経て、紀元前1000年頃、ダビデを王とするイスラエル統一王国が建てられます。けれども、それもつかの間、ソロモン王の死後の紀元前928年に、北王国イスラエルと南王国ユダの2つに分裂いたします。その北王国イスラエルの首都がサマリアでありました。紀元前722年アッシリア帝国によってサマリアは陥落し、北王国イスラエルは滅亡するわけです。そのとき、アッシリア帝国は、北王国イスラエルの指導者たちを他の国へと移住させ、その代わりに、外国から人を連れて来て、サマリアに住まわせたのです。そうすると結婚によって民族の血が交じり合うということが起こるわけです。また、宗教においても、さまざまな民族の要素が入り込んできたわけです(列王下17章参照)。ユダヤ人はそのようなサマリア人を毛嫌いしまして、挨拶もしなければ、言葉も交わさないという状態にあったのです。けれども、このときイエスさまは、ユダヤ人でありながら、サマリア人の女に、「水をのませてほしい」と頼んだのです。ここでイエスさまは、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」という慣例を気にもとめておられない。イエスさまは、ユダヤ人もサマリア人も分け隔てなく、語りかけ、交わりを持ってくださるお方であることが分かるのです。これがもし、普通のユダヤ人であったならば、おそらく、どんなに喉が渇いていようと、サマリア人の女に「水を飲ませてください」と頼まなかったと思います。しかし、イエスさまは、喉が渇くという、ユダヤ人であろうが、サマリア人であろうが、人間なら誰にでも共有できる弱さを接点として、サマリアの女に福音を語ろうとされるのです。「水を飲ませてください」と頼むことによって、御自分が与えようとしておられる生きた水についてお語りになるのです。10節をお読みします。

 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。

 このイエスさまの御言葉は、回りくどい言い方ですけども、明らかに御自分について言われています。「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか」については、次週に学ぶことにしまして、今朝は、「神の賜物」である「生きた水」について学びたいと思います。「生きた水」。これは文字通りには、泉からわき出るような新鮮な水のことであります。生きた水とは、雨水を溜めくおくような溜まり水ではなくて、泉からわき出るような新鮮な清水のことを言うのです。そして、イエスさまはそれをここでは神の賜物の象徴として用いておられるわけです。けれども、サマリアの女は、それに気が付かないで、文字通りの意味、喉の渇きを潤す新鮮な水のことを問題にしているのです。それゆえ、女はこう言うのです。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。

 生ける水と聞いたとき、この女の心に浮かびましたのは、何より自分の命を生かしているヤコブの井戸の水でありました。6節に、「ヤコブの井戸があった」、「そのまま井戸のそばに座っておられた」とありますけども、この6節で「井戸」と訳されている言葉は、「泉」と訳すべき言葉であります。ですから、文語訳聖書は6節を、「此処にヤコブの泉あり。イエス旅路に疲れて泉の傍らに座し給う」と記しております。ヤコブの井戸はヤコブの泉とも呼ばれる。このことから分かることは、この井戸は、地中に深く穴を掘って、地下水を汲み取るだけではなくて、水がわき出る泉を水源とする井戸であったということです(創世記26:19参照)。ですから、サマリアの女が、イエスさまから「生きた水」と聞いたとき、ヤコブの井戸からわき出る水のことを思い起こしたのはもっともなことでありました。「あなたは、わたしに生きた水を与えるというけども、あなたは汲むものを持っていないじゃないか。井戸は深いのです。どからその生きた水を手に入れるのですか」。サマリアの女が言うように、井戸は深く、現在のものでも23メートルの深さがあると言われています。そのような深い井戸から、汲むものをもっていないあなたがどうやって水を手に入れることができるのか。そもそも、あなたは私たちの父ヤコブより偉いのですか。ヤコブがこの井戸を掘り、私たちに与え、この井戸から、ヤコブ自身も、その子供や家畜も水を飲み、生きてきたのです。このヤコブの井戸の水よりすばらしい水など他にありますか、ないでしょうに。これがサマリアの女の言いたいことであります。確かに、生ける水が、文字通りの喉を潤す水であるならば、この女が言っていることは正しいことであります。しかし、イエスさまが言われる、神の賜物としての生きた水は、文字通りの意味ではなくて、神の賜物の象徴であるのです。そのことは、13節のイエスさまの御言葉を読むと分かります。

 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 イエスさまが、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と仰せになるとき、ここで言われている渇きは、喉の渇きというよりも、魂の渇き、霊的な渇きのことであります。旧約聖書の詩編第42編に、「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」とありますように、イエスさまの言われる「渇き」は神を求めてやまない人間の魂の渇きであるのです。では、イエスさまが与える「生きた水」は、一体何を象徴しているのでしょうか。これについては、2つの解釈があります。1つは、神の律法や知恵といった神の啓示を指すという解釈です。旧約聖書の箴言の第13章14節に、「賢人の教えは命の源」とありますように、ユダヤ人にとりまして、神の言葉こそ、生きた水、人を生かす水でありました(アモス8:11も参照)。

 また、もう一つの解釈は、ここでの「生きた水」は神の霊、聖霊を指すという解釈です。これは、少し先の第7章37節から39節までに記されていることでもあります。

 祭りが最も盛大に言われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスは、まだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。 

 イエスさまが与えられる生きた水、人を本当に生かす水が、神の言葉を意味するのか、それとも神の霊を意味するのか。このことは、厳密に区別する必要はないと思います。なぜなら、神の言葉と神の霊は切り離すことのできない密接な関係にあるからです。前回学んだ第3章34節に、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである」とありましたように、神の言葉と神の霊は切り離すことのできない密接な関係にあるのです。イエスさまの与える生きた水が、神の言葉を意味するにせよ、あるいは、神の霊を意味するにせよ。それは大きく捉えるならば、神さまを指し示していると言えます。私たちの魂の渇き、心の奥底にある渇きを本当に癒すことができるお方は、私たちをお造りになられた神さまだけなのです。預言者エレミヤは、神さまこそが、生ける水の源であると語っています。エレミヤ書の第17章12節にこう記されています。

 栄光の御座、いにしえの天/我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。

 ここに記されておりますように、主なる神こそ、生ける水の源なのです(エレミヤ2:13も参照)。イエスさまは、生ける水の源である神さまとの交わりをお与えになることによって、サマリアの女の渇きを癒そうとしておられる。イエスさまは、御父から限りなく霊を注がれたお方として、神の言葉を話す方として、生きた水をサマリアの女に与えようとしておられるのです。サマリアの女は、イエスさまの言われる生きた水を、喉を潤す文字通りの水と解釈しました。それは、彼女がこのとき肉体の渇きのことしか考えていなかったからです。しかし、イエスさまの眼差しは、それ以上の渇きを彼女の内に見ておられるのです。そして、その渇きこそが、神さまをまことに礼拝したいという魂の渇きであったのであります(4:20)。けれども、まだそのことに彼女は気づいておりません。それゆえ、今朝の御言葉の最後の15節で、女はこう言うのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。

 この女の言葉からすると、彼女はまだ喉を潤す文字通りの水のことを考えているようです。けれども、ここで彼女はイエスさまに「水をください」と真剣に求める者となっているのです。イエスさまが何を言っているのかはよく分からない。けれども、決して渇かない生きた水があるならば、わたしもそれが欲しい。あなたがそれを与えることができると言うならば、どうか、それをわたしにください。そのようにサマリア人である彼女がユダヤ人であるイエスさまに頼むのです。ここでは女が、ユダヤ人とサマリア人という民族の壁を乗り越えてイエスさまに頼むのです。ここには、イエスさまが言われた通りのことが起こっています。イエスさまは、10節で、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」と言われました。その御言葉通り、今や、サマリアの女は、イエスさまに生きた水をくださいと願う者となっているのです。

 この女が、イエスさまがだれであるかを知らされるのは、まだ先のことであります。しかし、すでにイエスさまがキリスト、救い主であることを知っている私たちは、神の言葉と聖霊という生ける水を与えられたことにより、私たちの内に泉がわき出ていることを覚えたいのであります。泉から新鮮な水がこんこんとわき出るように、私たちのうちにはいつも新しい神さまとの命の交わりが与えられているのです。神の言葉と聖霊によって、イエス・キリストに結び合わされ、神さまを父として礼拝する永遠の命に生かされているのです。

 今日、初めて礼拝に出席された方、あるいは求道中の方は、わたしが言っていることも、やはりよく分からないかも知れません。けれども、分からなくても、このサマリアの女のように、イエスさまに向かって「その水をください」と祈り求めることはできるはずです。今天におられるイエス・キリストは、その願いを聞き入れてくださり、必ず御言葉と聖霊を与えてくださいます。そのようにして、神さまは、私たちの魂の渇きを癒してくださり、私たちの内で永遠の泉となってくださるのです。

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