リベカの計略 2013年3月10日(日曜 夕方の礼拝)

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リベカの計略

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 26章34節~27章13節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:34 エサウは、四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。
26:35 彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。
27:1 イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて、「息子よ」と言った。エサウが、「はい」と答えると、
27:2 イサクは言った。「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。
27:3 今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、
27:4 わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」
27:5 リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。
27:7 『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。
27:8 わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。
27:9 家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、
27:10 それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」
27:11 しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。
27:12 お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」
27:13 母は言った。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい。」創世記 26章34節~27章13節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今夕は、創世記の第26章34節から第27章13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.イサクの祝福

 第27章1節に、「イサクは年をとり、目がかすんでみえなくなってきた」とありますように、第27章はイサクの晩年のお話であります。自分の死を間近に感じていたイサクにとって、為すべきことが一つありました。それは自分の祝福を息子に与えるということであります。かつて学んだ第25章27節、28節に次のように記されておりました。「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した」。この御言葉は、今夕のお話の伏線となっているわけですが、年老いたイサクは、愛するエサウを、好物の獲物の料理を食べて祝福しようとするのです。イサクはエサウを呼び、「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持ってきてほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」と言うのです。イサクは「わたし自身の祝福」と言っておりますが、この祝福は父アブラハムから受け継いだ祝福であります。主はアブラハムを祝福し、さらにはその独り子であるイサクを祝福されました。そして、イサクはその祝福を、上の息子であるエサウに与えると言うのであります。アブラハムの祝福がイサクへと受け継がれたことは、それほど問題はありませんでした。なぜなら、イサクはアブラハムとサラの間に生まれた独り子であったからです。アブラハムと女奴隷ハガルの間に生まれたイシュマエルのことはありましたけれども、アブラハムとサラとの間に生まれたのはイサク一人だけであったのです。しかし、イサクとリベカの間に生まれたのはエサウとヤコブの二人の息子であったのです。しかも、この二人は双子でありまして、「上の息子エサウ」と言いましても、エサウが先に出てきたというだけであって、年は同じであったのですね。しかし、それでもエサウが「上の息子」「長男」でありますから、イサクはエサウに「わたし自身の祝福をお前に与えたい」と言うわけであります。私たちは第25章で、エサウがヤコブに一杯の煮物と引き替えに長子の権利を譲ってしまった、ということを学びました。ですから、イサクの祝福を受け継ぐべきはエサウではなく、ヤコブではないかと思うのですが、どうやらイサクはそのことを知らなかったか、気にも留めていなかったようであります。あるいは、長子の権利と祝福は別のものと考えられていたのかも知れません(36節参照)。ともかく、年老いたイサクは、上の息子で、愛するエサウに「わたし自身の祝福を与えたい」と言うのです。

2.リベカの計略

 かつてサラがアブラハムと三人の旅人の話を聞いていたように、リベカはイサクと息子エサウの話を聞いておりました。エサウが父イサクの言葉に従って、獲物を取りに野に行くと、リベカは息子ヤコブに、自分が聞いたことを伝えました。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。『獲物を捕って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と」。ここで、リベカは息子ヤコブに、イサクの言葉を伝えているわけですが、一箇所大きく異なるところがあります。それは、「主の御前でお前を祝福したい」という言葉です。イサクはエサウに「わたし自身の祝福をお前に与えたい」と言ったのでありますが、ここで、リベカは「主の御前でお前を祝福したい」と言うのであります。このように、リベカがイサクの言葉を言い換えたことは、リベカがイサクの祝福が主を源とする祝福であることを弁えていたことを教えております。イサクは「わたし自身の祝福をお前に与えたい」と祝福を自分自身のもの、自分の意志で与えることができるもののように言っておりますが、それはもともとは主を源とする、主から与えられる祝福であるのです。このことをリベカは弁えておりましたから、彼女はなんとしても、息子ヤコブを祝福された者としようとするのです。続けてリベカは息子ヤコブにこう言いました。「わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」リベカは夫イサクの目がかすんで見えなくなってきたことにつけ込んで、自分が作るおいしい料理をヤコブに持っていくように、そのようにして、エサウではなくヤコブが祝福された者となるようにと言うのです。これはひどい話です。母と子が手を組んで、目がかすんでみえなくなってきた父をだまそうと言うのですから。しかし、リベカがこれほどまでにヤコブに祝福された者となって欲しいと願ったのはなぜでしょうか?それは、リベカが二人の息子を産む前に、主からお告げを受けていたからです。第25章22節、23節に次のように記されておりました。「ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、『これでは、わたしはどうなるのでしょう』と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた。『二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる』」。リベカはこの主のお告げを聞いておりましたから、何が何でも弟息子のヤコブに主の祝福を受け継がせようとしたわけです。では、イサクはリベカからこの主のお告げについて聞いていなかったのでしょうか?おそらくリベカは、主のお告げを夫イサクにも伝えたと思います。しかし、イサクはそれを気にも留めなかったか、忘れてしまっていたのでしょう。ともかくイサクは、エサウの狩りの獲物が好物で、長男のエサウに自分の祝福を受け継がせたいと考えていたのです。

3.母リベカの覚悟

 リベカは、ヤコブに、「お父さんは目がかすんで見えなくなっているから、わたしが作ったおいしい料理をあなたが持っていけば、エサウだと思ってあなたを祝福してくださる」と言うのですが、ヤコブは母リベカに次のように言いました。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」。ここで、ヤコブは母リベカの言葉を聞いて、「とんでもない。そんなことはできません」とは言いませんでした。そうではなくて、「お父さんの目が見えなくても、手で触られたらだましているのがばれてしまう」と言うのです。「そうしたら、わたしは祝福ではなく、反対に呪いを受けてしまう」と心配しているのです。そのようなヤコブに、母リベカはこう言います。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、言って取って来なさい」。私たちはここに呪いを引き受けてでも、弟息子ヤコブに主の祝福を受け継がせたいと願う母リベカの強い思いを見ることができます。どうして、これほどまでに、リベカはエサウではなくて、ヤコブに主の祝福を受け継ぐ者となって欲しいと願ったのでしょうか?もちろん、先程も申しましたように、リベカは「兄が弟に仕えるようになる」という主のお告げを聞いておりました。しかし、それだけではなかったと思います。第26章34節、35節に、「エサウは、四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった」とありますように、エサウがヘト人の二人の娘を妻にしていたことと関係があるのではないかと思います。といいますのも、第27章46節でリベカはイサクにこう言っているからです。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません」。ヘト人の娘を妻に迎えるということは、家の中に異教徒の風習が入り込んでくるということであります。ですから、かつてアブラハムは、イサクの嫁をカナンの娘からではなく、自分の故郷から連れて来るように命じたわけです。そして、そのイサクの嫁がリベカであったわけであります。このように見てきますと、エサウがヘト人の娘を妻としたことを、イサクがよく許したなぁと思うのですね。イサクはエサウに自分の祝福を与えようと考えておりながら、エサウがヘト人の娘を妻とすることを許してしまうわけです。この点において、イサクとアブラハムは全く違います。むしろ、この点においては妻リベカの方が、アブラハムに近いのです。そして、エサウがヘト人の娘を妻として迎えたことは、エサウが長子の権利を軽んじたように、エサウが主の祝福を受け継ぐ者としてふさわしくないことを表しているのです。リベカの目にもおそらくそのように映ったのではないかと思います。それゆえ、リベカは呪いを受けることになったとしても、弟息子ヤコブに主の祝福を受け継がせたい願ったのです。

結.主の祝福を求める熱心

 私たちが今夕の御言葉で教えられますことは、母リベカが何としてでも弟息子ヤコブに主の祝福を受け継がせようとした熱心であります。そして、このような熱心を通して、「兄は弟に仕えるようになる」という主のお告げは実現していくのです。もちろん、肉体の弱さにつけ込み、人をだますことはほめられたことではありません。ヤコブも、母リベカも、そのようなことが呪われるべき悪であることを知っております。しかし、そのことを知りながら、二人は主の祝福を求めたのです。私たちもそのような熱心をもって、主の祝福を求め、主の祝福に生きる者たちでありたいと願います。

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