ヤコブの夢 2013年4月21日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの夢

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 28章10節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

28:10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
28:11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
28:17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
28:18 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、
28:19 その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」創世記 28章10節~22節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 前回学んだことですが、ヤコブは、兄エサウの殺意を逃れるために、また、伯父のラバンの娘の中から妻を迎えるために、父イサクの祝福を受けて、母リベカの兄ラバンのいるパダン・アラムへと旅立ちました。今夕の御言葉には、その途上の出来事が記されています。

1.ヤコブの夢

 ヤコブは父イサクの家のあるベエル・シェバを立って、伯父ラバンの家のあるパダン・アラムへ向かいました。ベエル・シェバとパダン・アラムは800キロメートルほど離れておりますから、一日でいくことはできません。一日の移動距離が40キロメートルとすれば、日数にして二十日間はかかることになります。当然、何日も野宿をすることになります。11節に、「とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした」とありますが、この「とある場所」は19節によりますと、「かつてルズと呼ばれて」おりました。ルズはベエル・シェバから北に80キロメートルほど離れたカナンの町でありますから、ヤコブがベエル・シェバを立って、一日目の夜か、二日目の夜か、あるいは三日目の夜であったと思います。ともかく、ヤコブはそこがどこであるかを知らずに、日が沈んだという理由で、そこで一夜を過ごすことにしたのです。「ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」とありますが、ヤコブの心持はどのようであったでしょうか?おそらく寂しさと不安で一杯であったと思います。そのようなヤコブに主は夢を通して御自身を現わしてくださったのです。

 ヤコブが見た夢は次のようなものでありました。「先端が天まで達する階段が地に向って伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。ヤコブが夢の中で見た階段は天から地へ向かって伸びている階段でありました。第11章に記されていたバベルの塔のように、地から天へ向かって伸びているのではありません。天から地へと向かって伸びているのです。そして、このことは神様の側から人間に近付いて来てくださることを示しているわけです。「しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」とありますが、これは神様との交わりが実現していることを示しております。ある研究者は、天へと上る御使いは、人間の祈りを届けに行き、地へと下る御使いは神様の託宣を届けに行くと言っておりますが、詳しいことはわかりません。ともかく、ここで言われていることは御使いを通して神様との交わりが実現しているということです。それゆえ、主はヤコブの傍らに立って、次のように言われるのです。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 先程、ヤコブの心は寂しさと不安で一杯であったと思うと言いましたが、そのヤコブの心を主は御存じでありました。それゆえ、主はヤコブに夢で現れてくださり、御言葉を与えてくださったのです。主は、ヤコブに「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と自己紹介してくださり、「あなたが横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」と約束してくださいました。また、「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう」と約束し、さらには「地上のすべての氏族はあなたとあなたの子孫によって祝福に入る」と約束してくださったのです。これらは、かつて主がアブラハムに約束し、イサクへと受け継がれた祝福の言葉であります。主は、夢の中でヤコブに現れ、御言葉を与えることによって、ヤコブが、イサクの祝福を受け継ぐ者であることをお示しになられたのです。そして、主なる神は、寂しさと不安で一杯であったろうヤコブに次のように言われるのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。主は、場所に縛られる神ではありません。主はヤコブと共にいてくださる神であり、ヤコブがどこへ行ってもヤコブを守り、約束の地カナンへと連れ帰ってくださる、決して見捨てることのない神であられるのです。そして、その神は、イエス・キリストにあって私たちとも共にいてくださるのです。

2.ヤコブの誓願

 ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」。ヤコブは家族から離れて、一人ぼっちだと思っていた。しかし、主はヤコブと共にいてくださったのです。そのことを知って、ヤコブは恐れおののいてこう言うのです。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」。ヤコブが一夜を過ごした場所、そこは石の転がる荒れ野でありました。しかし、夢の中で、天から地へと向かって伸びる階段を見、御使いがそれを上ったり下ったりしていたのを見たことによって、また、主なる神が傍らに現れてくださり、御言葉を与えてくださったことによって、ヤコブはその場所を神の家、天の門と呼ぶのです。ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石をとり、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。そのようにして、ヤコブは主なる神が自分に現れてくださったことを記念し、証ししたのです。しかし、そのことは主なる神がベテルに縛られているということではありません。主なる神は、ヤコブがどこへ行っても、ヤコブと共にいてくださる神様であるのです。ヤコブはそのような神様とさらに親密な関係を持つために誓願を立てて言いました。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」。ここでヤコブは神様と駆け引きをしているわけではありません。神様の一方的な恵みが実現した際には、わたしはこのようにしますと、感謝の応答を約束しているのです。「この石を神の家とする」とは、このところに「祭壇を造る」ということであります。そして、ヤコブは主が与えてくださったものの中から十分の一をささげると誓うのです。後に律法は十分の一の献げ物について定めておりますけれども、十分の一の献げ物は主の恵みへの感謝から献げる自発的なものであるのです(申命記14:22参照)。

結.天からの階段であるイエス・キリスト

 ヤコブは夢の中で、「先端が天まで達する階段が地に向って伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」のを見ましたけれども、主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書の第1章51節で、御自分こそ、天から地へと向かって伸びている階段であると言われました。新約聖書の165ページです。

 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 イエス様はここで、御自分こそ、ヤコブが夢で見た「天の階段である」と言われるのです。それは、イエス・キリストにおいて神様との私たち人間との交わりが実現するということであります。それゆえ、使徒パウロは、イエス・キリストの御名によって礼拝をささげている教会こそが神の家(ベテル)であると記すのです(一テモテ3:15参照)。私たちはイエス・キリストの御名によってささげる礼拝において、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と語ることができるのです。そのような祝福を私たちもイエス・キリストにあって与えられているのであります。神様はイエス・キリストにあって私たちと共にいてくださり、私たちを決して見捨てないお方であるのです。

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