悔しがるエサウ 2013年4月07日(日曜 夕方の礼拝)

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悔しがるエサウ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 27章30節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:30 イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐ、兄エサウが狩りから帰って来た。
27:31 彼もおいしい料理を作り、父のところへ持って来て言った。「わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。」
27:32 父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。
27:33 イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」
27:34 エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」
27:35 イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」
27:36 エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」
27:37 イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」
27:38 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。
27:39 父イサクは言った。「ああ/地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて。
27:40 お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす。」創世記 27章30節~40節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 前回私たちは、目がかすんで見えなくなっていたイサクがエサウだと思い込んでヤコブを祝福したことを学びました。今夕の御言葉はその続きであります。

1.激しく体を震わせるイサク

 イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐに、兄エサウが狩りから帰って来ました。エサウはおいしい料理を作り、父のところへ持って来てこう言いました。「わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください」。エサウは父イサクに言われたとおりに狩り行き、獲物を捕り、イサクの好きなおいしい料理を作って持って来たわけですが、父イサクの反応は予想外のものでありました。イサクは「お前は誰なのか」と問うのです。そして、エサウが「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えると、イサクは激しく体を震わせてこう言うのです。「では、あれは、一体誰だったのか。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている」。ここで注目したいことは、イサクが激しく体を震わせたということです。このとき、イサクを捕らえたのは、神様に対する激しい畏れでありました。このときイサクは、ヤコブのあの言葉、「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」という言葉が真実であったことを知ったのです。なぜ、イサクは自分がエサウではなく、ヤコブを祝福したことを知ったとき、主に対する激しい畏れに取りつかれたのでしょうか?それは、イサクが、妻リベカから「兄が弟に仕えるようになる」という主からのお告げを聞いていたからです。さらには、エサウが長子の権利をヤコブに売ってしまったことを知っていたからであります。

 第27章を読み進めて来て、私にはどうにも腑に落ちないことが一つありました。それは、父から子へと祝福を与える、家族にとっても大切なことが、なぜひそかに行われたのかということです。ヤコブは父イサクの目が見えなくなっていることにつけ込んで、自分があたかもエサウであると思い込ませました。しかし、これも他の人がその場にいれば不可能なことであったのです。父から子に祝福が与えられること、これは、37節でイサクが言っているように、家の主人を誰とするかという家全体に関わる出来事であり、本来は家族の前で行われるべきものであったと思います。しかし、イサクはそうしませんでした。イサクはエサウを呼び寄せて、祝福を与えたい旨を伝えたわけです。どうして、イサクはひそかにエサウを祝福しようとしたのか?それは妻リベカから「兄は弟に仕えるようになる」という主のお告げを聞いており、兄エサウではなく、弟ヤコブを祝福することが主の御心であることを知っていたからです。しかし、イサクはエサウが長子であり、またエサウを愛するゆえに、エサウを祝福しようとしたのです。またイサクは、エサウがヤコブに長子の権利を譲り渡したことを聞いていたにもかかわらず、ヤコブではなく、エサウを祝福しようとしたのであります。

 第27章の小見出しに「リベカの計略」とありますが、計略を用いたのは、リベカだけではありません。イサクも計略を用いたのです。イサクは、「エサウではなくヤコブを祝福するのが主の御心である」と主張するリベカを出し抜いて、また、「自分はエサウ兄さんから長子の権利を譲り受けた」と主張するヤコブを出し抜いて、イサクは秘密裏にエサウを祝福しようとしたのです。しかし、自分が祝福したのは、エサウではなく、ヤコブであった。そのことを知ったとき、イサクは激しい主の畏れにとらわれ、自分が知らず知らずに主の御心を行ったことに戦慄を覚えたのであります。

2.長子の権利と祝福

 「実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている」。この父の言葉を聞くと、エサウは悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かってこう言いました。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください」。イサクが「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった」と言うと、エサウはこう言いました。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった」。ここでエサウは、「あのときはわたしの長子の権利を奪い」と言っていますが、第25章27節以下を読むと、エサウはヤコブにレンズ豆の煮物と引き替えに長子の権利を売ったのでありました。エサウは被害者意識たっぷりに、ヤコブが自分から長子の権利を奪ったと言っておりますが、「長子の権利などどうでもよい」と言って、主に誓ったのはエサウ本人であったのです。また、ここでエサウは、長子の権利と祝福を切り離して、区別して語っておりますが、これは本来一体的なものであります。少なくともヘブライ人への手紙の著者は、この二つを一体的に捉えております。ヘブライ人への手紙第12章14節から17節までをお読みします。新約聖書の417ページです。

 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 ここで、ヘブライ人への手紙の著者は、長子の権利と祝福を受け継ぐことを一体的に捉えています。ですから、長子の権利を、主に誓って、売ってしまったエサウには、祝福を受け継ぐ資格はないのです。長子の権利を譲り受けたヤコブこそ、父イサクの祝福を受け継ぐ資格があるわけであります。それゆえ、ヤコブは父イサクをだましてでも、祝福を受け継ぐ者となったわけです。もちろん、祝福を受け継ぐ資格があるからと言って、目の見えない父親をだましたことはほめられたことではありません。しかし、エサウの被害者意識一杯の主張にもかかわらず、長子の権利をエサウから譲り受けたヤコブこそ、父の祝福を受け継ぐ資格を持つものであったのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約聖書の44ページです。

3.声を上げて泣くエサウ

 エサウの「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか」という問いにイサクはこう答えました。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか」。このイサクの言葉から分かりますことは、主の祝福は取り消すことができないということであります。それでもエサウは父にこう叫びます。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん」。声をあげて泣くエサウに、父イサクは言葉を口にするのですが、それはもはや祝福と呼べるものではありません。「ああ、地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて。お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす」。ヤコブへの祝福は、「どうか、神が/天と露との地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように」という言葉でありましたが、エサウは、地の産み出す豊かなものから遠く離れた所に、天の露からも遠く隔てられて住む者となるのです。つまり、エサウは、またそのエサウから出るエドム人は乳と蜜の流れ出る土地カナンにではなく、荒れ野を住みかとするようになるのです。そして、主なる神にではなく、剣に頼って生きていくようになると言うのであります。ここに、「お前は弟に仕える」とありますが、これは、エサウとヤコブが生まれる前に、主がリベカに告げられた言葉でありました。それと同じこ言葉を、主はイサクの口を通して、エサウに告げられるのです。最後の「いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす」という言葉は、ダビデ王によって支配されたエドム人がソロモン王の時代に独立したことを反映していると言われます(列王下8:20~22参照)。私たちはイサクのエサウに対する言葉を通して、今となってはイサクがエサウに何もしてやれないこと、また祝福はたったひとつしかないことを教えられるのです。

結.イエス・キリストに受け継がれた主の祝福

 エサウは「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください」と叫びましたが、この叫びはエサウが祝福されればヤコブの叫びともなっていたはずです。祝福はたった一つしかないこと。家督を受け継ぐことができるのは一人だけであることに、そもそもの原因があるのです。しかし、今や、イエス・キリストにあってすべての人が神の祝福にあずかることができます。イエス・キリストを信じるならば、神の国を受け継ぐという祝福に誰でもあずかることができるのです。主の祝福はヤコブの子孫であるイエス・キリストへと受け継がれました。それはイエス・キリストにあってすべての人が主の祝福にあずかるためであったのです。だれもエサウのように声を上げて泣くことがないように、神様はイエス・キリストにあってすべての人を祝福してくださるのです。

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