神の言葉を話される方 2009年5月10日(日曜 朝の礼拝)

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神の言葉を話される方

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章31節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」ヨハネによる福音書 3章31節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 かつて第3章16節から21節についてお話ししたとき、この所は、イエスさまの言葉なのか、それとも福音書記者ヨハネの言葉なのか判別が難しいと申しました。私たちが用いている新共同訳聖書は、10節から語り出されているイエスさまの言葉として21節までをカギ括弧でくくっておりますから、16節から21節もイエスさまの言葉であると解釈してます。けれども、新改訳聖書を見ますと、10節から15節までをカギ括弧でくくってイエスさまの言葉として読み、16節から21節までは、福音書記者ヨハネの言葉であると解釈しています。もともとのギリシア語には、会話文を表すカギ括弧はありませんから、どちらとも解釈することができるのです。16節から21節はイエスさまの言葉として読むこともできるし、あるいは、福音書記者ヨハネの言葉として読むこともできるのです。ある人は、「ヨハネによる福音書の特徴は、登場人物の言葉と著者の言葉が入り交じっているところにある」と言っておりますから、あまり神経質に、ここまでがイエスさまの言葉、ここからが福音書記者ヨハネの言葉と区別する必要はないのかも知れません。福音書記者ヨハネの言葉も霊感された神の御言葉なのですから、福音書全体を神の御言葉として読まなくてはならないわけです。

 さて、今申し上げたことは、今朝の御言葉、31節から36節ついても言うことができます。私たちが用いております新共同訳聖書は、小見出しを付けて区切ってはおりますけども、31節から36節までをカギ括弧でくくっておりますから、31節から36節までを27節から続く洗礼者ヨハネの言葉として解釈しています。けれども、新改訳聖書は、30節までを洗礼者ヨハネの言葉とし、31節から36節までを福音書記者ヨハネの言葉として解釈しているのです。そしてギリシア語原典に、会話を表すカギ括弧がない以上、どちらにも読むことができるわけです。このように、洗礼者ヨハネの言葉としても読むこともできるし、福音書記者ヨハネの言葉として読むことができる、渾然一体となっている神の御言葉を私たちはこれから学ぼうとしているわけです。

 31節、32節をお読みいたします。

 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 

 「上から来られる方」、「天から来られる方」。これは第1章14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われていた神の独り子、イエス・キリストのことであります。第1章1節から3節に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった」とありましたけども、その言なるキリストが天から来てくださり、聖霊によって処女マリアの胎に宿り、私たちと同じ人の性質をとってくださった。上から来られた方が、この地上を歩まれたとき、人の目にはマリアとヨセフの息子としか映りませんでしたけども、ヨハネによる福音書のプロローグによれば、イエス・キリストは、マリアの胎に宿ったときに、はじめて存在した方ではなくて、永遠から神と共におられた、万物の創造主であられたのです。ですから、上から来られた方とは、まことの神でありつつ、まことの人となられたイエス・キリストのことであります。この方は、この地上に降り、この地上を歩まれているときも、神の御子の人格と、永遠の神の性質をもつがゆえに、「すべてのものの上におられる」と言うことができます。「すべてのものの上におられる」とは、「すべてのものを支配する権能を持っている」ということです。永遠から神と共におられた言は、肉を取り、この地上に人としてお生まれになってからも、すべてのものを支配する権能をお持ちのお方であるということであります。

 これに対して、地から出る者、地に属する者とは、洗礼者ヨハネを初めとするふつうの人間のことであります。私たちは誰も、この地上で生まれ、地上に生きる。ですから、私たちは自分たちが見たり、聞いたりした地上のことを語る。地に属する者として語るのです。けれども、天から来られる方は、天上で見たこと、聞いたことを語る。神さまのお姿を直接見た者として、神さまの御声を直接聞いた者として、自分が実際に体験的に知っていることを証しされるのです。地に属する人間が、勝手な想像から、神さまはこのようなお方であるとか、神さまはこう言われるとか、語るのではありません。天から来られる方は、すべてのものの上におられる神の子として、天上のことを、見たこと聞いたこととして証しされるのです。イエスさまの御言葉、それは体験として知っていることを語る、証しの言葉なのです。

 ここで、問題とされていることは一体何でしょうか。それは、啓示の確かさであります。「啓示」という言葉を『広辞苑』で引きますと次のように記されていました。「あらわし示すこと。人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いて表し示すこと」。地から出、地に属する者は、天におられる神さまのことを知ることはできません。もし、知ることができるとすれば、それは神さまの方からあらわし示しくださるしかないのです。ここに聖書の宗教の特色がよく表されています。旧約聖書を読むとお分かりのように、聖書の宗教は、啓示の宗教であります。人間が苦難苦行して、悟りを開き、神に近づくという下からの自然宗教ではなくて、神さまの方から、一方的に御自身を現してくださる啓示に基づく、上からの啓示宗教なのです。

 当時の聖書、旧約聖書は、まさしく啓示の書でありました。ユダヤ人がその中で最も重んじたのは、モーセを通して与えられた律法であります。彼らはモーセを通して神さまから与えられた掟、律法に基づいて生活を営んでおりました。しかし、そのような彼らの中に、イエス・キリストが現れ、律法よりも御自分の御言葉を権威あるものと主張なされました。少し飛んで、第9章に、イエスさまが生まれつきの盲人の目をいやすというお話しが記されています。そこで、ファリサイ派の人々が、目の見えなかった人を罵ってこう言うのです。第9章28節、29節にこう記されています。

 そこで彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」

 ここに、イエスさまを受け入れないユダヤ人とイエスさまを受け入れるキリスト者の違いが明確に言い表されています。イエスさまを受け入れないユダヤ人は、モーセを最高の啓示として受け入れています。しかし、イエスさまを受け入れるキリスト者は、イエスさまを最高の啓示として受け入れているのです。そして、これこそ、新約聖書全体が教えていることであり、私たちキリスト教会が信じていることなのです。つまり、イエス・キリストという最高の、最終的な啓示の光のなかで、旧約聖書を読み、解釈するというのが、私たちキリスト教会の最も根本的な聖書解釈の原理なのです。以前、祈祷会でガラテヤの信徒への手紙を学んだことがありますが、ガラテヤの諸教会を惑わせていた者たちは、キリスト者となっても割礼を受けなければ救われないと主張しておりました。けれども、パウロは、割礼を受ける必要はなく、ただイエス・キリストを信じるだけで人は救われるのだと教えたのです。パウロは、律法の書の御言葉を引用しつつ、そのことを語るのです。なぜ、そのようなことができるかと言えば、それはパウロが、イエス・キリストの啓示の光の中で、特にイエス・キリストの十字架と復活という光の中で、律法を読み、解釈しているからであります。なぜ、パウロは人は律法の行いによっては救われないと断言することができたのか。それは約束のメシアであるイエス・キリストが十字架の呪い死を死なれたからです。また、なぜ、パウロは、イエス・キリストを信じるだけで救われると断言することができたのか。それは、十字架に死んだイエス・キリストを神さまが三日目に栄光の体へと復活させられたからです。十字架と復活のイエス・キリスト、神の御子であり、神の言そのものであるイエス・キリストこそ、神さまからの最終的な最高の啓示であるというのが私たちキリスト教会の根本的な信仰なのであります。

 そこで、今朝の御言葉に戻りますけども、結局この所には、その最も根本的な信仰の起源が記されていると理解していただいてよろしいと思います。なぜ、私たちキリスト者は、イエス・キリストを、最大の啓示と信じているのか。それは、この方が、上から来られた方、天から来られた方であり、天上のことを見たこと、聞いたこととして証しすることのできる唯一のお方であるからです。聖書が、「上から来られる方」、「天から来られる方」と記すとき、それは言が肉となったあの歴史的な一回的な出来事だけを言っているのでは、どうもないようであります。「上から来られる方」、「天から来られる方」、これは元の言葉ではどちらも現在分詞で記されています。現在分詞は継続的な動作を表しますから、日々、上から来られることになります。ですから、この方の見たこと、聞いたことは、過去のことではなくて、日々新しく見たこと、聞いたことなのです。この事態をよく言い表しているのが、イエスさまがナタナエルに言われた第1章51節の御言葉であろうと思います。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。

 イエスさまの御言葉によりますと、イエスさまのうちに、父なる神との豊かな交わりが実現しておられます。第14章8節から10節までにそのことがはっきりと記されています。

 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っているのである。

 イエスさまが父の内におり、父がイエスさまのうちにおられる。それゆえ、イエスさまの証しは、最高の啓示であり、真実なる証しであると言えるのです。

 けれども、聖書は続けて、「だれもその証しを受け入れない」と記しております。ここには、ヨハネによる福音書が記された当時の様子が反映されていると読むことができます。いや、そんな昔のことを考えなくても、現代の私たちをとりまく人々のことを考えてみれば、この「だれもその証しを受け入れない」という言葉が実感として分かります。けれども、それは誰一人として受け入れないということではないのです。今、私たちキリスト者がその証しを受け入れているように、その証しを受け入れる者がいるのです。聖書は、「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」と語ります。ここで、「この方が真実である」とは記さずに、「神が真実である」と記されていることは注目すべきことだと思います。証しされたのは、この方、つまりイエス・キリストなのですから、そのイエス・キリストの証しを受け入れるということは、イエス・キリストが真実であることを確認したことであるはずです。しかし、ここでは「この方が真実である」とは記されずに、「神が真実である」と確認したことになると記されているのです。細かいことを言うようですが、ここで「確認した」と訳されている言葉は、もともとは「封印する」、「印を押す」という意味の言葉であります。日本でも印鑑を押すということは、保証の意味を持っています。書き留めの郵便が届くと、印鑑を押して確かに受け取ったことを確認するのです。そのように、この方、イエス・キリストの証しを受け入れることは、神が真実であることの確認の印を押したことになるのです。それは言い換えれば、この方の証しを受け入れることなくして、誰も神が真実であると確認することはできない。確かな真理として知ることはできないと言うことです。例えば、イエスさまの証しの代表的なものとして、ルターが「小型の福音書」と呼んだ第3章16節を挙げることができます。「神はその独り子を与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この証しをイエス・キリストの十字架と復活の光の中で受け入れるとき、私たちは神の真実をアーメンと確認することができるのです。

 はじめの問いに戻りまして、なぜ、この方の証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになるのか。その理由が、続く34節に記されています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである。」

 34節は、二つの文からなっておりますが、元の言葉をみますと、どちらも「なぜなら」という接続詞がついております。ですから、「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」その理由として、「なぜなら、神がお遣わしになった方は、神の言葉を話されるからである」と記されているのです。これは言い換えれば、神は遣わされたイエス・キリストを通して、御自分について証ししておられるということです。先程、イエスさまがフィリポに語った言葉、「わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられる」という言葉を読みましたけども、父なる神は御子を遣わし、その御子を通して、御自身について証しをされているのです。それゆえ、この方の証しを受け入れることは、神の証しを受け入れることであり、神は真実であることを確認することになるのです。しかし、そうは言っても、そんなことが果たして可能であろうかという疑問は当然出てくると思います。神の御子イエス・キリストは、永遠の神でありつつ、人となられました。人となられたということは、過ちを犯しうる可能性を含み持つということです。イエス・キリストは、罪を別にして、私たちと同じ弱さをもった人となられたのでありますから、その証しの中に誤りが入り込むことはなかったのだろうか。その証しが不確かになることはなかったのだろうか。そのようなことが当然考えられるわけです。そして、そのような疑問に答えるものとして、34節の後半の言葉が記されているのです。「神が霊を限りなくお与えになるからである」。なぜ、まことの神でありつつ、人となられたイエス・キリストの証しが、真実の証しであり、最高の啓示であると言えるのか。それは神が聖霊を限りなくお与えになるからです。ここで、「限りなく」と訳されている言葉は、原文から直訳しますと「器を用いないで」、「量ることなしに」となります。神さまはこれまでも、聖霊を与えることによって、御自分の働きに、さまざまな人をお用いになりました。しかし、それはその働きに必要な分だけの賜物、聖霊を、いわば量って与えていたようなものでありました。しかし、イエスさまには量って与えるのではなく、限りなく、無限にお与えになるのです。

 私たちは、今朝の御言葉が、洗礼者ヨハネの証しの言葉に続けて記されており、さらには、洗礼者ヨハネの言葉として読むことができることを思い起こしたいと思います。そのことを思い起こすとき、この34節が、何よりイエスさまの受洗に続く出来事を指すことが分かるのです。洗礼者ヨハネは、霊が鳩のように天からくだってイエスさまのもとに留まるのを見て、この方こそ、神の子であると証ししました。第1章29節から34節までにそのことが記されておりますけども、ここではむしろ、マルコによる福音書の第1章9節から11節までをお読みしたいと思います。

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  

 このマルコによる福音書の記事は、今朝の御言葉の背景となっていると言えます。キリスト教会が信じてきたところによれば、ここには、イエスさまが聖霊を注がれて、メシアとして即位される、その場面が描かれております。その昔、イスラエルの民のうえに、聖別の油を注ぐという儀式によって、預言者、祭司、王が立てられました。それと同じように、イエスさまは油が象徴していた聖霊を注がれ、預言者、祭司、王の三職を実現する究極的なメシア、救い主として即位なされたと解釈されるのです。メシア即位の宣言として、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声が天から聞こえたのです。

 この説教の初めに、今朝の御言葉は、洗礼者ヨハネの言葉として読むこともできるし、福音書ヨハネの言葉として読むこともできると申しました。言い換えれば、福音書記者ヨハネは、今朝の御言葉を洗礼者ヨハネの証しとして読むことを読者に期待しているとも言えます。それゆえ、「神が霊を限りなくお与えになるからである」という御言葉は、目撃者による真実な証言であると言えるのです。

 35節に「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」とありますが、これは洗礼者ヨハネも聞いたであろう天の声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」を背景としているのだと思います。神さまは、御子イエスをメシアとして即位させ、その手にすべてを委ねられたのです。ですから、この35節の「御子」は、これは言が肉となったイエス・キリスト、まことの神でありつつ、まことの人となられたトータルなイエス・キリストのことであります。31節で、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる」とありましたけども、ここで「すべてのものの上におられる」と言うとき、そこで考えられていたのは、初めから神と共におられた言でありました。キリストの神としての性質を何より背景として、この31節は記されていると読むことができます。けれども、34節、35節は、もっぱらイエス・キリストの人間の性質に関心をもって記されているのです。

 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。そして、イエス・キリストは、その上から来られる方である。よって、イエス・キリストは、すべてのものの上におられる。このような三段論法で、はっきりと言いきれることができるかと言えば、どうも怪しくなってくる。なぜなら、イエス・キリストはまことの神でありつつ、まことの人となられたお方だからです。イエス・キリストは、人の性質においては、すべてのものの上におられるお方とは言えないのではないか。しかし、聖書は、そうではない。イエス・キリストは、人の性質においても、すべてのものの上におられるお方なのだと記すのです。なぜなら、このお方は、神の霊を限りなく注がれることによってメシアとして即位され、御父からの愛を一身に受け、その手にすべてをゆだねられたお方であるからです。

 イエス・キリストは、神の御子であり、さらには神がその手にすべてをおゆだねになったメシアであるがゆえに、すべてのものの上におられる。よって、すべての人がこの方に従わなくてはならないのです。そして、その神のご命令こそ、イエス・キリストの証しを信じて、永遠の命を得ることなのであります。イエス・キリストを通して、罪の赦しをいただき、神さまとの永遠の愛の交わりに生きることであるのです。そのイエス・キリストを通して現された神の御意志に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるというのです。これは、イエス・キリストの証しを受け入れないから、神の怒りがその人の上に降るというのではありません。「神の怒りがその上にとどまる」とありますように、罪をもって生まれてくる私たちに人間の上には、神の怒りがはじめから留まっているのです。その怒りに私たちは気づかない。だから、イエス・キリストを信じないで平気でいられるのであります。けれども、その神の怒りが私たちを食い尽くすときが来る。そのことを教えてくださったのもイエス・キリストの十字架であります。イエス・キリストは、十字架の上で、神からまったく見捨てられる呪いの死を死なれました。イエスさまはそれによって、神の怒りのもとにある人間の死がどのような死であるのかを身をもって示してくださったのです。しかし、その十字架の死が、自分の罪のためであり、この方こそ救い主であると信じるならば、その人は神の怒りから解き放たれるのです。イエスさまが、すでに神の怒りを、十字架において余すところ無く受けてくださったゆえに、イエス・キリストを信じる者は、今既に神の怒りから解き放たれるのです。そればかりか、神さまを父とする、永遠の命に生きることができるのです。どうぞ、聖書を通して、また説教を通して語られるイエス・キリストの証しを受け入れて、神の愛の真実を御自分のものとして確認していただきたいと願います。

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