世を愛された神 2009年4月26日(日曜 朝の礼拝)

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世を愛された神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章16節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」ヨハネによる福音書 3章16節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 私たちにはそれぞれに愛唱聖句というものがありますけども、このヨハネによる福音書第3章16節は、すべての人が胸に刻みつけ、日々自分の心に語りかけるべき聖句であると思います。宗教改革者のマルチン・ルターは、この16節を、「小型の福音書」と呼びました。すべての福音書が伝えているエッセンスが、この16節に見事に語られているということであります。そのような有名な御言葉でありますから、多くの方が既にそらんじておられると思いますけども、まだ暗唱していない方は、ぜひこの機会に、胸に刻みつけていただきたいと思います。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ここには、神さまが世を愛されたことが記されています。「世」とは、神さまがお造りなったこの世界のことであります。そして同時に、神さまに背き続けるこの世のことであります。「神は世を愛された」と言うとき、その世とは、神さまによって造られたにも関わらず、神さまに背き続ける世であったのです。そして、聖書は、神さまがそのような御自分に背き続ける世を愛してくださった、と語るのです。このことだけを考えてみましても、驚くべきことであります。私たちは、自分に敵意を抱いている人を愛することができるでしょうか。しかし、神さまは、御自分に敵対している世を愛されたのです。ここに記されているのは、旧約聖書のエゼキエル書第18章が記すところの神さまの御心であります。エゼキエル書の第18章23節にこのような御言葉があります。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」。さらに、31節、32節には、こう記されています。「『お前たちが犯したあらゆる背きを捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。

 よく言われる一つの誤りに、旧約の神は裁きの神であり、新約の神は愛の神であるとする誤りがあります。神さまがまるで心変わりをされて、裁きの神から愛の神となったかのように考える人がいるのです。けれども、これは間違いであります。神さまは天地創造の前から、つまり永遠から愛の神であられるのです。エゼキエル書が記しておりますように、神さまは悪人が立ち帰って生きることを喜ぶお方であり、さらには、だれの死をも喜ばず、すべての人が立ち帰って生きることを喜ばれるお方であるのです。その神さまが、決定的な愛の行為として、「その独り子をお与えになられた」のであります。そして「その独り子」こそ、イエス・キリストであったのです。この16節の直前、14節、15節にはこう記されておりました。

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 新共同訳聖書は、21節までをカギ括弧でくくりイエスさまの御言葉として記しておりますけども、口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと、15節までがイエスさまの御言葉としてカギ括弧でくくられています。16節以下は、福音書記者の解説の言葉として理解するわけです。ギリシア語の原文には、もともとカギ括弧がないので、どちらとも解釈できるのでありますが、しかし、15節と16節がその内容からすれば一続きであることは明かなことであります。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。これに続けて、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されているのです。ですから、この流れの中で読むとき、「独り子」が「人の子」と言われるイエス・キリストであり、「お与えになった」ということが、「十字架に上げるために遣わされた」ということを指すことが分かるのです。ここで、「御子」ではなく「独り子」と記されていることは、意味深いことであります。独り子とは、「愛する御子」という意味を含み持っています。私たち人間のことを考えてみましても、親にとって独り子は、すべての愛情を注いで育ててきた、かけがえのない存在であります。何人かいるうちの一人ということではない。神さまはたった独りしかおられない愛する御子を十字架の死に引き渡すために、この地上へと遣わされたのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。この御言葉を読むとき、当時の読者たちが思い浮かべたに違いないのは、アブラハムが独り子イサクをささげるという創世記の第22章に記されているお話しであったと思います。創世記の第22章1節から12節までをお読みいたします。

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムは目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 神さまは、アブラハムが御自分を畏れる者であるかどうかを知るために、愛する独り子イサクをささげるようにと命じられました。そして、アブラハムはその神さまのご命令に従い、実際に独り子イサクをささげようとしたのです。このことはその直前に待ったがかかるわけですが、神さまは、「あたなは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言われたように、アブラハムが独り子イサクをささげたものと見なしてくださったのです。そのことを通して、アブラハムが神を畏れる者であることが、今、分かったと言われたのです。そして、これと同じことが、「神は世を愛された」と言うときにも言えるのです。なぜ、私たちは神さまは世を愛してくださっていると言えるのでしょうか。それは、神さまが愛する独り子であるイエス・キリストをこの地上に遣わし、全世界の罪を償ういけにえとして十字架の上にささげてくださったからです。アブラハムは、主の御使いから待ったをかけられることにより、実際にはイサクの血を流さずに済みました。しかし神さまは、その独り子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されました。神さまはそのことによって、御自分が世をどれほど愛しておられるかを決定的に、疑いのないこととして示されたのであります。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 神さまが、独り子であるイエス・キリストを十字架につけるために、この世に遣わしてくださった。その動機は、神の本性とも言える愛によるものでありました。神さまは愛のお方であるがゆえに、御自分が造られたこの世界を、御自分に背き続けるこの世界を滅びるままに放置することはできませんでした。神さまに背き続けるこの世界、それは神さまによって造られたものでありながら、創造主を忘れ、自らを神として歩む世界であります。神などいらない。神などいなくても生きていける。そう豪語する世界です。けれども、そのような世界は、神さまの御前から失われている、滅びてしまう世界なのです。この世にある憎しみや争い、貧困や災害、病や死は、この世界が滅びの中にあることを指し示しているわけです。しかし、神さまはその世界を愛してくださり、罪と悲惨の状態から私たち人間を救うために、独り子であるイエス・キリストを与えてくださいました。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、イエス・キリストを十字架にあげることによって、信じる者たちに永遠の命を与えることを良しとされたのです。ここで注意したいことは、神が独り子をお与えになったことによって、自動的に、誰もが永遠の命を得ることができるのではないということです。神さまが、独り子をお与えになったのは、世を愛されたゆえでありましたから、この神の愛から誰一人洩れている人はおりません。イエス・キリストを信じていない人でも、その独り子をお与えになられた神の愛から洩れてはいないのです。マタイによる福音書で、イエスさまは、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、分け隔てのない神の愛について教えられました。しかし、この16節で教えられていることは、それ以上のことであります。神さまは御自分に背き続けるすべての人間のために、その独り子をお与えになられるほどの愛を注いでくださったのです。それは、この世界に神さまから愛されていない人は一人もいないということであります。けれども、そのことを確認した上でもう一度申しますけども、独り子が与えられたことによって、自動的に、すべての人が永遠の命を得ることができるかと言えば、そうではないのです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますように、滅びから救われ、永遠の命を得ることができるのは、独り子を信じる者だけなのであります。「永遠の命」については、前回もお話ししましたが、大切なことですので、少し述べておきたいと思います。永遠の命、これは限りなく続く命というよりも、永遠なる神との交わりに生きることを意味しています。聖書は、すべての命の源が神さまにあると教えています。しかし、はじめの人間アダムは、神の掟に背くことによって、神さまとの交わりを失ってしまいました。人は命である神さまとの交わりを失ったとき、死すべきものとなったのです。しかし、神さまは、独り子を私たちと同じ人としてこの地上にお遣わしくださり、十字架にあげることによって、私たち人間がもう一度、永遠なる神の命に生きる道を切り開いてくださったのです。十字架にあげられたイエス・キリストの死が、ほかならないこのわたしの罪のためであったことを信じるとき、その人のすべての罪は赦され、神さまとの永遠の愛の交わりに生きる者とされるのです。人は、十字架に上げられた独り子を信じることによって初めて、自分が神さまから確かに愛されていることを確信することができるのです。それゆえ、イエス・キリストの十字架は、神の愛の確かなしるしなのです(一ヨハネ4:9、10)。

 天から降って来たイエス・キリストが、天上のこととして教えられたことは、永遠の命を得るためには、神が与えてくださった独り子を信じなくてはならないということでありました。なぜなら、独り子を信じることによってしか、神さまの胸の内にある愛へと到達することはできないからです。独り子を信じることなくして、神さまがどれほどこの世界を、そして、そこに住む私たち一人一人を愛してくださっているかを知ることはできないからです。そして、神さまの願いは、すべての人が独り子を信じて、この世界に注がれている愛を、自分に対する愛として正しく受けとめ、御自分との愛の交わりに生きることであったのです。17節に、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とありますように、神さまはすべての人が独り子を信じて、永遠の命を得ることを願っておられるのです。けれども、私たちを戸惑わせるのは、それに続く18節で、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」と記されていることであります。17節に、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためでなく」とあるのに、18節では「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」とあるのはどう繋がるのだろうかと疑問に思うわけです。この疑問を解く鍵は、独り子であるイエス・キリストの十字架の死が、神の裁きとしての死であったということであります。御子イエスを信じる者が裁かれないのはなぜか。それは、イエス・キリストが十字架において、私たちの身代わりに裁かれてくださったからです。罪の刑罰としての呪いの死を私たちに代わって死んでくださったからです。それゆえ、イエス・キリストを信じる者は裁かれることなく、すでに命へと移っている。他方、そのイエス・キリストを信じない者は、十字架の死を無意味なものとすることにより、自らを滅びへと定めてしまっているのです。ここで「裁く」と訳されている言葉は、「分割する」とも訳すことができます。神さまは、すべての人が独り子を信じて、永遠の命を得ることを願っておられますけども、しかし、その独り子を信じる者と信じない者が起こることによって、この世の人々が分割される。独り子を信じて永遠の命を得る人と、独り子を信じないで滅びに留まる人の二つに分割されるのです。神さまが、あなたは永遠の命ですよ、あなたは滅びですよと分割されるのではありません。神の独り子を信じるか信じないかというその人の自由と責任において、その人が自らを裁く、自らを滅びへと定めてしまうということが起こるのです。神の独り子であるイエス・キリストがこの地上に来られ、十字架において贖いの御業を成し遂げてくださった以上、すべての人が、独り子を信じるか、信じないかの決断を迫られているのです。わたしはどちらでもない、中立ですということはあり得ません。イエス・キリストの十字架おいて決定的に、また最終的に表された神さまの愛を受け入れるか、受け入れないかの決断を迫られているのです。神さまの愛を受け入れることが独り子を信じることであり、神さまの愛を受け入れないことが独り子を信じないということであるのです。そして、もし、信じないという決断をするならば、その人は自らを滅びへと定めてしまっているのです。もちろん、神さまの願いは、すべての人が独り子イエス・キリストを信じて、世に注がれた愛を自らへの愛として受け入れ、神さまを心から礼拝する者となることであります。けれども、ヨハネがこの福音書を記した時代、多くの人々は、まことの光として来られたイエス・キリストを信じようとはしなかったのです。19節、20節にこう記されています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」。

 ここでの「光」は、イエス・キリストのことであります。イエスさまが闇を照らす光として世に来られた。そうであるならば、人々は、光を信じるはずではないかと思う。けれども、実際は、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだと言うのです。そして、イエスさまは、「それがもう裁きになっている」と言うのです。イエスさまの時代、ユダヤ人たちは、死んだ後に、神の裁きがあると考えておりました。死んだ後に、この地上の生涯の総決算が神の御前に行われると考えていたのです。けれども、イエスさまは、死を待つことなく、この地上において、裁きが起こっていると言うのです。人々が光よりも闇の方を好むということによって、自らをすでに裁いてしまっていると言うのであります。「光よりも闇の方を好んだ」。この「好んだ」と訳されている言葉は、「愛した」とも訳すことができます。16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありましたが、それと同じ「愛する」という言葉がここで用いられているのです。神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛してくださいました。これはイエス・キリストの十字架において表された歴史的な事実です。けれども、人々は、命を与えるまことの光であるイエス・キリストよりも闇の方を愛した。そのようにして、神さまからの愛のプロポーズを断ったのです。先程、永遠の命とは、永遠なる神との愛の交わりであると申しました。私たち人間だけのことを考えてみても分かるように、愛の交わりは、相思相愛でないと成り立ちません。神さまは独り子をお与えになるという最大の証しをもって、わたしはあなたを愛していると、私たちにプロポーズしてくださった。そうしたら、「こんなわたしでよければ喜んで」と言って、神さまの愛を受け入れればよいのです。しかし、残念ながら、現在も多くの人々がこの神の愛を受け入れていないのです。いや、私たちがまだ十分に宣べ伝えていないわけであります。

 それでは、神の独り子の名を信じている私たちは、信じなかった人たちよりも、行いが良かったということになるのでしょうか。私たちは行いが良かったので、その行いが明るみに出されるのを恐れる必要がなかったので、光のもとに来ることができたのでしょうか。そうではないのです。私たちはここで、イエスさまがニコデモに語られた御言葉に戻らなくてはならないと思います。イエスさまは、ニコデモに、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」と仰せになりました。そして、さらに、その霊が、十字架に上げられ、復活し天へとあげられる御自分の霊であることを教えられたのです。ですから、イエス・キリストを私たちが信じていることは、私たちが上げられたキリストの霊によって、新たに生まれた者たちであることを教えているのです。21節に、「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」とありますが、私たちが光を信じることができたのは、神の導きによってなされたこと、神にあってなされたことなのです。天へと上げられたイエス・キリストの霊によって新たに生まれ、十字架に示された神の愛を、このわたしへの愛として正しく受けとめることができたのです。そして、この神の愛に突き動かされて、あなたも、どうぞ、イエス・キリストを信じてくださいと語りうる者とされたのです。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 この神の愛が、ここに集う私たち一人一人に注がれていることを、さらにはすべての造られた者たちに注がれていることを、この御言葉を口ずさむごとに、思い起こしたいと願います。そして、イエス・キリストの十字架に表された神の愛を、一人でも多くの人に証ししていきたいと願うのであります。

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