ヤコブの預言 2014年5月11日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの預言

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 49章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

49:1 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。
49:2 ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。
49:3 ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。
49:4 お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。
49:5 シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。
49:6 わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。
49:7 呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。
49:8 ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子たちはあなたを伏し拝む。
49:9 ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。
49:10 王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
49:11 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。
49:12 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。
創世記 49章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、49章1節から28節までをお読みしましたが、今夕は、1節から12節までをご一緒に学びたいと願います。

 1節、2節をお読みします。

 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ」。

 ここで、ヤコブが、「後の日にお前たちに起こること」と言っておりますように、これからヤコブが語りますことは、いわば預言であると言えます。しかも、息子たち個人の人生を超えて、その子孫たちにまで及ぶ預言であるのです。28節前半に、「これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二部族である」とありますように、ここでヤコブが語る預言は、ヤコブの息子たちを源とするそれぞれの部族の将来についての預言であるのです。そのことを念頭において、今夕は、ヤコブとレアとの間に生まれた四人の息子、ルベン、シメオン、レビ、ユダについての預言の言葉をご一緒に学びたいと思います(29:31~35参照)。

 3節、4節をお読みします。

 「ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。」

 ルベンは、ヤコブの長子であり、「わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い」と言われております。しかし、ルベンはその威厳と力をコントロールできず、思うがままに舞ったゆえに、長子の誉れを失うのです。「お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した」とありますが、これは35章22節に記されていたことであります。そこにはこう記されています。「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った」。ルベンが、父の側女であるビルハと関係を持ったことは、単なる近親相姦の罪ではなく、父ヤコブをないがしろにする行為でもありました。ルベンは、父の側女のビルハと関係を持つことにより、自分こそが、父に代わって、一族を治める者であることを示したのです。しかし、その高慢のゆえに、ルベンは長子の誉れを失うことになるのです(歴代上5:1参照)。そして、このことはルベン個人にとどまらず、ルベン一族全体に関わる預言であるのです。

 5節から7節までをお読みします。

 「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。」

 このヤコブの言葉の背景には、34章に記されていたシケムでの出来事があります。そこには、ヒビ人ハモルの息子シケムが、ヤコブの娘ディナを捕らえ、共に寝て辱めたこと。また、その報復として、ヤコブの息子たちがシケムをだまし、彼を殺し、さらには町中の男たちをことごとく殺したことが記されています。34章24節から29節にはこう記されています。「町の門のところに集まっていた人々は皆、ハモルと息子シケムの提案を受け入れた。町の門のところに集まっていた男性はこうして、すべて割礼を受けた。三日目になって、男たちがまだ傷の痛みに苦しんでいたとき、ヤコブの二人の息子、つまりディナの兄のシメオンとレビは、めいめい剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺した。ハモルと息子シケムも剣にかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出した。ヤコブの息子たちは、倒れている者たちに襲いかかり、更に町中を略奪した。自分たちの妹を汚したからである。そして、羊や牛やろばなど、町の中のものも野にあるものも奪い取り、家の中にあるものもみな奪い、女も子供もすべて捕虜にした」。このように、シケムでの出来事の首謀者は、シメオンとレビの二人であったのです。このことを思い起こしつつ、ヤコブは、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具」と言っているのです。そして、はっきりと彼らのしたことが、呪われるべき悪であったことを語るのです。「わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに」。シメオンとレビのしたことは、怒りと憤りにまかせた呪われるべき悪であったのです。そして、この悪のゆえに、「わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす」と言うのです。ここでの「わたし」はもはやヤコブというよりも、ヤコブを通して語っておられる神様であられます。神様がシメオンとレビをイスラエルの間に散らすと言われるのです。そして、この預言の言葉は、イスラエル十二部族がカナンの地に定住する際に実現するのです。部族としてのシメオンの一部はユダの中に散らされます(ヨシュア19:1~9参照)。また、レビは、祭司の働きをする集団として嗣業の土地を割り当てられず、イスラエルの間に散らされるのです(民数35:1~8参照)。

 8節から12節までをお読みします。

 「ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子たちはあなたを伏し拝む。ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。」

 「ユダ」という名前は、「主をほめたたえよ」という意味ですが、ここでは、ユダが兄弟たちにたたえられると言われています。このことは、ユダがこれまで果たしてきた役割と無関係ではないと思います。ユダは、ベニヤミンを無事にヤコブのもとに連れ帰っただけではなく、ヨセフに嘆願することによって、ヨセフの身を明かさせたのです。43章以降では、長男のルベンに代わって、兄弟たちを代表する者として描かれています。そのユダについての言葉が長いことは、当然であると言えるのです。しかし、ここでもヤコブの預言はユダ個人を超えて、部族としてのユダ族について言われているのです。「ユダは獅子の子」と言われているように、ユダ族はもっとも力ある部族となるのです。そして、このユダ族から諸国の民をも従わせる王が出るのです。10節に、「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」とありますように、ユダ族から王が出るのです。「シロ」については、いろいろな議論がありますが、ここでは「来たるべき支配者」を指すと理解するのがよいと思います。かつて、神様はアブラハムに、「諸民族の王となる者たちが彼女(サラ)から出る」と言われましたが(17:16参照)、それはユダ族から出るのです。そして、そのとき、ぶどう酒や乳に象徴される豊かな時代が到来するのです。11節に、「彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ」とありますが、これは普通は考えられないことであります。なぜなら、そんなことをすれば、ロバがぶどうの実を食べ尽くしてしまうからです。しかし、そんなことを気にする必要がないほどに、たくさんのぶどうの木が植えられ、たくさんの収穫がもたらされるのです。自分の衣をぶどう酒で洗えるほどに豊かな収穫がもたらされるのです。ユダから出る王によってもたらされるのは、そのような豊かさであるのです。

 このヤコブの預言は、ダビデ王によって実現しました。そして、最終的には、イエス・キリストにおいて実現したのです。ヨハネによる福音書の2章に、イエス様がカナの婚礼の席において、大量の水を極上のぶどう酒に変えられた奇跡が記されております。イエス様はユダ族から出た王として、大量のぶどう酒を、人々にふるまってくださったのです。

 ヤコブは、「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない」と預言しましたが、ユダ族から出た獅子であるイエス・キリストは、今、天の父なる神の右におられ、永遠の王権をもって、諸国の民を支配しておられます(黙5:5参照)。しかし、それは力による支配ではありません。御言葉と聖霊による御支配であります。それゆえ、すべての人が王であるイエス・キリストに従っているわけではないのです。けれども、神様の恵みによって、御言葉と聖霊による御支配にあずかる者たちは、ぶどう酒と乳にまさる豊かさにあずかることができるのです。死んでも生きる永遠の命にあずかることができるのであります。なぜなら、私たちの王であるイエス・キリストは、十字架において悪魔に勝利し、三日目に栄光の体へと復活されたお方であるからです。

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