ヨセフの夢 2013年9月15日(日曜 夕方の礼拝)

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ヨセフの夢

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 37章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

37:1 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。
37:2 ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。
37:3 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。
37:4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。
37:5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。
37:6 ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。
37:7 畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」
37:8 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。
37:9 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」
37:10 今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」
37:11 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。創世記 37章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、創世記の第37章1節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 1節をお読みします。

 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。

 この御言葉は、第36章8節と対応するものであります。第36章8節に、「エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである」と記されていましたが、ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいたのです。このことは、兄のエサウではなくて、弟のヤコブが、父イサクから主の祝福を受け継いだことを物語っているのです。

 2節をお読みします。

 ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。

  「ヤコブの家族の由来は次のとおりである」とありますが、ここで「家族の由来」と訳されているのは、「系図」とも訳される「トーレドート」というヘブライ語です。新改訳聖書は、「歴史」と訳し、「これはヤコブの歴史である」と記しています。この「系図」とも、「家族の由来」とも「歴史」とも訳される「トーレドート」という言葉は、創世記において資料の違いからなる大きな区分を表す目印とも言える言葉であります。今夕の第37章から最後の第50章までは、ヤコブの歴史という一つの大きなまとまりを成しているのです。そして、そこでは、ヤコブ本人というよりも、ヤコブの息子たち、特にヨセフが中心的な人物として描かれているのです。

 ヨセフは17歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っておりました。この兄たちとは、父の側女ビルハやジルパの子供たちであったようです。側女であるビルハとジルパの子供たちについては、第35章25節、26節にこう記されておりました。「ラケルの召し使いビルハの息子がダンとナフタリ、レアの召し使いジルパの息子がガドとアシェルである」。17歳のヨセフは、兄のダンとナフタリ、ガドとアシェルと共に、羊の群れを飼っていた。年下のヨセフは兄たちの助手のような存在であったのです。また、監視役のような存在でもありました。なぜなら、「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した」からです。新改訳聖書は、このところを「ヨセフは彼らの悪い噂を父に告げた」と記しているように、ヨセフは父に、兄たちの悪い噂を告げたのです。その「悪い噂」が何であったのかは分かりませんが、おそらく、羊の群れを飼うことに関することでありましょう。ヨセフは兄たちが、仕事をさぼっていたことを告げ口したのかも知れません。

 3節、4節をお読みします。

イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。

 イスラエルは、ヨセフが年を取ってから生まれた子であったので、どの息子よりもかわいがりました。しかし、それだけではなかったと思います。イスラエルは、ヨセフがラケルから生まれた子であるがゆえに、どの息子よりもかわいがったのです。第33章に、「エサウとの再会」の場面が記されていましたが、その1節、2節にこう記されていました。「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後においた」。ヤコブには、このとき、4人の妻と11人の息子がおりましたが、その最後に置かれたのは、ラケルとヨセフであったのです。そして、このことは、ヤコブにとって、ラケルとヨセフが他の妻と息子たちよりも大切であることをはっきりと示しているのです。エフェソの信徒への手紙第4章4節に、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」と記されています。「主がしつけ諭されるように、育てる」とは、具体的には何を意味しているのでしょうか?私は、その一つに「子供たちを分け隔てしないで扱う」ことがあると思います。神は人を分け隔てなさらない(ガラテヤ2:6参照)。それゆえ、主がしつけ諭されるように、育てることを求められている私たちも、子供たちを分け隔てして、育ててはならないと思うのです。しかし、イスラエルは、年寄り子であり、最愛の妻ラケルとの間に生まれたヨセフをどの息子よりもかわいがりました。そして、ヨセフには裾の長い晴れ着を作ってやったのです。この「裾の長い晴れ着」は、「労働しなくてよい人々だけが身につけられるぜいたく品」でありました。ヤコブは、位の高い人が着る、裾の長い晴れ着をヨセフに作ってやったのです。そのように父がヨセフをかわいがるのを見て、兄たちはヨセフを憎むようになりました。憎しみの矛先は、父ではなく、父にかわいがられているヨセフへと向かうのです。そのように、ヨセフと他の兄弟たちは、穏やかに話すこともできないほど険悪な雰囲気に包まれていたのです。ここで、ヤコブは、父イサクと母リベカと同じ過ちを繰り返していると言えます。エサウとヤコブは争い合う兄弟でありましたが、その背後には、父イサクは兄エサウを愛し、母リベカはイサクを愛したということがありました。ヤコブは、親の偏った愛情が子供の間に争いを生じさせることを体験として知っていたはずであります。しかし、ヤコブも親と同じく、ある子供だけをかわいがるという偏った愛情を示すのです。

 5節から8節までをお読みします。

 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わいていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のためにますますヨセフを憎んだ。

 兄たちは父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎みましたが、その憎しみが増し加えられる出来事が起こります。それが、ヨセフの見た夢でありました。ヨセフは、兄たちに次のように語ります。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐ立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」。このようなヨセフの夢を聞いた兄たちは当然おもしろくありません。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するのか」と言い返します。父親からどの息子よりもかわいがられ、高い位の人が着る「裾の長い衣」を来たヨセフが、このような夢を語るとき、それはもはや笑い話ではすまされませんでした。兄たちは、ヨセフの夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎むようになるのです。ヨセフとは、「加える」という意味ですが、兄たちはヨセフに対して憎しみを加えたのです(創世30:24参照)。

 9節から11節までをお読みします。

 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 ヨセフは、また別の夢を見て、それを兄たちに話しました。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです」。この十一の星は兄弟たちを指しておりますから、その内容は前の夢と同じであります。しかし、今度の夢では、兄たちだけでなく、太陽と月も、すなわち父と母も、ヨセフにひれ伏すと言うのです。それゆえ、ヨセフはこの夢を父にも話したのでありました。父はヨセフを叱ってこう言いました。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄たちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」。この夢のために、兄たちはヨセフをねたむようになりました。しかし、父はこのことを心に留めたのであります。

 ヨセフの夢、それは兄たちにとって、不愉快なものであり、ヨセフに対する憎しみとねたみをもたらしました。ヨセフの夢を聞いて、兄たちは、「ヨセフが自分たちの王になること、自分たちを支配したいと考えている」と思ったことでありましょう。このような夢をヨセフが見るようになったのも、父がどの息子よりもヨセフをかわいがり、裾の長い衣を着せてあまやかしていたからかも知れません。しかし、父ヤコブは、もうひとつの可能性を心に留めていたのです。それは夢を通して、神さまがこれからのことをお示しになっているという可能性であります。かつて、ベテルで、神の御使いたちが天から地へと延びる階段を上ったり下ったりしている夢を見たヤコブは、神さまが夢によってヨセフに、そして、自分たちに何かをお示しになられているのではないかと考えたのです(創世28:10~22参照)。この父ヤコブの姿は、イエスさまの母マリアの姿を私たちに思い起こさせます。ルカによる福音書の第2章17節から19節に次のように記されています。新約の103ページです。

 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話しを不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

 マリアが羊飼いたちの言葉を心に納め、思い巡らしていたように、父ヤコブも、ヨセフの夢を心に納めていたのです。私たちも、自分にはよく分からないこと、判断しかねることがあると思います。そのようなときに、心に納めて、思い巡らす者でありたいと思います。そのような私たちに、神さまは、ふさわしいときに、その意味をお示しくださるのです。ヨセフの夢もそうです。神さまはヨセフの夢の意味を、ふさわしいときにヤコブに、そして兄たちに、何よりヨセフ自身にお示しくださるのです(創世42:9参照)。

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