ヤコブの苦しみの原因 2013年11月17日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの苦しみの原因

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 42章26節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

42:26 彼らは穀物をろばに積んでそこを立ち去った。
42:27 途中の宿で、一人がろばに餌をやろうとして、自分の袋を開けてみると、袋の口のところに自分の銀があるのを見つけ、
42:28 ほかの兄弟たちに言った。「戻されているぞ、わたしの銀が。ほら、わたしの袋の中に。」みんなの者は驚き、互いに震えながら言った。「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」
42:29 一行はカナン地方にいる父ヤコブのところへ帰って来て、自分たちの身に起こったことをすべて報告した。
42:30 「あの国の主君である人が、我々を厳しい口調で問い詰めて、この国を探りに来た回し者にちがいないと言うのです。
42:31 もちろん、我々は正直な人間で、決して回し者などではないと答えました。
42:32 我々が十二人兄弟で、一人の父の息子であり、一人は失いましたが、末の弟は今、カナンの地方に住む父のもとにいますと言ったところ、
42:33 あの国の主君である人が言いました。『では、お前たちが本当に正直な人間かどうかを、こうして確かめることにする。お前たち兄弟のうち、一人だけここに残し、飢えているお前たちの家族のために、穀物を持ち帰るがいい。
42:34 ただし、末の弟を必ずここへ連れて来るのだ。そうすれば、お前たちが回し者ではなく、正直な人間であることが分かるから、お前たちに兄弟を返し、自由にこの国に出入りできるようにしてやろう。』」
42:35 それから、彼らが袋を開けてみると、めいめいの袋の中にもそれぞれ自分の銀の包みが入っていた。彼らも父も、銀の包みを見て恐ろしくなった。
42:36 父ヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」
42:37 ルベンは父に言った。「もしも、お父さんのところにベニヤミンを連れ帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいません。どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんのところに連れ帰りますから。」
42:38 しかし、ヤコブは言った。「いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」創世記 42章26節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記42章26節から38節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 ヨセフの兄たちは、シメオンを残して、穀物を積んでエジプトを立ち去りました。途中の宿で、一人がろばに餌をやろうとして、自分の袋を開けてみると、袋の口のところに自分の銀があるのを見つけ、ほかの兄弟たちにこう言いました。「戻されているぞ、わたしの銀が。ほら、わたしの袋の中に」。皆の者は驚き、互いに震えながらこう言いました。「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」。私たちは、ヨセフが人々に命じてこのようにしたことを知っております。と言いますのも、25節にこう記されていたからです。「ヨセフは人々に命じて、兄たちの袋に穀物を詰め、支払った銀をめいめいの袋に返し、道中の食糧を与えるように指示し、そのとおり実行された」。しかし、兄たちはこのことを知りませんので、不気味に思い、「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と言ったのです。兄たちは、21節で、「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ」と、自分たちの苦しみを神さまの罰と関連させましたが、ここでも、銀が戻されているという不可思議な出来事を、神さまと関連づけて理解しております。兄たちにとって、銀が戻されていることは、「神が我々になさったこと」としか言い表せないほど不可思議な出来事であったのです。

 兄たち一行はカナン地方にいる父ヤコブのところへ帰って来て、自分たちの身に起こったことをすべて報告しました。彼らはシメオンがいない理由を父ヤコブに説明する必要があったわけです。「あの国の主君である人が、我々を厳しい口調で問い詰めて、この国を探りに来た回し者にちがいないと言うのです。もちろん、我々は正直な人間で、決して回し者などではないと答えました。われわれが十二人兄弟で、一人の父の息子であり、一人は失いましたが、末の弟は今、カナンの地方に住む父のもとにいますと言ったところ、あの国の主君である人が言いました。『では、お前たちが本当に正直な人間かどうかを、こうして確かめることにする。お前たちの家族のために、穀物を持ち帰るがいい。ただし、末の弟を必ずここへ連れて来るのだ。そうすれば、お前たちが回し者ではなく、正直な人間であることが分かるから、お前たちの兄弟を返し、自由にこの国に出入りできるようにしてやろう』」。兄弟たちは、エジプトの主君である人が「弟のヨセフ」であることを知りません。ですから、ここには、彼らが受けた印象が率直に言い表されています。エジプトの主君は、自分たちを回し者とみなし、回し者でないことを証明するために、末の弟を連れてくるように命じたのでありました。しかも、彼らが再びエジプトに来るようにと、一人の兄弟を人質として残すことを条件に、穀物を売ることにしたのです。しかし、その銀も、彼らが袋を開けてみると、めいめいの袋の中に入っていたのです。彼らも父も、その銀の包みを見て恐ろしくなったのでありますが、それは彼らが回し者という疑いだけではなく、盗人の疑いを持たれるためであったかも知れません。このような息子たちの報告を聞いて、ヤコブはこう言いました。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ」。息子たちが、エジプトで起こったことを報告したのは、シメオンが欠けている理由を説明するためばかりでなく、ベニヤミンを連れて行って、シメオンを取り戻すためでありました。しかし、父ヤコブは、「ヨセフを失い、シメオンも失った」と、もう済んでしまったかのように言うのです。それほどまでに、ヤコブは最愛の妻ラケルとの間に生まれたベニヤミンを失うことを恐れるのです。これを聞いて、長男のルベンはこう言いました。「もしも、お父さんのところにベニヤミンを連れ帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいません。どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんのところに連れ帰りますから」。このようにルベンは申し出るのですが、ヤコブはベニヤミンを行かせることを頑なに拒みました。これにはいくつかの理由があったと思います。その一つは、ヤコブがルべンを信用していなかったということです。なぜなら、ルベンはすでに、ヨセフのときに失敗をしていたからです。兄弟たちがヨセフをイシュマエル人の隊商に売ったことを記している37章29節、30節にこう記されておりました。「ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣を引き裂き、兄弟たちのところへ帰り、『あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか』と言った」。ここで、ヨセフが穴の中にいないことを知ったルベンは「わたしはどうしたらよいのか」とひどく動揺していますが、それはヨセフについて長男のルベンが責任を負っていたからです。もちろん、父ヤコブはこのことについて知りませんけれども、ルベンがヨセフについて何の責任も取れなかったことをヤコブは忘れてはいなかったと思います。また、ルベンには、過去に、父の側女ビルハのところへ入って寝たという罪がありました(35:22参照)。これは、近親相姦の罪ばかりではなく、家長である父の権力を自分のものにしようとする罪でもありました。このような理由からヤコブはルベンを信用していなかったのです。また、ヤコブにとって、ベニヤミンを失う代わりに、ルベンの二人の息子である孫たちを殺したところで、何になったでしょうか?それゆえ、父ヤコブはこのように言うのです。「いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ」。私たちはこの言葉から、ヤコブがどれだけラケルとの間に生まれたヨセフとベニヤミンに偏った愛情を注いでいたかが分かります。息子たちは、父ヤコブが自分たちの誰よりも、ベニヤミンを愛していることを思い知らされたのではないでしょうか?エジプトの主人である人は、末の弟を連れてくれば、囚われているシメオンを返すと言っているわけです。そうであれば、ベニヤミンを連れて行くべきであると彼らは考えたわけであります。しかし、父ヤコブはそれを拒むわけです。ルベンが「わたしの二人の息子を殺してもかまいません」とまで言っても、ベニヤミンに不幸なことが起こることを恐れて、一緒に行かせないわけです。父ヤコブにとって、シメオンよりもベニヤミンの方が大切であるわけです。そして、これはシメオン一人の問題ではないわけです。なぜなら、すべての息子たちがシメオンに代わって、エジプトに残される可能性があったからです。他の兄弟たちにも、牢獄に監禁される可能性はあったのです。ですから、シメオンのことはひとごとではないわけですね。しかし、父ヤコブは、ベニヤミンに不幸なことが起こるといけないからと言って、連れて行くことを許さないのです。そのようにして、シメオンを失った者としてしまうのです。ここでヤコブは、「お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ」と言いましたけれども、悲しみ嘆いたのは、このような言葉を聞いた他の息子たちではなかったでしょうか?そもそも、兄弟たちがヨセフを憎み、穏やかに話すことができないほどになってしまったのは、父ヤコブがどの兄弟よりもヨセフをかわいがったからであったのです(37:4参照)。このヤコブの姿勢はまったく変わっていないわけですね。今夕の御言葉で、ヤコブは「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった」「みんなわたしを苦しめることばかりだ」と嘆いております。しかし、ヤコブの苦しみの本当の原因は、彼自身にあったのではないでしょうか?すなわち、ラケルとの間に生まれた息子を特別にかわいがる、その偏った愛情に原因があったのではないでしょうか?私たちはこのことから、親が特定の子供に偏った愛情を注ぐことがどれほどの困難をもたらす悪であるのかを教えられるのです。エフェソの信徒への手紙にありますように、親は、主がしつけ諭されるように、育てなくてはなりません(エフェソ6:4参照)。主なる神は、人を分け隔てされることはないお方であります(ガラテヤ2:6参照)。それゆえ、私たちも分け隔てせずに、子供を育てなければならないのです。

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