来て、見なさい 2009年3月08日(日曜 朝の礼拝)

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来て、見なさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章43節~51節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書 1章43節~51節

原稿のアイコンメッセージ

 何度も申しておりますように、ヨハネによる福音書は、第1章19節から第2章11節までを、7日間の出来事として記しております。この7日間は、イエスさまが何者であるかを証しする一週間と言えるわけですが、はじめの日と2日目は、洗礼者ヨハネの証しが記されていると言えます。そして、3日目、4日目、5日目は、弟子たちの証しが記されていると言えるのです。前回は、40節から42節に記されている4日目の出来事について学んだのでありますが、そこで、アンデレは、兄弟シモンにイエスさまをメシア、油を注がれた者と証ししておりました。そのようにしてシモンも、ペトロと呼ばれるイエスさまの弟子となったのです。イエスさまの弟子となったアンデレが、まだイエスさまのことを知らない兄弟シモンを連れてきた。このようにして、イエスさまの弟子がまた一人生まれたのでありました。今朝の御言葉は、その翌日、つまり5日目の出来事について記されています。43節、44節をお読みします。

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

 このとき既に、イエスさまのもとには3人の弟子がおりました。洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに従った二人の弟子、その内の一人はアンデレであり、もう一人は名前が記されておりませんけども、この福音書を記したゼベタイの子ヨハネであろうと思われます。そしてもう一人は、イエスさまにペトロという名前をいただいたシモンでありました。アンデレ、ヨハネ、ペトロ、この三人がこのとき既にイエスさまに従う弟子となっていた。そして、ここではさらに、イエスさまはフィリポを弟子として召し出されたのです。「フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」とありますけども、ベトサイダとは、ガリラヤ地方の町であります。聖書の巻末に、聖書地図がありますけども、その6に「新約時代のパレスチナ」とあります。その真ん中から少し上の方に、ガリラヤ湖がありますけども、その右上の方に、「ベトサイダ」と記されています。ベトサイダとは、「漁師の家」という意味でありまして、漁業の盛んな町でありました。ちなみに、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書において、最初にイエスさまの弟子となったシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネはいずれも漁師でありました。フィリポが漁師であったかどうかは分かりませんけども、彼はアンデレとペトロと同じガリラヤの町ベトサイダの出身であったのです。これはおそらく、フィリポがアンデレとペトロと既に面識があったことを表しているのだと思います。また、イエスさまが、ガリラヤへ行こうとしておられたことと関係があるのかも知れません。イエスさまがガリラヤへ行こうとしていることを知ったアンデレとペトロが、出身地の同じフィリポを紹介したと推測することもできますが、確かなことは、イエスさまがフィリポに出会ってくださって、「わたしに従いなさい」と言ってくださったということです。フィリポが弟子にしてくださいと願い出たのではなくて、イエスさまの方から、いわば一方的にフィリポを弟子とされたのです。イエスさまは、第15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と仰っていますが、この所を読むと本当にそうだなぁと思うのです。フィリポが、イエスさまについてどのような話しを聞いていたかは分かりませんけども、フィリポもイエスさまに出会って、「わたしに従いなさい」と言われて、ついて行った。フィリポもイエスさまの御言葉にとらえられたのです。そして、アンデレが兄弟シモンに証しをしたように、フィリポも友人であるナタナエルにイエスさまのことを証しするのです。45節、46節をお読みします。

 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

 前回、41節の「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って」の「会って」は、「見出す」「発見する」とも訳すことができると申しました。それと同じ言葉が、43節の「フィリポに出会って」にも、また45節の「ナタナエルに出会って」にも言うことができます。43節の「フィリポに出会って」は「フィリポを見出して」とも訳すことができるし、45節の「ナタナエルに出会って」は、「ナタナエルを見出して」とも訳すことができるのです。つまり、これらの出会いは、偶然にたまたま出会ったということではなくて、その出会いの背後に、ある明確な意図や熱心があったということであります。ここで、ナタナエルという人が出てきますが、この人は、ヨハネによる福音書にしか出てこない人であります。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書には、ナタナエルという名前の弟子は出てこないのです。それゆえ昔から、共観福音書の12使徒のリストに、フィリポと並んで出てくるバルトロマイと同一人物ではないかと考えられてきました。ナタナエルとは、「神が与えられたもの」という意味の名前でありますけども、バルトロマイは、「トロマイの息子」という意味です。ですから、バルトロマイの名前がナタナエルではなかったかと考えられてきたのです。先程、ナタナエルという弟子はヨハネによる福音書にしか出てこない弟子だと申しましたが、今朝の御言葉の他に、ナタナエルの名前が出て来るのは、第21章2節だけであります。第21章は、ガリラヤ湖で漁をしている弟子たちに、復活されたイエスさまが現れて、共に食事をしてくださった場面が記されておりますけども、その弟子たちの中に、「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」がいたと記されています。フィリポもガリラヤの町ベトサイダの出身でありましたけども、その友人ナタナエルもガリラヤの町カナの出身であったのです。このようにイエスさまの最初の弟子となった人たちは、いずれもガリラヤ地方の出身であったのであります。

 フィリポはナタナエルに出会って、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と証ししました。私たちが今、旧約聖書と呼んでいる書物を、当時の人々は、「律法と預言者」と呼んでおりました。ですから、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」とは、「旧約聖書に約束されている来るべきお方、救い主、メシアに出会った」ということであります。当時の人々は、神さまが遣わしてくださる救い主の出現を待ち望んでおりましたから、その約束の救い主を見出したフィリポは、いささか興奮していたのではないかと思います。そして、ナタナエルもフィリポの「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」という言葉を聞いたとき同じような興奮を覚えたと思うのです。けれども、その興奮は「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」という言葉を聞いてすぐに冷めてしまいました。ナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い返すのです。ナザレ、これはガリラヤ地方の一寒村です。旧約聖書に一度も名前の出てこない無名の町であります。そのナザレから、旧約聖書が預言してきた救い主が生まれるはずはないとナタナエルは言うのです。これを受けて、フィリポはただ「来て、見なさい」と言いいました。ナタナエルと議論をしたのでも、説得しようとしたのでもなく、「とにかく、イエスさまのもとに来て、実際に会ってみなさい。そうすれば分かる」と言ったのです。これは、私たちも見倣うべき伝道の仕方だと思うのです。まだイエスさまを知らない人に、イエスさまのことをお話しすると、いろいろと反論されることがあります。すると私たちはしばしばどうにか説得して、納得してもらってから、教会に来てもらおうするのです。けれども、フィリポはそのようにはしませんでした。ナタナエルの反論に答えようともせず、とにかくイエスさまのもとへ来て、見なさいと招いたのです。現代の私たちに当てはめて言えば、イエスさまのことを証しして、いろいろな反論されても、その場で議論をせずに、一度、礼拝に来て、見なさいとお招きする。天におられるイエス・キリストは、聖霊と御言葉において今もこの場に御臨在してくださいます。私たちは、礼拝において、イエス・キリストのご人格に触れることができる。目には見えませんけども、それぞれの心の奥底において、イエス・キリストと出会うことができるのです。それゆえ私たちも、「来て、見なさい」と人々を招くことができるのです。「来て、見なさい」。これは、39節で、イエスさまが仰った言葉でもあります。イエスさまを知るには、何より礼拝に出席して、イエスさまとの交わりにあずかる者とならねばならない。それゆえ、私たちは反論する人を説得しようとするよりも、「今度、一緒に教会に行きませんか」とお誘いする方が、しばしば有効であるのです。教会に実際に来て、礼拝を通して、イエスさまのご人格に触れていただく、イエスさまにお会いししていただく。そのようにして、私たちはその人を主イエスにお委ねするのです。

 47節から49節までをお読みします。

 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 イエスさまは、ナタナエルを見るなり、「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と仰せになりました。ある説教者は、このようにイエスさまから紹介していただいたナタナエルを自分は正直うらやましく思うと言っています。イエスさまから「この人には偽りがない」と言っていただけるナタナエルという人はいったいどういう人であったのでしょうか。「偽りがない」それは、二心がない。一筋の心に生きているということです。ここで、イエスさまが思い起こしていたのは、おそらく詩編第32編の2節ではないかと言われています。旧約聖書の詩編第32編1節から5節までをお読みします。

 いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。

 2節で、「心に欺きのない人は」とありますが、この「欺き」と訳されている言葉が、70人訳聖書、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳を見ますと、「この人には偽りがない」の「偽り」と同じ言葉で記されています。ですから、イエスさまがナタナエルについて「この人には偽りがない」と仰ったとき、それは罪を犯したことのない人という意味ではなくて、「偽りなく罪を認め、神さまに罪を告白し、神さまの赦しをいただいた人」という意味であるのです。私たちが「この人には偽りがない」と聞けば、ナタナエルは純粋で、汚れのない人物であったのだろうと思う。けれども、詩編第32編を背景とするならば、そうではないことが分かるのであります。ナタナエルは、自分の罪を認めることにおいて偽りがなかった。自分の罪を認め、主に赦しを祈り願う心において一筋であったのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。そもそも、洗礼者ヨハネは、イエスさまについて何と証しをしたか。洗礼者ヨハネは、イエスさまを指差して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのでありました。このところからお話ししたとき、わたしは洗礼者ヨハネが、その「世の罪」の中に、自分の罪が含まれていることを忘れてはいなかったと申しました。神の子であるイエスさまが十字架について死んでくださらなければ、取り除くことのできない罪がわたしの内にはある。そのことを洗礼者ヨハネは知っていた。だから、イエスさまを指差して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのであります。先程、いろいろな反論を投げかけてくる方には、自分でその反論に答えるよりも、礼拝に連れてきた方がしばしば有効であると申しました。しかし、そのときどのような人でも礼拝に来れば、イエスさまにお会いできるのか。イエスさまのご人格に触れることができるのかと言えば、残念ながらそうではないのです。そこで、その人の心のあり方が問われる。偽りなく神さまの御前に自分が罪人であることを認める心が求められるのです。ナタナエル。この名前は「神が与えられたもの」という意味であると申しました。そして、ヨハネによる福音書は、弟子たちのことを「神から与えられたもの」と記しているのです。第6章37節でイエスさまはこう仰せになっています。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」。また、第17章24節でもイエスさまはこう祈っております。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」。このようにイエスさまは弟子たちを「父が与えてくださったもの」、すなわちナタナエルと呼んでいるのです。ですから、昔からある一つの解釈は、ナタナエルを弟子の象徴であると解釈するのです。以前に、ヨハネによる福音書の一つの特徴は、一つの言葉に二つの意味を持たせて記すことであると申しました。福音書記者ヨハネは、一つの言葉に、表面上の意味とその裏側にある深い意味を持たせるという文学的技法を好んで用いているのです。そのことは、今朝のナタナエルについても言うことができると思います。ナタナエルは、カナ出身の弟子の一人でありながら、同時に、神がイエスさまに与えられたすべての弟子たちを表しているのです。父なる神がイエスさまに与えてくださった者たち、そのような意味から言えば、ここに集う私たち一人一人がナタナエルなのであります。私たちも、偽りがない心で、主イエスにお会いするために、礼拝のはじめに、罪を告白し、神の赦しを祈り求めたのです。

 「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。このイエスさまの御言葉を聞いて、ナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と驚きました。イエスさまは、アンデレの兄弟シモンの名を知っておられたように、ナタナエルがどのような人物であるかを知っておられた。そればかりか、ナタナエルがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見ておられたのです。いちじくの木の下は、言うまでもなく涼しい木陰でありまして、そこは、教師から御言葉を学んだり、御言葉を想い巡らす場でありました。イエスさまは、いちじくの木の下で御言葉を想い巡らすナタナエルの姿を見ておられたのです。このイエスさまの御言葉を受けて、ナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白するのです。これは、単に、イエスさまが遠隔地で起こった出来事を知っていたという超自然的な力に驚いてのことではなかったと思います。むしろ、ナタナエルが驚いたことは、自分がいちじくの木の下で想い巡らしていた御言葉、神さまへの祈りをイエスさまが知っておられたということではないでしょうか。先程、イエスさまの「この人には偽りがない」という御言葉は、詩編第32編2節を背景としていると申しました。そうであれば、ナタナエルがいちじくの木の下にいたとき、想い巡らしていた御言葉こそ、この詩編第32編ではなかったかと思うのです。詩編第32編は悔い改めの詩編と言われておりますけども、この御言葉を想い巡らしながら、自らの罪を神に告白し、主に赦しを祈り求めていたと考えられるのです。ナタナエルが、いちじくの木の下で詩編32編の御言葉を想い巡らしていたことを前提として、もう一度、詩編32編を開いてみたいと思います。少し長いですが、詩編32編全体をお読みします。

 いかに幸いなことでしょう/背きの罪を赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

 今朝の御言葉で特に注目したいのは8節であります。「わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」。この8節の御言葉に対応するかのように、イエスさまは、あなたに目を注いでいたとナタナエルに語ったのです。すなわち、ここでナタナエルは、あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えられるお方こそ、イエスさまであることを知らされたのであります。それゆえ、ナタナエルはイエスさまに対して、「ラビ、あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白せずにはおれなかったのです。そして、順番は逆になりますけども、イエスさまを神の子であり、王と告白する者こそ、まことのイスラエル人なのであります。イスラエル、これは民族というよりも、神の民を表す名称であります。まことのイスラエル人とはどのような者をいうのか。それはイエスさまに対して、「あなたは神の子です。あなたは王です」と告白する者のことなのです。イエスさまを神の御子であり、王であると告白するならば、その人はまことのイスラエル人、まことの神の民なのです。

 ヨハネによる福音書に戻りまして、第1章50節、51節をお読みします。

 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 イエスさまは、ナタナエルに、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と告げました。もっと偉大なこととは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見る」ということであります。それをイエスさまは神の子としての権威をもって断言してくださったのです。ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。新改訳聖書は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と訳しておりました。これは、イエスさまが御自身の権威をもって発言されるときの決まった言い回しであります。イエスさまは神の子としての権威をもって「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と宣言してくださいました。ナタナエル一人だけではありません。「あなたがたは見ることになる」とありますように、イエスさまを信じるすべての弟子たちが、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見るのです。このイエスさまの御言葉は、旧約聖書の創世記第28章を念頭において記されています。創世記の第28章には、兄エサウの祝福をだまし取って、家から逃げ出した族長ヤコブが見た夢について記されています。10節から17節までをお読みします。

 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神の御使いたちがそれを昇ったり降ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れて帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

 イエスさまが、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と仰せになったとき、族長ヤコブの見た夢を念頭においていたことは明かであります。ヤコブは、先端が天まで達する階段を地に向かって伸びており、その階段の上を天使が上ったり下ったりしている光景を夢で見ました。そして、イエスさまは、その階段こそが「人の子」、つまり御自分であると言われたのです。イエス・キリストという階段を通して、天と地の交わり、すなわち、父なる神と私たち人間の交わりが実現するのをあなたがたは見ると言われたのです。イエス・キリストにおいて、ここはまさしく神の家だ、天の門だと言える祝福が実現するのであります。私たちは今朝も、イエス・キリストの御名を通して、父なる神に礼拝をささげております。そして、この礼拝において、私たちは天が開け、神の天使たちがイエスさまを通して上り降りするのを見ているのです。イエス・キリストの御名によってささげられるこの礼拝において、神が共にいてくださるという祝福にあずかっているのです。そしてそれは、この礼拝に限られない、いつでもどこでも私たちに開かれている天の祝福なのであります。

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