ヤコブの埋葬 2014年6月15日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの埋葬

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 50章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

50:1 ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。
50:2 ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした。
50:3 そのために四十日を費やした。この処置をするにはそれだけの日数が必要であった。エジプト人は七十日の間喪に服した。
50:4 喪が明けると、ヨセフはファラオの宮廷に願い出た。「ぜひともよろしくファラオにお取り次ぎください。
50:5 実は、父がわたしに誓わせて、『わたしは間もなく死ぬ。そのときは、カナンの土地に用意してある墓にわたしを葬ってくれ』と申しました。ですから、どうか父を葬りに行かせてください。わたしはまた帰って参ります。」
50:6 ファラオは答えた。「父上が誓わせたとおりに、葬りに行って来るがよい。」
50:7 ヨセフは父を葬りに上って行った。ヨセフと共に上って行ったのは、ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべて、
50:8 それにヨセフの家族全員と彼の兄弟たち、および父の一族であった。ただ幼児と、羊と牛の群れはゴシェンの地域に残した。
50:9 また戦車も騎兵も共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
50:10 一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた。
50:11 その土地に住んでいるカナン人たちは、ゴレン・アタドで行われた追悼の儀式を見て、「あれは、エジプト流の盛大な追悼の儀式だ」と言った。それゆえ、その場所の名は、アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)と呼ばれるようになった。それは、ヨルダン川の東側にある。
50:12 それから、ヤコブの息子たちは父に命じられたとおりに行った。
50:13 すなわち、ヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、マクペラの畑の洞穴に葬った。それは、アブラハムがマムレの前にある畑とともにヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになったものである。
50:14 ヨセフは父を葬った後、兄弟たちをはじめ、父を葬るために一緒に上って来たすべての人々と共にエジプトに帰った。創世記 50章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、ヤコブが信仰を抱いて、息を引き取り、先祖の列に加えられたことを学びました。今夕の御言葉はその続きであります。

 ヤコブが息を引き取り、先祖の列に加えられると、ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけしました。「ヘブライ人にとって、死は誰もが体験する当然のことであった」と言われますが、ヨセフにとって父が亡くなったことは、悲しいことであったのです。ここには記されていませんが、おそらく、他の兄弟たちにとっても同じであったと思います。しかし、悲しみに暮れているわけにいきません。生きている者には死んだ者を葬る責任があるからです。ことに、ヤコブは、ヨセフに、自分をエジプトではなく、カナンの地にある先祖の墓に葬るよう誓わせておりました。また、同じことをすべての息子たちに命じておりました。それゆえ、ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたのです。カナンの地にある先祖の墓に行くまで何日もかかるわけですから、遺体が腐らないよう防腐処置を施したのです。私たちは、エジプト人がそのような技術に長けていたことをたくさんのミイラによって知ることができます。エジプトで死んだヤコブを、カナンの地にある先祖の墓に葬ることができたのも、エジプトの防腐処置の技術によるものであったのです。医者は、イスラエルの遺体に防腐処置をするのに、四十日を費やしました。また、エジプト人は70日の間喪に服しました。エジプト人は70日の間、ヨセフの父ヤコブの死を悼んで、断食をしたり粗布をまとったりしたのです。このことは、ヤコブの死がエジプトの王ファラオと同じように扱われたことを私たちに教えております。ある研究者の指摘によりますと、エジプトの王ファラオが死んだとき、エジプト人は72日の間喪に服したそうです。それとほぼ同じ期間、エジプト人はヤコブの死を悼んで喪に服したのです。このことは、私たちにとって不思議に思えるかも知れません。なぜ、エジプト人は70日の間、ヤコブの死を悼んで喪に服したのでしょうか?それは、ヤコブが「ファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者」であるヨセフの父であるからです。エジプト人が70日の間喪に服したのは、父ヤコブの死を悲しむヨセフの悲しみに寄り添うためであったのです。このことは、葬儀のことを考えればよくお分かりいただけると思います。私たちが葬儀に参列するのは、なぜでしょうか?死んだ人のためでしょうか?そうではありません。愛する人を亡くした遺族を慰めるためであります。愛する父親を亡くしたヨセフの悲しみに、エジプト人は七十日の間喪に服することによって、寄り添ったのであります。それほど、ヨセフはエジプトにおいて権力を持っており、慕われていたのです。多くのエジプト人にとって、ヨセフはまさに命の恩人であったのです(47:25参照)。

 喪が開けると、ヨセフはファラオの宮廷に願い出て、こう言いました。「ぜひともよろしくファラオにお取り次ぎください。実は、父がわたしに誓わせて、『わたしは間もなく死ぬ。そのときは、カナンの土地に用意してある墓にわたしを葬ってくれ』と申しました。ですから、どうか父を葬りに行かせてください。わたしはまた帰って参ります」。ヨセフはファラオの顧問なのですから、直接、ファラオに願い出ても良さそうなものですが、このときは、人を介して、ファラオに願い出ております。これはおそらく、喪が明けたばかりであったからでしょう。ともかく、ヨセフは、父との誓いを果たすべく、ファラオに、父をカナンの土地に用意してある墓に葬りに行かせてくださいと願い出るのです。ファラオは、「父上が誓わせたとおりに、葬りに行って来るがよい」と答えました。ヨセフは父を葬りにカナンの地に上って行くのですが、ヨセフと共に上って行ったのは、ヤコブの親族たちだけではありませんでした。ヨセフと共に上って行ったのは、ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべて、それにヨセフの家族全員と彼の兄弟たち、および父の一族でありました。さらには、戦車も騎兵も共に上って行ったのです。それはまことに壮大な行列であったのです。このようにヤコブの葬りは、エジプトの国葬として扱われたのです。それは繰り返しになりますが、ヤコブがヨセフの父であり、この葬儀の喪主がヨセフであったからです。ヨセフは父の葬りに、ファラオの宮廷の元老である重臣たちとエジプトの国の長老たちすべて、それにヨセフの家族全員と彼の兄弟たち、および父の一族を連れて行くことにより、さらには戦車も騎兵も共に上らせることにより、エジプトの国民と兄弟たちに対して、自分がどれほどの権力を握っているのかを示すのです。 日本の社会においても、葬儀を誰が取り仕切るのか、誰が喪主をつとめるのかは、大きな問題であります。ヨセフは、家督を継ぐ者として、他の兄弟から文句を言われない、エジプトの王ファラオの葬りに匹敵する立派な葬儀をしたのです。そのようにして、エジプト人たちに、また兄弟たちに、今一度、自分がエジプトにおいてどれほど高い地位にあるのかを知らしめたのです。

 一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行いました。それは、その土地に住んでいるカナン人にとっても、「盛大な追悼の儀式」であったのです。ヤコブは、そのような盛大な追悼な儀式をもって、いわば王として葬られるのです。ヨハネによる福音書は、イエス・キリストの葬りを、大量の没薬によって、王として葬られたことを記しますが、まさに、ヤコブはエジプト流の盛大な儀式によって、ファラオに等しい者として葬られるのです。それはヨセフが、ファラオに等しい者であったからです(44:18参照)。

 追悼の儀式が終わると、ヤコブの息子たちは父に命じられたとおり、父のなきがらをカナンの土地に運び、マクペラの畑の洞穴に葬りました。ここでは、ヨセフだけではなく、「ヤコブの息子たち」と記されています。父親を葬ることは、すべての息子たちにとって聖なる義務であったのです。このようにして、ヤコブは、その遺言通り、アブラハムがマムレの前にある畑とともにヘト人エフロンから買い取った墓地に葬られたのです。ヤコブは遺体としても、先祖の列に加えられたのであります。

 今夕の御言葉を読んで、私が思い起こしたのは、使徒パウロが、ローマの軍隊によって、ユダヤ人の暗殺計画から守られたことであります(使徒23:23~35参照)。ユダヤ人の暗殺計画を知った千人隊長は百人隊長二人を呼び、こう言いました。「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」。ローマ帝国の市民であるとはいえ、パウロ一人を護送するのに、470人ものローマ兵が動員されたのです。神様はローマ兵を用いて、パウロをユダヤ人の陰謀から守られたのです。それと同じように、ヤコブのなきがらは、エジプトの防腐処置の技術によって、またエジプト流の盛大な追悼の儀式によって、無事に、カナンの土地にある先祖の墓に葬られるのです。神様は、エジプトに下っていくヤコブに現れ、「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」と言われました(46:4参照)。神様は、その御言葉をヨセフを用いて、さらにはエジプト人の技術や軍隊を用いて、実現されたのです。私たちは、ヤコブの葬りの背後に、神様の確かな御手を見ることができるのです。

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