ヨセフの子らを祝福するヤコブ 2014年5月04日(日曜 夕方の礼拝)

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ヨセフの子らを祝福するヤコブ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 48章1節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

48:1 これらのことの後で、ヨセフに、「お父上が御病気です」との知らせが入ったので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った。
48:2 ある人がヤコブに、「御子息のヨセフさまが、ただいまお見えになりました」と知らせると、イスラエルは力を奮い起こして、寝台の上に座った。
48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、
48:4 こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう。』
48:5 今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、
48:6 その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし、彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう。
48:7 わたしはパダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった。あれはカナン地方で、エフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中でのことだった。わたしはラケルを、エフラト、つまり今のベツレヘムへ向かう道のほとりに葬った。」
48:8 イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねた。
48:9 ヨセフが父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えると、父は、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」
48:12 ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。
48:13 ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。
48:14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。
48:16 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」
48:17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
48:19 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
48:20 その日、父は彼らを祝福して言った。「あなたによって/イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたを/エフライムとマナセのように/してくださるように。』」彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。
48:22 わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。」
創世記 48章1節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、創世記48章1節から22節より、ご一緒に御言葉の恵みにあずかりたい願います。

 前回、私たちは、ヤコブがヨセフに、自分が死んだときには、カナンの地にある先祖たちの墓に葬るように誓わせたことを学びました。それからしばらくして、ヨセフに、「お父上が御病気です」との知らせが入りましたので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて父のもとへ行きました。ある人がヤコブに、「御子息のヨセフさまが、ただいまお見えになりました」と知らせると、イスラエルは力を奮い起こして、寝台の上に座りました。そして、ヤコブはヨセフにこう言うのです。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう』今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンとシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい。しかし、彼らの嗣業の土地は兄たちの名で呼ばれるであろう」。

 ここで、ヤコブが言及しているのは、35章に記されているベテルでの出来事であります。ヤコブは、この神様の祝福に基づいて、「今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい」と言うのです。そのようにして、ヤコブは、マナセとエフライムを、ルベンやシメオンと同じように、自分の子とすると言うのです。なぜ、ヤコブはこのようなことを言うのでしょうか?それはヨセフがエジプト人となっていたからです。41章45節に、「ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた」とありますように、ヨセフはエジプト人となっていたのです。ですから、もし、ヤコブがヨセフの息子であるマナセとエフライムを、自分の子としなければ、ヨセフは父祖たちに与えられた祝福の約束にあずかることができないものとなってしまうわけです。そうならないために、ヤコブは、ヨセフの子であるエフライムとマナセをルベンやシメオンと同じように自分の子供にしたいと言ったのです。そのようにして、エフライムとマナセも、神様が与えてくださるカナンの土地に分け前を持つようになるのです。ヨシュア記の13章から19章までに、カナンの土地が12部族によって、分割されたことが記されています(聖書地図「3カナンへの定住」も参照)。そこでは、嗣業の土地を持たない祭司であるレビ族に代わって、エフライム族とマナセ族が入っております。それは、ヤコブが死ぬ前に、ヨセフの子であるエフライムとマナセを、ルベンとシメオンと同じ自分の子供としたからであるのです。後に生まれてくるヨセフの子孫は、エフライムとマナセの名で、嗣業の土地を受け継ぐことになるのです。

 さらに、ヤコブはヨセフにこう言いました。7節から。「わたしはパダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった。あれはカナン地方で、エフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中でのことだった。わたしはラケルを、エフラト、つまり今のベツレヘムへ向かう途中に葬った」。

 ここでヤコブは、ヨセフの母ラケルの死について語っておりますが、ラケルこそ、ヤコブの正妻、ヤコブの唯一の妻でありました。ですから、ヤコブにとって、ラケルから生まれたヨセフこそが、家督を継ぐ者、長子の権を持つものであったのです。それゆえ、ヤコブは、ヨセフの二人の息子を自分の子供として、祝福するのです。といいますのも、長子は二倍の分け前にあずかるとされていたからです(申命21:17参照)。ヤコブはヨセフの二人の息子を自分の子供とすることにより、ヨセフが二倍の嗣業の土地を受け継ぐことができるようにしたのです。今夕の御言葉の最後にある22節で、イスラエルはヨセフに、「わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする」と言っていますが、それはヨセフが、エフライムとマナセを通して、二倍の嗣業の土地を受け継ぐことを指しているのです。

 8節以下は、当時のしきたりに基づいて記されています。イスラエルが、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねると、ヨセフは父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えました。すると、父ヤコブは、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言いました。イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らにくちづけして抱き締めました。かつて父イサクから祝福を受けたヤコブが、ヨセフの二人の息子に祝福を与えるのです。イスラエルは、ヨセフにこう言いました。「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった」。神様のなさる御業は、私たちの思いを超えて、遙かにすばらしいのです。

 12節に、「ヨセフは彼らを父の膝から離し」とありますが、子供を自分の膝にのせることは、自分の子であることを公に示す身振りでありました。そして、そのようなヤコブの振るまいに、ヨセフは心から感謝し、地にひれ伏したのです。このことは、マナセとエフライムをヤコブの子供とすることがヨセフにとっても望ましいことであったことを表しています。ヤコブはエジプト人となったヨセフの思いをくみ取って、エフライムとマナセを自分の子供としたのです。

 マナセとエフライムの二人の兄弟は、マナセが長男で、エフライムが次男であります。それゆえ、ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせました。当時は、右手の方が大きな祝福を与えると考えられていたからです。それゆえ、ヨセフは長男のマナセが、ヤコブの右手から祝福を受けるようにしたのです。しかし、イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置きました。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのです。

 15節に「ヨセフを祝福して」とありますが、エフライムとマナセを祝福することは、父であるヨセフを祝福することでもあるのです。ヤコブはヨセフを祝福してこう言いました。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように」。

 ヤコブの祝福、それはヤコブの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神からの祝福であり、ヤコブの生涯を今日まで導かれた牧者なる神からの祝福であり、ヤコブをあらゆる苦しみから贖われた神からの祝福であるのです。ヤコブは、「どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように」と言っていますが、このことは、エジプト人の母から生まれたエフライムとマナセが、アブラハム、イサク、ヤコブの系図に連なる者であることを教えております。この子供たちもアブラハム、イサク、ヤコブの神の祝福にあずかる者であるのです。そして、その祝福とは、何よりもこの地上に数多く増え続けることであるのです。

 ヨセフは、父ヤコブが、右手を弟のエフライムの上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムからマナセの頭へと移そうとしました。おそらく、ヨセフは、父の目が老齢のためかすんでよく見えないので、間違えたと考えたのでしょう。それゆえ、ヨセフは「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください」と言ったのです。ところが、父ヤコブはそれを拒んでこう言いました。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」。後のイスラエルの歴史を見ますと、このとおりになったことが分かります。エフライム族はマナセ族よりも大きな部族となったのです。死を前にしたヤコブは、そのことを預言して、自分の右手を次男であるエフライムの頭の上に置いたのです。死を前にしたヤコブは、かすんだ目で将来をはっきりと見据えているのです。

 その日、父ヤコブは彼らを祝福してこう言いました。「あなたによって、イスラエルは人を祝福して言うであろう。『どうか、神があなたをエフライムとマナセのようにしてくださるように』」。このような格言となるまでに、彼らは祝福されると言うのであります。そして、「エフライムとマナセ」とありますように、ヤコブはエフライムをマナセの上に立てたのです。当時の常識では、長男が上に立つわけですが、神様の自由な選びに導かれて、ヤコブはエフライムを右の手で祝福し、エフライムの名を先に呼んだのです。

 イスラエルはヨセフにこう言いました。「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする」。

 イスラエルは、家督を受け継ぐヨセフに、「神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる」と語ります。そのような信仰をもって、ヤコブは、ヨセフの二人の息子、エフライムとマナセを自分の子供としたわけです。ヘブライ人への手紙11章に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とありますが、まさしく、ヤコブは信仰の人でありました。同じヘブライ人への手紙11章21節には次のように記されています。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました」。私たちは、信仰と祝福が一体的な関係にあることを心に留めたいと願います。ヨセフは、またエフライムとマナセは、ヤコブから祝福だけを受け継いだのではなく、約束を必ず実現させてくださる神様への信仰をも受け継いだのです。そして、それは、イエス・キリストにおいてすべての約束を然りとしてくださった神様を信じる私たちにおいても言えることであるのです。私たちはイエス・キリストにあって神の子とされ、栄光の御国を受け継ぐ者たちとされているのです(ローマ8:15~17参照)。そのような信仰をもって、父と子と聖霊なる三位一体の神様の祝福にあずかる者たちでありたいと願います(ニコリント13:13参照)。

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