言(ことば)は肉となった 2009年1月25日(日曜 朝の礼拝)

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言(ことば)は肉となった

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。ヨハネによる福音書 1章14節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 第1章1節から18節までは、ヨハネによる福音書の序言、プロローグとも言われます。プロローグという言葉を辞書で引いてみますと、このように記されておりました。「音楽・戯曲・小説などで、作品全体の流れや意図を暗示する前置きの部分」。プロローグとは、作品全体の流れや意図を暗示する前置きの部分である。こう聞きますと、なるほど、1節から18節までは、ヨハネによる福音書のプロローグであると言えるのであります。11節に「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とありましたが、これはイスラエルの王であるイエスさまをユダヤの民が拒み、十字架につけてしまったことを暗示しているわけです。1節から18節までがヨハネによる福音書の序言、プロローグであることを覚えながら、今朝は14節以下を御一緒に見ていきたいと思います。

 14節をお読みします。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ここで、再び「言」がでてきます。1節で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されていた、あの「言」です。永遠から神さまと共におられ、神さまと同じ本質を持つ言が、肉となった。そうヨハネは記すのです。「肉」とは、肉体のこと、人間の性質のことを表しています。永遠から神さまと共におられ、神さまと同じ本質を持つ言が、人間性をお取りになり、罪を別にして私たちと同じ人となられたというのです。先程は、御一緒に降誕の讃美歌を歌いましたけども、ここに記されていることは、まさにクリスマスの出来事であります。永遠なる神の御子が、私たちと同じ人となってくださった。そのようにして、わたしたちの間に宿られたのです。ここで「宿られた」と訳されている言葉は、「天幕を張って住む」とも訳すことができます。その昔、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトから脱出し、荒れ野を旅したことが旧約聖書に記されています。そのとき、神さまは、御自分がイスラエルの民と共にいることを表すために、臨在の幕屋を造るようにと命じられました。出エジプト記の第25章8節、9節で主なる神はモーセにこう仰せになりました。

 わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。

 こうして、いろいろなものの作り方が記されていくわけですが、出エジプト記の最後、第40章を見ると、モーセが主に命じられたとおりに行い、その幕屋に主の栄光が満ちたと記されています。第40章34節から38節までをお読みします。

 雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。

 このように主なる神は、臨在の幕屋を造らせ、そこに留まることによって、御自分がイスラエルの民を導かれる主であることを示されたのでありました。福音書記者ヨハネが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記したとき、臨在の幕屋に留まり御栄光を現された、主なる神を思い起こしていたのです。ここでの「栄光」とは、本来神さまにのみ属する栄光のことです。その栄光を、私たちは肉となった言であるイエス・キリストに見たと言うのです。かつてイスラエルの民が臨在の幕屋に満ちた主の栄光を見たように、私たちはイエス・キリストに主の栄光を見たと言うのであります。この「見た」は、ただ物理的に見たということだけではありません。臨在の幕屋に満ちた主の栄光は、雲としてイスラエルのすべての人に見えたとありましたけども、誰もがイエス・キリストに父の独り子としての栄光を見たわけではないのです。イエスさまを十字架につけるユダヤの最高法院やポンテオ・ピラトは、イエスさまを物理的には見ても、そこに父の独り子としての栄光を見出すことはありませんでした。ですから、この「見た」は、物理的に見たということではなくて、信仰の眼差しをもって「見た」ということなのです。つまり、このプロローグは、すでにイエス・キリストの復活の光の中で記されているということです。ある人は、「ヨハネによる福音書の序言は、この福音書を一度最後まで読んで戻って来たとき、よく分かる」と申しております。それは、復活の光の中で、この序言を読むとき、よく分かるということです。前回、洗礼者ヨハネのおもな働きが、イエスさまについて証しをすることであると申しましたが、このことは、福音書記者ヨハネにもそのまま言えるわけです。ヨハネによる福音書そのものが、イエス・キリストこそ、神の御子、救い主であると証しをする書物であるのです。復活のイエス・キリストにまみえ、聖霊をいただいたヨハネが、かつて共に歩んだイエスさまのお姿を思い起こしながら、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記しているのであります。

 15節をお読みします。

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 ここで、再び洗礼者ヨハネについて記されております。前回も申し上げましたが、6節から8節までの洗礼者ヨハネについての記述は、散文で記されていることから、福音書記者ヨハネが書き加えたものと考えらています。そして、このことはこの15節においても言えることなのです。ヨハネは、この序言、プロローグを、当時の教会で歌われていた讃美歌を一つの資料として記しました。しかし、6節から8節までと15節にある洗礼者ヨハネについての記述は、福音書記者ヨハネが挿入したものと考えられているのです。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである。」この言葉は、30節でも引用されていますから、どうやら洗礼者ヨハネがイエスさまについて証しをする際の決まり文句であったようです。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」。ヨハネはなぜこのようなことを言わねばならなかったのでしょうか。それは、あとから登場してくる人物は、その人の弟子と思われていたからです。前回も申し上げましたが、この福音書が記された時代、洗礼者ヨハネを光と信じる弟子たちの群れがありました。そして、その者たちは、イエスさまよりも洗礼者ヨハネの方が優れていると考えていたのです。イエスさまを洗礼者ヨハネの弟子であったとさえ考える者たちがいたのです。そのような者たちを意識しつつ、福音書記者ヨハネは、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」という洗礼者ヨハネの言葉を記すのです。洗礼者ヨハネが「わたしよりも先におられたからである」と語るとき、これは地上の出生だけのことを言っているのではありません。ルカによる福音書第1章36節によれば、ヨハネはイエスさまよりも6か月はやく生まれました。地上の出生だけを考えるならば、ヨハネの方が先に成ったのです。ですから、ヨハネが、「わたしより先におられたからである」と語るとき、それは肉となった言、永遠から神と共におられ、神と同じ本質を持つ言について述べているのです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と仰るイエス・キリストについて述べているのであります。ヨハネが声を張り上げて証しした人物こそ、肉となった言葉、イエス・キリストであったのです。そして、この洗礼者ヨハネの証しに続いて、福音書記者ヨハネの言葉が続くのであります。16節をお読みします。

 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

 イエス・キリストのうちに、善きものが満ちあふれていた。これは、「言は神であった」ことを思い起こすならば、当然のことかも知れません。14節に「言は肉となった」とありましたけども、それは神と同じ本質を持つ言がその神と同じ本質を捨ててしまったのではありません。ましてや、言が肉をなったときに、はじめて人格的な存在となったのでもないのです。1節にありましたように、永遠の初めから、言は神と共に向き合う人格的な存在、神そのものであられたのです。神の独り子である言が、肉体をとり、罪を別にして私たちと同じ人となってくださった。言は、まことの神でありつつ、まことの人となられた。それが、ヨハネがここで記す、イエス・キリストのお姿であります。ですから、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と証しすることができたのです。また、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と証しすることができたのであります。「恵みの上に、更に恵みを受けた」。恵みが尽きることなく流れ出てくる。そのようにイエス・キリストというお方は、恵みでいっぱいのお方、尽きぬ湧き出る泉のようなお方なのです。16節に、「わたしたちは皆」とありますけども、ある人は、ここにイエスさまの恵みが無尽蔵であることが表されていると指摘しています。イエスさまの恵み、それは御自分を信じる者たちが、何人であっても、何万人、何億人であっても、ちゃんと行き渡る恵みであるというのです。足りなくて、わたしのところには恵みが少ししか与えられなかった、ということはないのでありまして、イエスさまを信じるすべての人が、「恵みの上に、更に恵みを受けた」と感謝することのできる満ちあふれる豊かな恵みなのです。そうであれば、この「わたしたちは皆」という言葉の中に、ヨハネの教会だけではなくて、現在の私たちも含まれていると言えるのです。私たちも「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と言うことができるのです。この恵みがどれほどすばらしいものであるのか。ヨハネは、17節、18節でモーセを引き合いに出して、こう語っております。

 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 ここに「恵みと真理」という言葉がでてきます。この「恵みと真理」は14節にもでてきたのですが、これは旧約聖書において、神さまの御性質を表す決まった言い回しであります。旧約聖書では「慈しみとまこと」と言われています。「慈しみとまこと」に満ちておられるお方、それは主なる神さまお一人であると旧約聖書は記しているわけです。この17節を記すにあたって、福音書記者ヨハネが思い起こしていたのは、出エジプト記の第34章6節であると言われています。出エジプト記の第34章6節、7節をお読みします。

 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

 6節の終わりに「慈しみとまことに満ち」という言葉がありました。これをヨハネは「恵みと真理とに満ちていた」と言い表しているわけです。そして、その「慈しみとまこと」・「恵みと真理」は、イエス・キリストを通して現れたというのであります。ここで、ヨハネがモーセとイエス・キリストを比較し、イエス・キリストがどれほど優れたお方であるかを語っていることは明かであります。神の御心である律法は、モーセを通して与えられました。けれども、イエス・キリストは、神そのものをあらわしてくださるのです。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」。この言葉は、慈しみとまことに満ちた主なる神が、イエス・キリストにおいて御自身を現してくださったことを教えているのです。イエス・キリストこそ、主なる神の慈しみとまことが肉体をとって歩まれたお方であるとヨハネは言うのです。16節に「恵みの上に、更に恵みを受けた」と記されておりましたが、これは「恵みの代わりに、恵みを受けた」とも訳すことができます。モーセを通して与えられた律法という恵みに代えて、さらに大きな恵み、神そのものであるイエス・キリストという恵みを受けた。こう読むこともできるのです。モーセを通して与えられた律法、これは神さまの御意志でありますから、大きな恵みであります。けれども、その書かれた言葉よりも、その言葉を記した神御自身が与えられることの方がより大きな恵みと言えるのです。その大きな恵みを神さまは独り子であるイエス・キリストを通して与えてくださったのです。

 18節に「いまだかつて、神を見た者はいない」とありますけども、これもモーセを意識した言葉であると思われます。出エジプト記の第33章に、主なる神とモーセのやりとりが次のように記されています。第33章18節から23節までをお読みします。

 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろかを見るが、わたしの顔は見えない。」

 ユダヤ人から最も尊敬されていたモーセも、神の顔をみることはできませんでした。けれども、肉となった言であるイエス・キリストはそうでありません。この方は「父のふところにいる独り子である神」なのです。「父のふところにいる」。これは「最も親密な交わりにあること」を意味しています。肉となった言、独り子である神は、永遠から父なる神との愛の交わりに生きておられるるお方なのです。言が肉となってからもそうです。父なる神との親しい交わりは、言が肉となってからも中断されることはありませんでした。それゆえ、イエスさまは弟子たちに「わたしを見た者は、父を見たのだ」と語ることができたのです。そして、そのようなお方だけが、神さまがどのようなお方であるかを私たちに示すことができるのです。ここで「示す」と訳されている言葉は、神の神秘を解き明かす決まった言い回しであると言われています。ですから、新改訳聖書は、このところをこう訳しているのです。「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

 先程、出エジプト記の第33章を読んで、モーセも神の顔を見ることはなかったことを確認しましたけども、実は、そのすぐ前の第33章11節を見ると、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」と記されています。私たちはこれをどう理解したらよいのでしょうか。わたしはこう考えます。そもそも神は霊であられ、肉体をお持ちではないのですから、「顔と顔を合わせて語り合う」という言葉は、文字通りに理解するのではなくて、擬人法として、神との親しい交わりを意味していると理解すべきであると。そもそも、ヨハネが「いまだかつて、神を見た者はいない」と語るとき、それは神のお姿を見たかどうかというような外面的なことを言っているのではありません。ある人は、「神を見た者はいない」の「神」には、もとの言葉では冠詞がついていないことに着目して、ここでの「神」は「神の本質」を示すと述べております。神の本質、神の心の奥底にあるもの。神の本心。それをだれも知っているものはいない。それが「いまだかつて、神を見た者はいない」という言葉の意味するところであります。神さまのお心に奥底に何があるのか。それを示してくださったのが、父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストなのです。ここで「ふところ」と訳されている言葉は、直訳すると「胸」となります。ふところにいる者とは、父の胸の内を知っている者ということです。父と子との永遠の愛の交わりに生きるイエス・キリストだけが、神の心の奥底にあるものを知っており、それを示すことができるのです。神の胸の内にはどのような思いがあったのか。それを端的に言い表しているのが、第3章16節の御言葉であります。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。      

 神さまの胸のうちにある煮えたぎるような思い、それは私たちに対する愛であります。その父なる神の愛を私たちに知らせるために、ロゴスであるキリストは肉となり、私たちの間に宿られたのです。そればかりか、イエス・キリスト御自身も私たちを愛して、十字架へとおつきになられたのです。独り子を与えられるほどに、私たちを愛してくださる神さまを、一体だれが想像することができたのでしょうか。昨年、自分は神だと言って、無差別に人を殺すという痛ましい事件が起こりました。なぜ、このようなことが言えるのか。それはその人がイエス・キリストを通して御自身を現されたまことの神さまを知らなかったからです。イエス・キリストにおいて御自身を現されたまことの神さまは、無差別に人を殺すようなお方ではありません。むしろ、人を本当に生かすために、十字架の上で殺されてしまうお方なのです。私たちは、ただイエス・キリストの十字架を通して、神さまの栄光を見、神さまが慈しみとまことに満ちたお方であることを知るのです。この説教のはじめに、「プロローグとは、作品全体の流れや意図を暗示する前置きの部分である」と申しましたけども、14節の恵みと真理に満ちた栄光こそ、イエス・キリストの十字架において現された栄光であったのです。ヨハネは、十字架につけられたイエス・キリストのお姿に、信仰の眼差しをもって栄光を見たのです。そして、それはここに集う私たちにも言えることなのであります。十字架のもとで行われるこの礼拝において、私たちは信仰の眼差しをもって、独り子の栄光を見て、父なる神をほめたたえているのです。

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