新しい名を与える方 2009年3月01日(日曜 朝の礼拝)

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新しい名を与える方

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章35節~42節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。ヨハネによる福音書 1章35節~42節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ヨハネによる福音書第1章35節から42節までをお読みしましたが、今朝は、40節から42節までを中心にしてお話しをいたします。

 福音書記者ヨハネは、第1章19節から第2章11節までを7日に渡る出来事として記しております。改めて確認しますと、第1章19節から28節までに第一の日の出来事が、29節から34節までに第二の日の出来事が、35節から39節までに第三の日の出来事が、40節から42節までに第四の日の出来事が、43節から51節までに第五の日の出来事が、一日飛んで、第2章1節から11節までに第七の日の出来事が記されいます。これ以降、福音書記者ヨハネは、このような日の移り変わりに言及しておりませんので、第1章19節から第2章11節までは、あるまとまりをもった記述であると言うことができます。福音書記者ヨハネは、「洗礼者ヨハネの証し」から「カナでの婚礼」までを7日間、つまり1週間の出来事として記しているわけでありますが、それはどのような1週間であったかと言えば、イエスさまを証しする1週間であったと言えます。福音書記者ヨハネは、イエスさまについての証しをこのところにまとめて記しているのです。実際、この所には、イエスさまがどのようなお方であるかが、惜しみなく、ふんだんに証しされています。洗礼者ヨハネは、イエスさまについて、「世の罪を取り除く神の小羊」、「聖霊によって洗礼を授ける人」、「神の子」と証ししました。また、アンデレは、イエスさまのことを「メシア -油を注がれた者-」と証ししています。さらにフィリポは、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」と証しし、ナタナエルは、「神の子」、「イスラエルの王」と証しするのです。このように、第1章19節から第2章11節までに記されている7日間は、イエスさまが何者であるかを証しする一週間であると言えるのです。

 ところで、1週間と聞いて気に掛かるのが、曜日のことであります。どの日が、何曜日にあたるのだろうか。それを知る手がかりが、第7日目に行われた「カナでの婚礼」にあります。ユダヤの伝統では、婚礼は、第4の日、つまり水曜日に持たれておりました。ですから、カナでの婚礼は、水曜日の出来事であったと推測することができるのです。そうしますと、これから学ぼうとしている40節から42節までは、土曜日の出来事、つまり当時の安息日の出来事であったことが分かるのです。いや、安息日ということを厳密に言うならば、その前日のイエスさまのもとに泊まった晩から安息日は始まっていたのです。当時のユダヤの暦では、日没から日没までが1日でありました。金曜日の夕方から土曜日の夕方までが安息日であったのです。つまり、二人の弟子は、安息日にイエスさまのもとに泊まったのです。そして、その安息日の朝の出来事が、今朝の御言葉に記されているのです。

 40節をお読みします。

 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。

 この所から、洗礼者ヨハネと一緒にいた二人の弟子の一人がアンデレであったことが分かるのですが、もう一人が誰であったかは記されておりません。これについては前回も申し上げましたが、おそらく、この福音書を記しているヨハネ自身であると考えられます。アンデレとヨハネ、この二人の弟子が、洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエスさまの最初の弟子となったのです。それにしても、ここで気になるのは、アンデレの紹介の仕方であります。「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」こう記されておりますけども、この書き方は、読者がシモン・ペトロを知っていることを前提としています。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書を読めば、シモン・ペトロは、弟子の筆頭格でありますし、12使徒のリストには、初めにその名前を連ねております。また、使徒言行録を見ましても、シモン・ペトロは、初代教会の礎を築いた中心的な弟子の一人として描かれています。このことは、使徒パウロも認めるところでありまして、パウロは、ガラテヤ書で、エルサレム教会の柱と目される弟子の一人として、ケファ、すなわちペトロの名前を挙げています。このようにヨハネによる福音書が書かれた時代の教会において、シモン・ペトロは誰もが知っている有名な人物であったのです。イエスさまの弟子の筆頭格であり、初代教会の礎を築いたシモン・ペトロが、そもそもどのようにしてイエスさまのもとへと導かれたのか。ヨハネによる福音書は、その兄弟アンデレの証しを通してであったと記すのです。41節をお読みします。

 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア -『油を注がれた者』という意味- に出会った」と言った。

 このときのアンデレの姿を想像しますと、そうとう興奮していたのではないかと思います。何より、彼はメシアに出会ったのでありますから、誰かに伝えたくてしかたなかった。そして、まずはじめに自分の兄弟シモンにイエスさまのことを伝えたのです。ここで「兄弟シモンに会って」とありますが、この「会って」と訳されている言葉は、「探して見出す」とも訳すことができます。この時、アンデレは、偶然、兄弟シモンに会ったというよりも、メシアに出会ったという喜びの知らせを伝えようと兄弟シモンを探して見出したのです。アンデレが、まず福音を伝えたのが、家族であり、兄弟であるシモンであったことを、私たちも今朝心に留めたいと思います。先程、今朝の御言葉は、安息日の出来事であると申しましたけども、私たちも、礼拝を終えて、自分の家に帰るなり、「メシアに出会った」と証ししたいと思うのです。礼拝において、目には見えませんけども、イエス・キリストに出会う。その喜びに押し出されて、私たちも家族のものをこの所へと連れてきたい。その励ましをこのところに見ることができると思います。ここに記されているのは、最も基本的な伝道のあり方であります。私たちは、伝道は難しい、難しいと言うのですけども、そんなに難しく考える必要はないのかも知れない。伝道とは、文字通りに言えば、道を伝えることであります。私たちにとって道とはイエスさまのことでありますから、伝道とは言わば、イエスさまを伝えることです。そして、それは既に人間関係のできている親しい人に、「私たちはメシアに出会った」と証しすることから始まるのであります。

 メシアとは、「-『油を注がれた者』という意味-」と説明されておりますが、口語訳聖書は、この所を「訳せばキリスト」とカッコ書きで説明しておりました。この口語訳の方が原文に近いのです。原文を見ますと、ここに、クリストス、キリストという言葉が出てくるのです。メシア、これはもともとはユダヤの言葉、ヘブライ語であります。そのヘブライ語であるメシアを、ギリシア語に訳すると、キリストになると記されているわけです。そして、さらに新共同訳聖書は、そのキリストをていねいに「油を注がれた者」と訳したのです。「油を注がれた者」。この称号は、イスラエルにおいて、大祭司や王が任職する際に、油を注ぐ儀式をしたことを由来としています。この油は、神さまの特別な賜物を表しておりまして、これが後に神の霊、聖霊を表すと理解されるようになりました。当時、ユダヤの民は、決定的な救いをもたらす救い主、メシアの出現を待ち望んでいたのですが、それは、旧約聖書の預言に基づいてのことでありました。旧約聖書のメシア預言の代表的なものに、例えば、イザヤ書第11章があります。「平和の王」と小見出しがつけられておりますけども、ここでは1節から5節までをお読みします。

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその実に帯びる。

 このようなメシア預言に親しんでいたがゆえに弟子たちは、「わたしたちはメシアに出会った」、「メシアを見出した」と証しすることができたのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 前回申し上げましたが、イエスさまを先生と呼んでいた弟子たちが、イエスさまをメシアと呼ぶ者に変えられたのは、弟子たちが、イエスさまがどこに泊まっておられるかを見て、イエスさまのもとに泊まったからでありました。その意味するところは、弟子たちが、イエスさまが父なる神のもとに留まっておられるのを見、そして彼ら自身もイエスさまのうちに留まるものとなったということです。ちょうど、枝がぶどうの木につながっているように、彼らはイエスさまとつながって生きるものとなった。それゆえ、その朝、アンデレは兄弟シモンに「わたしたちはメシアに出会った」と証しすることができたのです。しかし、イエスさまがメシアであること、これは二人の弟子がここで初めて発見したというよりも、彼らの前の先生である洗礼者ヨハネが既に証ししていたことでありました。32節から34節までをお読みします。

 そしてヨハネは証しした。「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方のうえにとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 先程、メシア預言の代表的な個所としてイザヤ書の第11章をお読みしましたけども、そこには、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」とありました。まさに、ヨハネが目撃したのは、そのイザヤの預言の成就であったのです。ヨハネは、聖霊が鳩のように天から降って、イエスさまの上にとどまるのを見たのです。ここで「とどまる」と訳されている言葉は、38節、39節で、「泊まる」と訳されている言葉と同じ言葉であります。先程、弟子たちが、イエスさまがどこに泊まっておられるのかを見たことは、イエスさまが父なる神のもとに留まっておられるのを見たという意味であると申しました。弟子たちは、イエスさまが父なる神のもとに留まっているのを見た。それはもう少し丁寧に言えば、父なる神が、聖霊において、イエスさまのうちに留まり続けておられるのを見たということです。洗礼者ヨハネは、その肉の眼で、霊が鳩のように天から降ってイエスさまの上にとどまるのを見たのでありますが、その証言を聞いた弟子たちは、信仰の眼で、イエスさまのうちに父なる神の霊が宿ってくださっていることを見たのです。それゆえ、アンデレは、兄弟シモンに「わたしたちは油を注がれた者に出会った」と証しをすることができたのです。そして、兄弟シモンをイエスさまのもとへと連れて行ったのであります。イエスさまとシモンの出会いがどのような出会いであったのか。ヨハネはこれ以上ないほどに簡潔に記しています。42節をお読みします。

 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ -『岩』という意味- と呼ぶことにする」と言われた。

 驚くべきことに、イエスさまは、アンデレが連れてきた男が、ヨハネの子シモンであることをご存じでありました。イエスさまは、第10章で、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っている」と仰っていますが、イエスさまは御自分の民が誰であるか。その一人一人の名前を知っているくださるのです。シモンだけではありません。私たち一人一人の名前を主イエスは知っていてくださるのです。私たちがイエスさまを知る前から、イエスさまは私たち一人一人を知っていてくださった。ここに、まことに大きな慰めがあるのです。

 イエスさまは、アンデレの連れてきた男が、ヨハネの子シモンであることを言い当てた後で、「あなたをケファと呼ぶことにする」と仰せになりました。新共同訳聖書は、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」と一つの文として記しておりますが、原文では、2つの文に分けて記されています。ですから、口語訳聖書は、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたはケパと呼ぶことにする。」と2つに分けて訳しているのです。わたしも、このところは、ちゃんと二つの文に分けて翻訳した方がよいと思います。新共同訳聖書の翻訳ですと、読み方によっては、ヨハネの子シモンであるということが否定的な意味を持つように読まれる危険があるからです。しかし、原文に則して、このイエスさまの御言葉を二つの文に分けて訳すならば、その危険はなくなると思います。ここでイエスさまは、ヨハネの子シモンに、ケファという新しい名前をお与えになりました。「ケファ」とは、その説明にありますように、「岩という意味」です。「岩」は、聖書において、確固とした不動の基礎の象徴であります。そして、この岩と訳されているギリシャ語がペトロなのです。ヘブライ語のケファは、ギリシア語に訳すとペトロとなる。それゆえ、ヨハネの子シモンは、ペトロとも呼ばれるようになったのです。聖書において、新しい名前を与えられるということは、それは新しい使命を授けられたことを意味しております。イエスさまは、シモンがまだ何もせずに、何も語らぬ先に、あなたは、岩と呼ばれるようになる。つまり、あなたは、キリスト教会の礎を築く中心的な弟子となると言われたのです。イエスさまは、シモンが、そのような人物となることを、すべてのことを見通すその眼差しで見ておられたのです。ここで、イエスさまは、「あなたをケファ、ペトロと呼ぶことにする」と仰っておりますが、しかし、そのことは、シモンがヨハネの子シモンであることを否定するものではありません。聖書は、イエス・キリストを信じる者は、新しく造られた者であると教えておりますが、それはイエス・キリストを信じる前の自分をすべて否定しなければならないということではないのです。イエスさまは、「あなたはヨハネの子シモンである」と言われた後に、「あなたはケファと呼ばれるようになる」と仰せになりました。まず、アンデレの連れてきた男が、ヨハネの子シモンであることを認めてくださったうえで、あなたはペトロと呼ばれるであろうと言われたのです。先程、イエスさまが、私たち一人一人の名前を知っていてくださると申しました。それは言い換えれば、私たち一人一人を今ありのままの姿で受け入れてくださっているということであります。私たちのあらゆる弱さと欠点をひっくるめて、イエスさまはありのままの私たちをまず受け入れてくださる。その上で、私たちを新しい存在へと変えてくださるのです。私たちにキリストの教会を建てるという使命をお与えになることによって、私たちをもペトロと呼んでくださるのです。

 ある説教者は、この「あなたはケファと呼ばれであろう」というイエスさまのお言葉を聞いたとき、側にいたアンデレは笑ってしまったのではないかと想像しております。自分の兄弟が、どれほどおっちょこちょいで当てにならない男かを知っていたアンデレは、シモンが、岩、ペトロと呼ばれるであろうとは、とても信じられなかったというのです。けれども、事実イエスさまは、そのおっちょこちょいで当てにならないペトロを、キリストの教会の礎となる岩とされたのであります。ペトロの内に、岩となるような隠れた本質があって、イエスさまがそれを見抜かれたというのではありません。イエスさまが、おっちょこちょいで当てにならないペトロを、不動な岩に変えられたのです。どのようにしてか。それは、イエス・キリストを愛する者とすることによってであります。最後の第21章に、復活されたイエスさまが「わたしを愛するか」と、ペトロに三度尋ねる場面が記されています。第21章15節から17節までをお読みします。

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、わたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 このことは明らかに、ペトロがイエスさまとの関係を三度否定したことと対応しています。復活されたイエスさまは、自分との関係を三度否定したペトロに、「わたしを愛するか」と三度問うてくださったのです。そのようにして、イエスさまとの関係を三度否定したシモンの子ヨハネを、ペトロと呼ばれるに値する弟子としてくださったのです。この第21章の前の第20章には、復活されたイエスさまが弟子たちに息を吹きかけられ、「聖霊を受けなさい」と言われたことが記されています。わたしは、第20章のイエスさまが聖霊を与えられた記事と、第21章のイエスさまがペトロに「わたしを愛するか」と三度問われた記事とを切り離して読んではならないと思います。なぜなら、弟子たちに与えられた聖霊は、イエス・キリストを信じる霊、イエス・キリストを愛する霊であるからです。シモンの子ヨハネが、ペトロと呼ばれるに値する者となれたのは、ただイエスさまが三度「わたしを愛しているか」と問うてくださったことによるのではありません。その前にイエスさまは、ペトロに、主イエスを愛する霊、聖霊を与えてくださっていたのです。いわば、イエスさまは、聖霊を与えることによって、ペトロを御自分を愛する者としてくださったのです。ですから、ペトロは、イエスさまから「わたしを愛しているか」と問われて、三度とも「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。主イエスを愛する愛の確かさ、それはこのわたしの内にあるのではない。あなたの内にある。あなたが与えてくださる聖霊のうちにある。そのことに知ったとき、ヨハネの子シモンは、ペトロとなったのです。このことは、ペトロだけのことではありません。私たちにも、ペトロと同じように、主イエスを愛する聖霊が与えられているのです。それゆえに、私たちもペトロであると言えるのです。

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